この頃の東京・日本橋界隈 (その3)
日本に最初に銀行を創ったのは、渋沢栄一である。ただし、その最初の銀行は、現在の‘日本銀行’ではなく、‘第一国立銀行’である。更に‘ただし’であるが、この‘第一国立銀行’は、民間の銀行で、現在の‘みずほ銀行’である。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1192954641
渋沢栄一の第一国立銀行というのは国立と言う意味ではありません。国立銀行法という法律に基づいた銀行という意味です。ですから全くの民間の銀行です。一番最初だったから第一です。この法律に基づいた銀行が次々と創られましたが登録順に百五十三銀行まで創られました。
松方正義の日本銀行は日本銀行法に基づく国の中央銀行です。これが現在の日本銀行です。



渋沢栄一銅像
‘Google’マップ 上図のが渋沢栄一銅像

日本東京都千代田区東京駅 - Google マップ-10001
‘Google’マップ この画面の上部・中央右よりの建物が日本銀行。日銀の南側の建物は、ご承知の通り、‘円’の文字となっている。

日本東京都千代田区東京駅 - Google マップ-30001
‘Google’マップ 上図の拡大。丁度中央に渋沢栄一の銅像が見える。

DSC_1694-2.jpg
2014年03月24日 ‘スマホ’で撮影。

DSC_1694-3.jpg

DSC_1694-4.jpg

DSC_1695-2.jpg

次の画像の方が見易いかも?

131866587775713230637_RYO_033_201403300746178df.jpg
http://kobacho-niwaijiri.at.webry.info/201110/article_16.html

読みほぐして見ると、多分以下の通り。(旧文字がない場合は、現文字で)
<縦書きから、横書きで申し訳ない!>

青淵渋澤榮一翁は 天保十一年埼玉縣
の農家に生れたが時勢に激して志士と
なり 後転じて幕臣となって 慶應三
年欧州に赴き民主主義自由主義を知
る機会を得た 帰朝後大蔵省に仕官し
て諸制度の改革に當ったが 明治六年
退官し 同年創立された第一國立銀行
の頭取となり 爾来産業経済の指導育
生に任じ開興した会社五百 常に道徳
経済合一主義を唱えて終生之を實践し
我が國運の發展に偉大貢献をした
また 東京市養育院等社会事業の助成
一橋大学日本女子大学等實業及び女子
教育の育成 協調会等による労使の協
調 日華日米親善等世界平和の促進
道徳風激振作のために九十二歳の高齢
に達するまで尽力し 昭和六年十一月
十一日逝去した
翁の歿後 財界有力者によりその遺徳
顕彰の目的で設立された渋澤青淵翁記
念会が 昭和八年此処に銅像を建立し
たが 第二次世界大戦中金属供出のた
めに撤去された 然るにこのたび 銅
像再建の声が盛り上り各界の有志によ
つて 再び朝倉文夫氏に製作を依嘱し
旧位置にこの銅像を建て 東京都に寄
附したのである
 昭和三十年十一月
     渋澤青淵記念財團龍門社

そして、渋沢栄一という人の概要は、次の文献でも、日本の経済発展の父とも言うべきだということがよ~く判る!

‘銀行’というシステムを日本に導入したのは、彼がフランスへ行った時に‘スエズ運河’の大規模工事を見た際に思い立ったことだったという!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80
渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(1840年3月16日) - 昭和6年(1931年)11月11日)は、江戸時代末期(幕末)から大正初期にかけての日本の武士(幕臣)、官僚、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、日本資本主義の父といわれる。理化学研究所の創設者でもある。
正二位勲一等子爵。雅号に青淵(せいえん)。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

天保11年(1840年)2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市血洗島)に父・市郎右衛門、母・エイの長男として生まれた。幼名は栄二郎[1]。のちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎。渋沢成一郎は従兄。
渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米、麦、野菜の生産も手がける豪農だった。原料の買い入れと販売を担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。市三郎も父と共に信州や上州まで藍を売り歩き、藍葉を仕入れる作業も行った。14歳の時からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、この時の経験がヨーロッパ時代の経済システムを吸収しやすい素地を作り出し、後の現実的な合理主義思想につながったといわれる。
徳川慶喜の家臣・幕臣として[編集]
一方で5歳の頃より父から読書を授けられ、7歳の時には従兄の尾高惇忠の許に通い、四書五経や『日本外史』を学ぶ。剣術は、大川平兵衛より神道無念流を学んだ。19歳の時(1858年)には惇忠の妹・尾高千代と結婚、名を栄一郎と改めるが、文久元年(1861年)に江戸に出て海保漁村の門下生となる。また北辰一刀流の千葉栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。その影響から文久3年(1863年)に尊皇攘夷の思想に目覚め、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜を焼き討ちにしたのち長州と連携して幕府を倒すという計画をたてる。しかし、惇忠の弟・長七郎の懸命な説得により中止する。
親族に累が及ばぬよう父より勘当を受けた体裁を取って京都に上るが、八月十八日の政変直後で勤皇派が凋落した京都での志士活動に行き詰まり、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により一橋慶喜に仕えることになる。仕官中は一橋家領内を巡回し、農兵の募集に携わる。
主君の慶喜が将軍となったのに伴い幕臣となり、パリで行われる万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の弟・徳川昭武の随員として御勘定格陸軍付調役の肩書を得て、フランスへと渡航する。パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行する。各地で先進的な産業・軍備を実見すると共に、将校と商人が対等に交わる社会を見て感銘を受ける。ちなみにこの時に彼に語学を教えたのは、シーボルトの長男で通訳として同行していたアレクサンダーである。帰国後もその交友は続き、アレクサンダーは弟のハインリッヒと共に後に明治政府に勤めた渋沢に対して日本赤十字社設立など度々協力をするようになる。なお フランス滞在中に、御勘定格陸軍付調役から外国奉行支配調役となり、その後開成所奉行支配調役に転じている。[2]
パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学するものの、大政奉還に伴い、慶応4年(1868年)5月には新政府から帰国を命じられ、9月4日(1868年10月19日)にマルセイユから帰国の途につき、同年11月3日(12月16日)に横浜港に帰国した。

大蔵省出仕〜実業家時代[編集]

大蔵省時代
帰国後は静岡に謹慎していた慶喜と面会し、静岡藩より出仕することを命ぜられるも慶喜より「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を拝受し、フランスで学んだ株式会社制度を実践するため、及び新政府からの拝借金返済の為、明治2年(1869年)1月、静岡にて商法会所を設立するが、大隈重信に説得され、10月に大蔵省に入省する。大蔵官僚として民部省改正掛(当時、民部省と大蔵省は事実上統合されていた)を率いて改革案の企画立案を行ったり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わる。しかし、予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し、明治6年(1873年)に井上馨と共に退官した。
退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(第一銀行、第一勧業銀行を経て、現:みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。また、第一国立銀行だけでなく、七十七国立銀行など多くの地方銀行設立を指導した。
第一国立銀行ほか、東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙(現王子製紙・日本製紙)、田園都市(現東急電鉄)、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上といわれている。
若い頃は頑迷なナショナリストだったが、「外人土地所有禁止法」(1912年)に見られる日本移民排斥運動などで日米関係が悪化した際には、対日理解促進のためにアメリカの報道機関へ日本のニュースを送る通信社を立案、成功はしなかったが、これが現在の時事通信社と共同通信社の起源となった。
渋沢が三井高福・岩崎弥太郎・安田善次郎・住友友純・古河市兵衛・大倉喜八郎などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにある。「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、後継者の敬三にもこれを固く戒めた。また、他の財閥当主が軒並み男爵どまりなのに対し、渋沢一人は子爵を授かっているのも、そうした公共への奉仕が早くから評価されていたためである。
なお、渋沢は財界引退後に「渋沢同族株式会社」を創設し、これを中心とする企業群が後に「渋沢財閥」と呼ばれたこともあって、他の実業家と何ら変わらないのではないかとの評価もある。しかし、これはあくまでも死後の財産争いを防止するために便宜的に持株会社化したもので、渋沢同族株式会社の保有する株は会社の株の2割以下、ほとんどの場合は数パーセントにも満たないものだった。


「商業銀行」創立の発想の原点が、次の文献で判る!

http://d.hatena.ne.jp/shins2m+tenka/20130407/p1
慶応2年(1866年)、14代将軍家茂が21歳の若さで亡くなると、当時、30歳の一橋慶喜が徳川宗家を継ぐことになり、15代将軍徳川慶喜となりました。翌年、慶喜の実弟で、後に最後の水戸藩主となる徳川昭武が、将軍慶喜の名代としてパリ万国博覧会に派遣されます。このとき、慶喜に仕えていた渋沢は、昭武のお供を命ぜられ、57日間かけてフランスへ渡ることになる。これが渋沢と「会社」の出会いをもたらすのです。
スエズ運河で、フランスの会社が建設作業を行なっていました。
それを見た渋沢は、大勢の人間からカネを集めて「会社という仕組み」をつくれば、個人ではできない大きな事業も運営できることを知ったのです。

また渋沢は、パリで1人の銀行家に会います。そしてこの銀行家から「多くの人々から集めた資金を賢い経営者に貸し、大きな事業をさせれば、儲けた利益がみんなに還元される。結果として国も豊かになり栄える」という話を聞いて驚きました。事業を起こすためには会社が必要ですが、その会社に大きな仕事をさせるためには、みんなからカネを集めて会社に貸す「商業銀行」という仕組みが必要であることを教えられたのです。


現在の‘商業銀行’が、優良産業にばかりに資金を貸し、これから成長するかもしれない事業には一円たりとも資金を融通しない現状を渋沢栄一氏が知られたら、どう感じられるだろうか?

今の日本の銀行が、日本の成長に力を貸すのが主旨ではなく、己の銀行の地位を伸ばすためにのみ汲々としているという本末転倒の動きを嘆いているのは我々だけではあるまい!

渋沢先生、もう一度生き返って来られて、日本の経済を建て直して下さい!

(つづく)
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[2014/03/31 07:59] | ビジネスと経済 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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