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‘真珠記念日’について
昨日(2013年07月12日)のこの弊ブログは、次のように締め括った。

1893年(明治26年)7月11日、実験中のアコヤ貝の中に半円真珠が付着している貝を発見。肝心の‘真珠記念日’については明日の記事で!

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http://www.mikimoto.com/jp/

(つづく)

そんな訳で、‘真珠記念日’について改めて・・・。

私が小学6年生の頃だから、昭和26年(1951年)で、もう62年も昔のことである。

当時は、戦後数年しか経っていなく、朝鮮戦争の真っ只中で、国民は食べて行くのにやっとという時代であったから‘真珠’を身に着ける人など普通にはいなかった。

真珠の‘まがい物’だって、そんなに‘科学・化学の技術’も発達・進展していなかったから、多分なかったに違いない。もっと言えば、もしも‘まがい物’があったとしたらそっちの方が珍重されて‘高価’だったかもしれないが、何せ私自身が小学6年生だったし、近頃の小学6年生と違って、‘情報量’が少ない時代だから‘真珠のまがい物’が出来たとしてもそのニュースを知る術もなかった。

何故、私が小学6年生の頃のことを話題にしたかというと、6年生の時の‘国語’の授業で

‘御木本幸吉’‘豊田佐吉’のことを教わったからである。

何といっても、この二人の‘日本の巨人’は、当時の小学生高学年以上の日本人なら誰だって知っていた!

‘国定教科書’で教えるのだから当然である。

‘豊田佐吉’、読みは‘とよださきち’であって、‘田’が‘だ’と濁って発音する。その発展が現在の‘トヨタ自動車’だから、何時からどんな理由で‘濁り’を止めたのか等々については別途検討したい。もう既にご承知の方も多いとは思うが、その辺はしっかりと改めて検討してこのブログで紹介する積りである!

さて、本日の‘話題’は、‘真珠記念日’

この歴史と現状の嘆きが、次の引用ブログに詳しい。

http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/ddcaba75b3d
e45adbcbb1a52e4b6c776

今日(7月11日)は、「真珠記念日」

1893(明治26)年、三重県鳥羽町の御木本幸吉夫妻が、初めて真珠の養殖に成功した。養殖場を始めてから3年目で、半円形ながら5粒の養殖真珠が収穫された。円形の真珠は1906(明治39)年に完成した。

真珠は貝の体内で生成される生体鉱物である。貝の種類によりさまざまな真珠があるが、加工が容易で美しい光沢に富む天然の真珠は、古くから、世界の人々に純潔と幸福のシンボルとして愛好されきた。この真珠は、約5000年前、既に、ペルシャ湾や紅海で採取された貝の中から発見されたと云われており、クレオパトラが美容を保つ為に酢に真珠を溶かして飲んだとか、秦の始皇帝が不老長寿の薬として探し求めたとか、あの有名な楊貴妃が真珠を粉末にして常用したとか昔から真珠にまつわる話は色々な物語の中にも出てくる。

「わが欲りし野島は見せつ底ふかき阿胡根の浦の玉そ拾はぬ」
我が国においても古く万葉集の中にも「あわび」「玉」「白玉」と読まれているものは、真珠の事であると言われており、古くからあった事が伺える。

御木本幸吉は、1858(安政5)年、三重県鳥羽市に生まれた。早くから起業家精神が旺盛だった幸吉は、1878(明治11)年東京、横浜、大阪、神戸といった都市へ視察旅行に出かけた時、真珠が高値で取引されるのを見て以来真珠に取り付かれ、翌1879(明治12)年、英虞湾神明浦で真珠母貝の養殖を始め、1890(明治23)年、東京上野で開催された第3回内国博覧会に母貝を出品した際に、水産学界の権威である箕作佳吉(みつくり・かきち) 博士と知り合い、アコヤ貝の中に砂などの異物が混入すると身を守るため真珠質を分泌して、異物を包み込みその層が厚みを増して真珠になるというアドバイスを受け、人工的に真珠を作り出す研究に取り組んだ。そして、アコヤ貝の殻の内面に半円形の真珠を作り出すことに成功し、1896(明治29)年、特許を取得。この成功をもとに、真円真珠を養殖真珠で作りだすための研究を続け核の周囲に真珠質を取り巻かせる方法によって真円の真珠を作り、世界で初めて養殖真珠の企業化に成功した。

以降、日本近海はアコヤ真珠の生息に適した環境であることが幸いし、三重県、愛媛県、熊本県、長崎県などを中心に、各地に養殖場が作られるようになったが、その当時、真珠は日本の庶民にとって高級品で、国内需要が殆どなく養殖真珠は、その殆どがアメリカを始め、ヨーロッパ各地に輸出されていた。当時の輸送手段は船であった為、真珠は各養殖場から比較的近くにある国際貿易港、神戸港から輸出された。又、真珠の選別や加工をする際の気候条件も適していることから、神戸には多くの真珠会社が設立され、各養殖場から産出された真珠の殆どが神戸に集まってくるようになった。現在でも、神戸は日本の真珠加工・流通の約80%のシェアを誇り、輸出は勿論、国内向けも、その殆どが神戸から流通していると言っても過言ではない。
真珠と言えば日本そして、神戸だった。しかし、今、その日本の真珠、神戸の真珠業界がピンチに立っているようである。

田崎真珠社長の田崎俊作氏は、以下のように言っている。
日本の真珠の品質の良さが世界から評価された背景には、養殖技術、加工技術の高さに加えて、制度面にもあり、「真珠養殖事業法」は、神戸ですべての輸出品のチェックを義務づけ、「質の低い製品を排除し、真珠の信頼を保つ役割があった」(日本真珠輸出組合)という。しかし、阪神大震災での震災復旧下の1998(平成10)年、規制緩和の中で「同法」が撤廃され、輸出前の品質検査がなくなった。そのため、「以前なら商品になるのは全生産量の三割にすぎなかったものが、それまでの水準以下の真珠でも売れるようになった」。調度、アコヤ貝の感染症で品薄に苦しんだ時期でもあったらしい。それで、それまで市場に出なかった真珠が流入し、高品質商品の価格までが低下した。企業ブランドを守るため企業単位での品質標準は保たれたが、神戸の真珠業界は、世界が認めた標準を失った。

今やタヒチやオーストラリアなどで生産される黒蝶や白蝶、中国産の淡水真珠は、生産量でアコヤと肩を並べる。世界の真珠となった今、各国の利害がぶつかり合う中、“お墨付き”を求めて集まっていた真珠は神戸を離れていったと言うのである。困ったものだね~。一度信用を失うと、その信頼回復は難しい・・・。なんでもそうだが、そのとき限りの変な妥協はしないことが大切だよ・・・。

6月の誕生石が真珠であることから・6月1日を日本真珠振興会が「真珠の日」に制定している。


真珠王・御木本幸吉について

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%9C%A
8%E6%9C%AC%E5%B9%B8%E5%90%89

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http://www.pref.mie.lg.jp/tokyo/hp/yukari/14.htm

御木本 幸吉(みきもと こうきち、安政5年1月25日(1858年3月10日) - 1954年(昭和29年)9月21日)は真珠の養殖とそのブランド化などで富を成した人物である。御木本真珠店(現・ミキモト)創業者。真珠王と呼ばれる。

生涯[編集]

誕生[編集]

志摩国鳥羽浦の大里町(現・三重県鳥羽市)で代々うどんの製造・販売を営む「阿波幸」の長男として生まれた。父は音吉、母はもと。幼名は吉松と名付けられた。父は商売よりも機械類の発明・改良に関心があり、1881年(明治14年)には粉挽き臼の改良により三重県勧業課の表彰を受け賞金100円を授与されている。祖父・吉蔵は「うしろに目があるような人」と言われたように、先が見え商才に恵まれていた。大伝馬船を10艘も持ち石材の運送で儲ける一方、家業のうどん屋のほか薪、炭、青物などの販売を手広く営み財をなしたと伝えられる。幸吉が晩年、「三つ子の魂は祖父に育てられた」と述懐している。正規の教育は受けていないが、明治維新によって失業した士族の栗原勇蔵、岩佐孝四郎らに読み書きソロバン、読書などを習った。
商才と向上心と社交性[編集]
早くから1杯8厘のうどんでは身代を築くのは無理と分かっていたようで、14歳で家業の傍ら青物の行商を始める。大きな目標を掲げる事で自分自身に課題を与え自らを鼓舞するところがあり、時として大法螺吹きといわれた。足芸(仰向けに寝て足の平で蛇の目傘を回す芸)の披露で、英国の軍艦・シルバー号へ青果や卵を売り込むのに成功した。また、マスコミを利用する点では今で言うヤラセにあたるような事も考え出し実行するような勇み足もあったともいわれている。

真珠に到る助走路[編集]

1876年(明治9年)の地租改正で、納税が米納から金納に変わったのを機会に米が商売の種になるとみて青物商から米穀商に転換。1878年(明治11年)には20歳で家督を相続、御木本幸吉と改名する。同年3月東京、横浜への旅により天然真珠など志摩の特産物が中国人向けの有力な貿易商品になりうることを確信、海産物商人へと再転身した。海産物商人としての幸吉は自らアワビ、天然真珠、ナマコ、伊勢海老、牡蠣、天草、サザエ、ハマグリ、泡盛など種々雑多な商品を扱う一方、志摩物産品評会、志摩国海産物改良組合の結成などに参加、地元の産業振興に尽力した。その後、志摩国海産物改良組合長、三重県勧業諮問委員、三重県商法会議員、などを務め地元の名士になっていた。

時代の転換期に[編集]

幸吉の飛躍の始まりは明治維新という時代背景がきっかけである。職業選択の自由、身分を越えた結婚が可能になり富国強兵のスローガンの下で海国日本の殖産興業政策により1882年(明治15年)、大日本水産会が創設された。1881年(明治14年)、結婚。妻・うめは当時17歳。鳥羽藩士族・久米盛蔵の娘で新しい学制の小学校とその高等科をでた才女であり、維新以前ではこの結婚は考えられなかった。1883年(明治16年)、父・音吉が54歳で死去。

アコヤ貝の養殖[編集]

世界の装飾品市場では、天然の真珠が高値で取引されており海女が一粒の真珠を採ってくると高額の収入を得られる事から、志摩ばかりでなく全国のアコヤ貝は乱獲により絶滅の危機に瀕していた。この事態を憂慮して1888年(明治21年)6月、第2回全国水産品評会の為上京した折、主催者である大日本水産会の柳楢悦を訪ね指導を仰いだ。幸吉は同年9月11日に貝の養殖を開始したが、真珠を生まない限り商品としての価値が低く経費倒れに終わった。この為発想を転換し「真珠の養殖」を最終目的に変え、その過程でアコヤ貝の生態を調べながら貝の養殖をすることで当初の目的が採算的にも果たされる事を計画。この目的の為に柳の紹介で東京帝国大学の箕作佳吉と当時大学院生だった岸上謙吉を1890年(明治23年)に訪ね、学理的には養殖が可能なことを教えられた。

外国での養殖例[編集]

中国で実際行われた方法は1167年に公刊された「文昌雑録」巻第一にその記述がある。仏像真珠(胡州珍珠)と称されて、中国浙江省で養殖され続けてきたものである。人工で作った珠を貝の中に入れるという方法で、貝付き真珠、一種の半円真珠である。この仏像真珠に関しては中国に滞在したキリスト教の神父B.E.X.Entrecollesが1734年にフランス本国に報告している。また、英国人のD.T.MacGowanは1853年にこの方法を詳しくロンドンの芸術協会に報告している。これらの報告により欧州では多数の人々が研究実験を行った。
日本では、1881年(明治14年)11月発行の海産論に中国の仏像真珠が図示されていることでもわかるように、欧州経由での中国の方法が公知されており、課題は真珠養殖の産業化であった。産業化という国家の要請を背景に、幸吉の情熱と周囲の協力体制での取り組みが結果的に勝っていた事になる。

養殖実験開始[編集]

1890年(明治23年)、神明浦と相島(おじま、現在のミキモト真珠島)の2箇所で実験を開始した。この時小川多門、猪野三平等が協力した。問題は山積しておりアコヤ貝についての問題、どんな異物を貝に入れるか、貝は異物を吐き出さないか、貝は異物を何処に入れるか、その結果死なないか、貝そのものの最適な生育環境、赤潮による貝の絶滅への対応策等々である。その他の問題としては、海面及び水面下を利用する為の地元漁業者や漁業組合との交渉や役所との折衝には大変な苦労が伝えられている。
1891年(明治24年)、農商務省技手・山本由方による厳島(広島県)での真珠養殖実験を直接見聞。この時のアコヤ貝は英虞湾から幸吉らが移送に協力した。
1892年(明治25年)7月、東京帝大の佐々木忠次から貝の生存環境・養成上多くの示唆を得た。

縁者の協力[編集]

1893年(明治26年)7月11日、実験中のアコヤ貝の中に半円真珠が付着している貝を発見。

1896年(明治29年)1月27日、半円真珠の特許(第2670号)取得で世の中に認知された第一歩となった。同年4月21日、妻・うめ32歳で死去。開拓者として当然の事ながら周囲は途方も無い事と感じ直接的に幸吉の作業を手伝う者は身近な親族だけであったが、特許取得をきっかけにまず親族が積極的に関わった。妻の実兄・久米楠太郎、幸吉の実弟(二男)・御木本松助夫妻、幸吉の実弟(三男)・森井常蔵夫妻、須藤卯吉、1897年(明治30年)秋には幸吉の実弟(五男)・斎藤信吉、1899年(明治32年)には竹内久吉、(猪野三平の子息)猪野若造、藤田嘉助、大谷幸助らが従業員として田徳島に移住、「海のものとも山のものともわからぬ事業に一身をかける人間は身内以外にはいなかった」と幸吉の四女・乙竹あいが後に語っている。対して、大林日出雄『御木本幸吉』によれば「ヒモのつく恐れのある出資は彼の事業独占を制約することがある」と考えたのではないか、書かれていて、幸吉が大口出資を断った事実があることを記している。
その他研究には元歯科医だった桑原乙吉、次女みねの夫・西川藤吉が加わる。西川は東京帝大動物学科卒、農商務省に在籍し、箕作の下で真円真珠の科学的研究を行っていたが、1905年(明治38年)の赤潮の調査をきっかけに御木本の元で研究をはじめた。しかし1909年(明治42年)6月、35歳で死去。同時代の研究者に見瀬辰平、西川藤吉の研究を引き継いだ藤田輔世、藤田昌世らがいる。

出店の歩み[編集]

1899年(明治32年)、東京・銀座裏の与左衛門町に御木本真珠店を開設する。
1901年(明治34年)、東京・銀座の元数寄屋町に御木本真珠店を移転する。
1903年(明治36年)、東京・銀座四丁目に御木本真珠店進出。市川源次郎金細工工場を御木本下請け工場として、京橋区築地に移転。
1903年(明治36年)、市川源次郎金細工工場を買収し御木本金細工工場とする。
1916年(大正5年)、中国視察にでかけ、上海支店を開設。
1927年(昭和2年)、ニューヨーク支店開設。
1928年(昭和3年)、ロンドンのリーゼント街に小売店開店。
1929年(昭和4年)、パリ支店開設。
1931年(昭和6年)、ロサンゼルス支店開設。
1933年(昭和8年)、シカゴ支店開設。

特許取得[編集]

1896年(明治29年)、特許第2670号真珠素質被着法の特許権を取得した。半円真珠の特許といわれているものである。
「真珠と甚だしく等差のない物質、例えば貝殻、硝子、陶磁器または下等の真珠を球形の小粒と成したるものを核となし、これを球のまま、または一部切り落としを設けてその転動することを防ぐようにし食塩にて振揺するか又は濃厚な食塩水に浸したあと、生活せる貝の外套膜に接して挿入し、この核に真珠質を被着せしめ真珠を形成せしむるにあり」(特許第2670号 明治29年1月27日 明治27年11月出願)
この特許取得によって真珠事業の独占が可能となり、御木本は他の事業を整理し、真珠事業に専念することとなった。この後、これにならって真珠養殖を行う者が現れ、御木本は北村幸一郎他2名を特許侵害で訴えたが大審院で無罪判決が下った。裁判の過程でこの特許の大部分は御木本が出願した以前から公刊物により周知の事実であったとされた。この無罪判決によって、御木本幸吉の独占の時代が終わり、真珠養殖が大きく広まったとされる。紛争は続いたが特許の存続期間が終了して問題はなくなった。
1916年(大正5年)、特許第3002号真珠素質被着法の特許権を取得。
「本発明は適宜の核を貝の真珠素質分泌細胞組織の皮膜に被包し之を生活せる真珠貝の外套膜の表皮を剖き其部分に密接して圧着し適当時間之を放置したる後海中に放養するときは植皮的に付着発育せしめて容易に真珠袋を形成せしめ核を排出することなく完全なる球形真珠を作り得るにあり。(下略)」(特許第3002号 大正5年9月11日、大正5年5月3日出願)
なお真円真珠についての特許は御木本の次女の婿である西川藤吉が出願し、相続人である西川真吉が取得したものがある。また桑原乙吉の発明が御木本幸吉名義で出願登録されたものも多い。
御木本幸吉が取得した主要な特許をたどると、
半円真珠から真円真珠に到る特許
特に半円真珠に関わる加工上の特許(容飾真珠)
アコヤ貝養殖方法に関する特許(養殖籠・海底いけ籠)
1924年(大正13年)、母貝が子貝を生み育てる為の《仔蟲(しちゅう)被着器》の特許(この発明によって、アコヤ貝の全滅を救う当初の目的が達成されるようになった)
がある。

人々の協力[編集]

1896年(明治29年)4月の妻・うめの死は痛手であったが、天性の社交性と熱意により多数の人々が幸吉を応援している。養殖に関して一目置いていたのは、7歳年下の小川小太郎(1865年 - 1889年)であった。小川は早くから真珠の養殖に関心を持ち実験もしていたが、24歳の若さで没した。
志摩国答志郡の郡長であった河原田俊蔵は勧業に熱心だった事から勧業郡長とあだなされ、柳に紹介状を書いてくれた。
親友の四日市の万古焼商人だった川村又助はアコヤ貝の中に入れる核の製造に関し協力を惜しまなかった。藤田四郎(1861年 - 1934年)は同郷で藩校・尚志館の句讀師(漢学者)龍蔵の四男、東京帝大卒、農商務省特許局長で(のち事務次官、日本火災社長、台湾精糖社長)、宮内省御用達となる際の保証人になった。
他にも愛知県出身の農商務省局長・織田一(1865年 - 1914年)、埼玉県深谷出身の財界の重鎮・渋沢栄一は幸吉の渡米にあたって発明王・エジソンらに紹介状を書いた。エジソンとの会見では、真珠養殖を驚嘆すべき発明と讃えられたことに対し幸吉はエジソンを巨星に例え、自分は数ある発明家の星の一つに過ぎないと返答したと伝えられている。土佐出身の森村市左衛門は1875年(明治8年)、森村組を創設し日米貿易協会長、日本銀行監事などを務め、当時対米貿易の第一人者といわれていた。その組織を通じて輸出市場の調査や販売の拠点作りに協力した人など多くが助力した。

量産体制[編集]

1918年(大正7年)、様々な技術的実証の実験の中から良質な真珠が大量に得られるようになった。翌年にはロンドンの宝石市場にも供給できるようになったが、1921年(大正10年)、ヨーロッパの宝石商が天然真珠と見分けのつかない養殖真珠をニセモノ、つまり詐欺であると断定した騒ぎから訴訟に発展し、御木本側ではイギリスではオックスフォード大学のリスター・ジェームソン、フランスではボルドー大学のH・L・ブータンなどの権威者を証人として正論を述べる等して対抗。イギリスの宝石商は訴訟を取り下げたが、フランスは粘り強く拒否を続けた。1924年(大正13年)5月24日、パリで起こした真珠裁判にて天然と養殖には全く違いが無かったという判決を受け全面勝訴した。1927年(昭和2年)、フランスの裁判所から天然と変わらぬものとの鑑定結果の通知を受け、ようやく世界に認められる宝石となった。生産地も次第に英虞湾を中心とする志摩地方だけでなく、全国的に広げていった。1949年(昭和24年)、真珠養殖事業による国際親善に対して中日文化賞受賞[1]。一方、この真珠の量産体制は、当時、天然真珠の輸出を最大の事業としていたクウェートなどの中東諸国の経済を完全に破壊し、多数の餓死者を生み出した。中東諸国は、真珠に頼らない経済を模索し、油田開発を後押しした。
幸吉は真珠と真珠貝の養殖成功にとどまらず、真珠を宝石市場の中心に位置させる為のあらゆる努力を惜しまなかった。

大往生[編集]

1954年(昭和29年)9月21日、御木本幸吉は老衰のため96歳で死去した。持病は胆石があったようで、看病の為に住み込みで身の回りの世話をした女医の話によると「真珠王と言われる方が、あまりにも質素な食事をしておられた事」に驚いたし待遇もしかりという次第であったようである。当時は朝鮮戦争が終わって景気は悪くなかったがまだ米穀通帳やら外食券食堂があり、旅行には米を持参する時代であった。戒名は真寿院殿玉誉幸道無二大居士。

家族[編集]

幸吉の一人息子・隆三(1893年 - 1971年)は一高時代に英国の思想家ジョン・ラスキンの著作に出会い、オックスフォード大学留学でラスキンの研究に情熱を注ぎ銀座に開設したラスキン文庫内の喫茶室・ラスキンルームのメニューに《ラスキンサンドウィッチ》と記す程の思い入れが強かった。更に銀座一丁目に「ラスキンカテッジ」、渋谷道玄坂に「ラスキンガーデン」、銀座五丁目に「ラスキンホール」等と次々と開設、しかし1937年(昭和12年)に破産、禁治産者申請へと至っている。
四女あい(1889年12月20日‐1983年2月21日)の夫は、教育学者の乙竹岩造[2]。

天皇との逸話[編集]

1905年(明治38年)、幸吉はそれまでの真珠養殖の研究が認められ、明治天皇に拝謁する栄誉を与えられた。真珠の養殖はまだ完璧ではなく発展途上の段階であったが、幸吉は天皇に対し「世界中の女性の首を真珠でしめてご覧に入れます」と大見得を切り、周囲の人間を大いに慌てさせたが、幸吉はその後、真珠の養殖技術を完成させ、見事その言葉を実現させた。
また、第二次世界大戦後、日本各地を行幸した昭和天皇が幸吉の所を訪れた際、93歳だった幸吉は「あんた、よく来てくれました。ありがとう、ありがとう」と言ったとされている。現人神だった天皇が人間宣言をし、それを独自の社交性をもって迎えた逸話として知られている。昭和天皇も、そんな幸吉に親近感をおぼえたと言われている。



エピソードと記念すべき作品

1878年(明治11年)家督相続により御木本幸吉と改名
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http://www.mikimoto-pearl-museum.co.jp/pearl_king/index.html
若い頃の御木本幸吉(幼名:吉松)

1926年(大正15年)欧米視察へ出発
フィラデルフィア博覧会に「五重の塔」を出品(68歳)
goju.jpg
http://www.mikimoto-pearl-museum.co.jp/pearl_king/index.html

1932年(昭和7年) 神戸で粗悪真珠を焼却/良品販売の模範を示す(74歳)
kasou.jpg
http://www.mikimoto-pearl-museum.co.jp/pearl_king/index.html
真珠の火葬

1937年(昭和12年)パリ博覧会に「矢車」を出品(79歳)
yaguruma.jpg
http://www.mikimoto-pearl-museum.co.jp/pearl_king/index.html

1939年(昭和14年)
ニューヨーク博覧会に「自由の鐘」を出品(81歳)
jiyunokane.jpg
http://www.mikimoto-pearl-museum.co.jp/pearl_king/index.html

この作品は、昭和14年に作製されたというから満74歳! 私と同い年である!

上記工芸品3点、「五重塔」、「矢車」、「自由の鐘」は、現在‘御木本真珠島’の真珠博物館二階展示室に展示されている。

一度是非見学して見たい!

http://www.mikimoto-pearl-museum.co.jp/pearl_king/ana.html
世界中の女性の首を真珠でしめてごらんにいれます
goroku18.jpg

 これは、明治38年、伊勢神宮に行幸された明治天皇に拝謁した御木本幸吉が陛下に申し上げた言葉です。幸吉はこの頃、すでに半円真珠の養殖に成功しており、さらに真円の真珠を求めて研究を重ねていました。真珠養殖の成功をきっかけに、今でこそ、幸吉の言葉どおり真珠は私たちの身近な存在となりましたが、それ以前、真珠を身につけることができたのは、貴族や大金持ちなどごく一部の限られた人々だけでした。



上記の通り、「真珠記念日」(7月11日)、「真珠の日」(6月1日)は、同じ‘真珠’に纏わる記念の日なのであるので間違い易いが別の日である。

真珠市場の現状は、上記の通り、一種の‘規制緩和’状態にあるために‘品質の劣化’で‘真珠のピンチ’状態という!

御木本幸吉翁が存命だったら、どんなに嘆かれるだろうか?!

(つづく)
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