孫が来た!
昨日(2013年12月27日)夜遅く、孫が来た!
孫は二人で、高一と中二の男の子で、長女の息子達である。
二人とも野球に熱心で、背丈は上の子には、もうとっくに抜かれているが、下の子には遂に追いつかれた!

背丈と足の大きさは必ずしも比例はしないが、靴の大きさを見れば大凡の背丈は想像出来る。

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男4人の靴だけ、クローズアップして見ると・・、

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孫の父親の靴がどれかは知らないが、もう追いつかれている!

私の靴が左下で、26cmだから、みんな28cmは越している。

昔から大きな足の人には「泥棒の様な足だね!」と良く言ったものだが、泥棒と足の大きさについてWEBで調べてみたが、どうやらそんな関係はないみたい!

一寸悔しいから、泥棒雑学について・・・。

http://ameblo.jp/candypopkiss/entry-10538653064.html
世界の大泥棒の雑学

2010年05月19日 00時49分49秒
テーマ:雑学

★:“日本 左衛門(にほん ざえもん)”は「白波五人男(しらなみごにんおとこ)」の中で唯一実在した大泥棒だ。藩の侍や金持ちの商人はおそうが、庶民には手を出さない、全国に指名手配されて自首する潔さ(いさぎよさ)等が江戸っ子の気風に合って人気者となった。
白波五人男 稲瀬川勢揃いの場の口上
●:日本 左衛門(にほん ざえもん) (歌舞伎では日本駄右衛門(にほん だえもん))
○:問われて名乗るもおこがましいが、産まれは遠州浜松在、十四の年から親に放れ、身の生業も白浪の沖を越えたる夜働き、盗みはすれど非道はせず、人に情を掛川から金谷をかけて宿々で、義賊と噂高札に廻る配附の盥越し、危ねえその身の境界も最早四十に、人間の定めはわずか五十年、六十余州に隠れのねえ賊徒の首領日本駄右衛門。
○:白波五人男の一人で元武士の義賊。盗みはすれど非道はせず、日本六十余州を股に掛けて荒らし回ったことから日本駄右衛門と呼ばれるようになった。鎌倉の呉服屋・浜松屋を狙い、全財産を奪おうとするが、浜松屋の息子が自分の実子であり、弁天小僧菊之助が浜松屋の実子であると知って去る。 史実では尾張家の浜島友右衛門の子で、身持ちが悪く勘当され、天竜川西岸を本拠に盗賊団を結成、東海道一帯を荒らし回った。延享3年には江戸から出張した捕吏の手を逃れたが、翌年1月に京都町奉行に自首、江戸に送られて3月11日に斬首された。
●:弁天小僧 菊之助(べんてんこぞう きくのすけ)
○:さてその次は江の島の岩本院の児あがり、ふだん着慣れし振袖から髷も島田に由井ヶ浜、打ち込む浪にしっぽりと女に化けた美人局、油断のならぬ小娘も小袋坂に身の破れ、悪い浮名も竜の口土の牢へも二度三度、だんだん越える鳥居数、八幡様の氏子にて鎌倉無宿と肩書も、島に育ってその名さえ、弁天小僧菊之助。
○:白波五人男の一人。相模国江ノ島の生まれで、女装を得意とする。自分が殺した信田小太郎になりすまし、小山判官家の千寿姫をかどわかして胡蝶の香合を奪い取る。その後日本駄右衛門の配下となり、駄右衛門の策略で南郷と共に女装して浜松屋に乗り込むが、駄右衛門が変装した武士に見破られ、大見得切って正体を明かす。しかし浜松屋が実父であって実は小山判官家に仕えていたと知り、帰参に必要な胡蝶の香合を探すことになる。やっとの思いで香合を見つけたものの、捕り手に囲まれて香合を川に投げ込み、極楽寺の山門の上で立ち腹を切って果てた。
●:忠信 利平(ただのぶ りへい)
○:続いて次に控えしは月の武蔵の江戸そだち、幼児の折から手癖が悪く、抜参りからぐれ出して、旅をかせぎに西国を廻って首尾も吉野山、まぶな仕事も大峰に足をとめたる奈良の京、碁打と言って寺々や豪家へ入り込み、盗んだる金が御嶽の罪科は、蹴抜の塔の二重三重、重なる悪事に高飛びなし、後を隠せし判官の御名前騙りの忠信利平。
○:白波五人男の一人。登場した時から日本駄右衛門の配下。昔赤星家に奉公し、金を持ち逃げした忠信伝蔵の息子。小山判官家乗っ取りを企む悪党一派から小山判官家の千寿姫と信田小太郎(実は弁天小僧)を救ったと見せかけて、ゆすりを働こうとした。
●:赤星 十三郎(あかぼし じゅうさぶろう)
○:またその次に列なるは、以前は武家の中小姓、故主のために切り取りも、鈍き刃の腰越や砥上ヶ原に身の錆を磨ぎなおしても抜き兼ねる、盗み心の深翠り、柳の都谷七郷、花水橋の切取りから、今牛若と名も高く、忍ぶ姿も人の目に月影ヶ谷神輿ヶ嶽、今日ぞ命の明け方に消ゆる間近き星月夜、その名も赤星十三郎。
○:白波五人男の一人。信田家の中小姓だったが、お家のために百両盗もうとして捕まって勘当され、腹切ろうとしたところを因縁ある忠信利平に救われる。利平がだましとった件の百両を受け取り、利平の紹介で日本駄右衛門の配下となった。
●:南郷 力丸(なんごう りきまる)
○:どんじりに控えしは、潮風荒き小ゆるぎの磯馴の松の曲りなり、人となったる浜そだち、仁義の道も白川の夜船へ乗り込む船盗人、波にきらめく稲妻の白刃に脅す人殺し、背負って立たれぬ罪科は、その身に重き虎ヶ石、悪事千里というからはどうで終いは木の空と覚悟は予て鴫立沢、しかし哀れは身に知らぬ念仏嫌えな南郷力丸。
○:白波五人男の一人。相模国江ノ島の生まれで、弁天小僧菊之助の兄貴分。二人一緒に日本駄右衛門の手下となり、駄右衛門の策略で女装した弁天小僧と二人で浜松屋に乗り込んだ。

★:“石川 五右衛門(いしかわ ごえもん)”が、釜ゆでの刑になったのは、“豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)”の寝室に押し入ったから。若い頃グレていた石川五右衛門は、お坊さんから忍びの術を習ったのをきっかけに、忍術の達人“百地 三太夫(ももち さんだゆう)”のもとで修行、大泥棒となった。

★:徳川家の葵の御紋の入った提灯(ちょうちん)を下げていたのは、大泥棒の“葵小僧(あおいこぞう)”。神出鬼没な上に大胆な盗みを働く葵小僧を捕まえたのが、江戸時代の特別警察ともいえる火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)の“長谷川平蔵(はせがわ へいぞう)”で、10日後には晒し首(さらしくび)になっていた。

★:“宮元 武蔵(みやもと むさし)”に仕込まれた強さを誇るのが、伝説の盗賊“幸崎 甚内(こうざき じんない)”だ。武芸が達者なうえに身軽で力持ちで、向かうところ敵なし。最後は持病だった熱病の発作を起こし、見張りの役人にあえなく御用となってしまった。

★:和服を作る仕立て屋(したてや)の修行を真面目にやっていながらスリに転身したのが“銀蔵(ぎんぞう)”。スリの大親分“清水の熊蔵(しみずのくまぞう)”の娘との結婚をきっかけに、その跡目を継いで“仕立て屋銀次(したてやぎんじ)”と名乗り、全盛期には3000人の子分を従えていた。

★:“伊藤 保(いとう たもつ)”は、服役中にも鎖から懐中時計を外す「茄子輪外し(なすわはずし)」を仲間から習う程の熱心な前科30犯、逮捕歴41回のスリだ。農林省に勤める真面目な息子は、父親の犯罪を新聞で知り、これを苦に自殺してしまった。

★:明治時代に活躍した“渡辺 銀平(わたなべ ぎんぺい)”の子分の中でも四天王に数えられるのが“木鼠の喜久蔵(きねずのきくぞう)”だ。この土蔵破りの大物は、東京を中心に、埼玉、群馬、福島等で、今のお金だと15億円以上も盗みまくっていたのだ。

★:母親が窃盗犯で、その服役中に生まれたという“妻木 松吉(つまき まつきち)”。自分が押し入った先で「用心の為に犬を飼え」等という元祖・説教強盗だ。おかげで都内の金持ち連中は競って犬を飼い始めた。

★:日本で初めて犯罪に青酸カリを使ったのは“鵜野州 武義(うのす たけよし)”という泥棒だ。1935年11月、ある喫茶店で、青酸カリ入りの紅茶を飲んだ客が苦しんで店内がパニックになっている隙に現金を奪って逃げて行った。

★:“巾着屋の 豊(きんちゃくやの とよ)”と言えば明治時代のスリ界では知らない人は居ない程の大親分。汚い身なりではかえって金持ちに警戒されると、子分達にも若旦那や商人風に変身させて、スリ取る金額が大幅にアップしたという。

★:“袴垂 保輔(はかまだれ やすすけ)”は平安時代の泥棒だ。度胸と力があり、俊足なうえに思慮深い事から泥棒のくせに好人物という評判だった。皇室とも縁が深い名門の出身で、“藤原 保昌(ふじわら やすまさ)”の弟だという説もあながち嘘ではなさそうだ。

★:“蜘蛛の陣十郎(くものじんじゅうろう)”はビル荒らし専門の泥棒だ。若い頃にサーカスの曲乗りをしていた事から身が軽く、手足の指の握力が強く、ビルの壁を素早く昇り降り出来る事から警視庁の担当者につけられたニックネームだ。

★:京都のお寺から1360点もの名宝が盗まれたのは昭和初期の事だ。盗んだのは古美術マニアの京都帝国大学医学部勅任教授で、正四位勲三等医学博士という立派な先生。

★:“宮様小僧(みやさまこぞう)”こと“笹崎 晋作(ささざき しんさく)”は、明治、大正、昭和と、泥棒家業一筋に生きた本格派だ。その秘訣は、どんなに大きな屋敷で飼われている番犬でも、あっという間に手なずけて、難なくお宝を盗みだす事が出来たからだ。

★:何度も刑務所を出入りしているうちに、刑務所のすぐ側に家を建ててしまったのが「ムショの殿様」こと“金子 一城(かねこ いちじょう)”だ。この家で泥棒の紹介業をはじめ、前科者の面倒をみているうちに、殿様の風貌を身に付けていった。

★:“ディック・ターピン”はロンドンっ子の賞賛を浴びた大泥棒。ある時に逃走中に乗っていた馬が足の骨を折り倒れてしまった。ディック・ターピンはこの時、逃げるのも忘れて泣きながら、その場に座り込み逮捕されたのだ。

★:1gが今のお金で100万円以上と、金の1000倍も高価だったのがエジプトのミイラ。考古学的な価値ではなく不老長寿の薬と中世ヨーロッパでは信じられていたからで、ミイラ専門の墓泥棒も多かった。

★:今の法律では、人に気付かれない泥棒の方が強盗より罪が軽い。ところが中世ヨーロッパでは、強盗は立ち向かって撃退する事が出来るが泥棒は出来ないという理由から、泥棒の方がはるかに重罪だった。

★:裸一貫からローマ法王にまで上りつめた“ドン・ペトロ”は、実は泥棒だった。若い頃にキリスト教の僧侶と共に招かれたパリの画家のアトリエで盗みの現場を押さえられ、蹴飛ばされたうえに叩き出されたという。

★:泥棒の中でも、スリは技術を競う職人的なところがある。剃刀(かみそり)で服やバッグを切り開いたり、酔っ払いから盗むのは最低ランク。まして、暴力を使うのは論外で、スリ取って現金だけを奪って財布を返せれば名人クラスだ。

★:イギリス犯罪史上最大の列車強盗事件の被害総額は当時のレートで27億円というから桁外れだ。主犯格をつとめたのは、当時活躍していた大泥棒の“ダグラス・ゴードン・グッディ”で、たった28分での犯行だ。

★:泥棒はどんな理由があっても犯罪だが、例外は戦争の時だ。戦争で人間を殺しても殺人罪に問われないのと同じで、敵国の武器弾薬、財宝等、何を奪っても強盗や窃盗の罪に問われない。

★:1970年代の後半に、村民全員が墓泥棒だと分かったのはエジプトのクルド村だ。きっかけは、古代エジプトの貴重な遺品を発掘した時に、その分け前に不満を持っていた長兄が密告したからだといわれている。

★:アメリカの作家、“O.Henry(O・ヘンリー(本名はウィリアム・シドニー・ポーター(William Sidney Porter)))”は会計係として勤めていた銀行で盗みを働き3年間の刑務所暮らしを経験している。その時、獄中で書いた小説が世に認められたのだから、泥棒より小説家が性に合っていたようだ。

★:白いシャツに白いズボン、羽の付いた黒い帽子に黒のブーツという目立つファッションで馬に乗って盗みを働いていたのが“ハイドウック”。14~15世紀のルーマニアで、貧しい人に恵む義賊として絶大な人気があった。

★:英国人名事典に載る程の大泥棒である“ジョナサン・ワイルド”。盗むだけでは気が済まず、「盗難品取戻所(とうなんひんとりもどしじょ)」という看板を掲げて(かかげて)、盗んだ物を元の持ち主に売りつけ、この方法でオランダに支店まで持っていた。


残念ながら、上の引用文の中にも、‘泥棒と足の大きさ’についてのコメントは見つからない!

それじゃあ、‘ドロボー’のことを何故‘泥棒’と言うかって?

そ・れ・は・ね!

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1213657877
‘どろぼう’の語源は?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A5%E6%A3%92
からの引用ですが、定説は無いようで有力な説を抜粋します。
「押収坊(おしとりぼう)」が「とりぼう」となり訛った
「盗る暴」が訛ったものである - 曲亭馬琴が「燕石雑志」に著した説
「盗みをした坊主」の省略形「盗る坊」が訛ったものである
顔を隠すために泥を塗り、見つかった際に抵抗する為に棒を所持していたから
「盗り奪う」が名詞化したもの
「泥」には欲に溺れた人、不埒者、穢れた者という意味があり、人を表す「坊」を付けて泥坊と書いた。泥棒は当て字である
引き戸の溝に泥を流し込むことで戸締りに使用していた棒を浮かせたから。または泥と棒を使って音を立てずに雨戸を開けていたことから

とのことです。


だそうだ!

(つづく)
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[2013/12/28 23:03] | 仰天! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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