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アスリートの魂・嘉風関(その1)
アスリートの魂・嘉風関(その1)

NHKのTV番組、「アスリートの魂」という素晴らしい番組がある!
TV番組もここまで掘り下げてくれると‘本物’ということを感じさせる素晴らしさである。
「流石に‘NHK’だな!」と言わせる看板番組に違いない!

アスリートの魂のロゴ
出典/http://blog.livedoor.jp/hanatora53bann-tanosiiburogu/archives
/51941196.html


大相撲の評価については、各人の情報量の多さとその人の考え方によって大きく変わる場合があるが、‘相撲’はスポーツだが、‘大相撲’は最早スポーツを乗り越えて‘文化’にまで‘昇華’していると思っている人も多いに違いない!

(ここに掲載して出典を明記していない写真は、全てNHKのTV画面をカメラで撮影したものである)

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ここ尾車部屋に嘉風関は所属している。‘風’という字がつく力士は、尾車部屋である!尾車親方が、‘琴風’という四股名で大関を張っていたからである!

嘉風関が、大きな力士、特に外国人力士に‘恐怖感’を持っているなんて知る由もなかった!
私は、ひょんなことから、或る時から嘉風関の‘猛烈な’ファンになった!そのいきさつは、後述することとして、先ずはTVに出てきた彼の‘アスリート魂’とやらを見て行きたい!

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何と言う言い草だろうか?この天才にして・・・・。

外人力士の中でも、この‘魁聖関’にはトラウマ的に恐怖感があるというから、不思議である!
相撲や柔道の醍醐味は、小さい方が大きい方を倒すことにあるというのに!

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予想通り、嘉風関は恐怖心から負けてしまったのである!

そこで、‘助っ人’とばかり、指導にあたったのが、2度の平幕優勝をしたことのある元関脇琴錦、現在の‘中村親方’である!
正に‘手取り、足取り’の細かい指導が行われたという!

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この‘頭付け’こそ、今後の嘉風関にとって大きな階段を上る切っ掛けになったのだが・・・。

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相撲の世界でもこんな指導があるのである!

さて、さて、そんな訳で、嘉風関は、2015年の初場所に賭けることになったのである!

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最初の‘外人力士’は、やはり苦手の‘蒼国来関’である!
下の次々の写真の通り、この戦略で嘉風関は蒼国来関に勝ったのである!

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ところがところがである!
あの‘嫌な外国人力士’である‘大砂嵐関’には通じなかったのである!

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勿論、この‘頭付け’の技術のみでは、誰にでも勝てるという訳ではない!
そこでまた嘉風関の‘苦悩’が始まる!
この悩みこそ、一人前の力士になるためにどうしても乗り越えなければならない一つの試練なのである!

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さぁ~て、嘉風関のとった‘手’とは?

(つづく)
[2015/02/23 00:52] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
銀閣寺(その2)
② 銀閣寺(その2)

銀閣寺についてものを言う場合、金閣寺との比較は重要であり、的を得ている!

ここで問題で~す!

「銀閣寺と金閣寺、どちらが国宝でしょうか?或いはどちらも国宝でしょうか?」

この問題の出し方が既に‘ヒント’になっている!
どちらも国宝なら、極めて常識的だから問題にならないのである。きっとどちらかが国宝ではないに違いないということが、この出題の方法で簡単に判ってしまう!

【問題】金閣寺と銀閣寺どちらかは国宝です。どちらが国宝?

銀閣寺は国宝だけど、金閣寺はそうじゃない!?
金閣寺と銀閣寺。京都に行ったことがあれば、訪れた方も多いのではないでしょうか。教科書にも載っている、京都を代表するこの2つの建物は、どちらも国宝だと思ってはいませんか?

【答え】実は、国宝は銀閣寺だけなのです。

どちらも、素晴らしい建築物であることには違いありません。どうしてそのような違いが生まれたのか、そもそも国宝・重要文化財とは何かについて紹介していきたいと思います。

え!金閣寺は国宝を取り消されたってホント?

金閣寺といえば、室町幕府3代将軍の足利義満が創建した、室町時代前期の北山文化を代表する建築物です。

一方の銀閣寺は、8代将軍足利義政が創建した、東山文化の建築物です。

両寺院とも「古都京都の文化財」の一部として、世界遺産にも登録され、海外からの観光客も多く訪れる世界的にみても有名なお寺です。

そんな金閣寺は昭和25年(1950)までは、国宝でした。
しかし、同年に若い僧侶の放火によって、灰燼となってしまったのです。

そう、現在の金閣寺は昭和30年(1955)に完成したもので、実質2代目だったのです。
下の写真は初代の金閣寺舎利殿です。今と少し違いますね。

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http://blog.dohosha.com/jp/kinkakuji-and-ginkakuji-272.html


さてさて、こんなことも知っていれば更に実物を真剣に見ようと思う心が湧いて来る!

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これで前回が終わっている!
銀閣寺の方が‘国宝’である!と強調して言われてしまうと「な~るほど!」と簡単に納得してしまうのが我々庶民であるのだが、この銀閣寺を見て‘国宝’の価値が解かる人がどれだけおられるのだろうか?

国宝の威厳は、その周りの環境も一役かっているに違いない!

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銀閣寺の本当の魅力とは、一体何なのだろうか?

(つづく)
[2015/01/13 13:41] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
2014年の我が家のクリスマス飾り
2014年の我が家のクリスマス飾り

我々キリスト教信者ではない人間とって、「クリスマスとは何か?」と問われても明快な答えは出来かねる。
「キリストの誕生日じゃあないの?」と言う程度の答えしか出来ないのだが・・・。

ところが、ところがである!

新約聖書に‘キリストの誕生’についての記述がない、というから驚きである!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9
イエス・キリストの誕生日との関係についての諸説[編集]

新約聖書には、イエスの誕生日に関する記述はない が、10月1日か10月2日が誕生の日と推測する説もある。1993年9月15日に、イギリスの天文学者D・ヒューズが聖書中の天文現象の記述から、イエスの誕生日は紀元前7年9月15日とする説を発表した。また、羊飼いが誕生を祝ったあと夜中の見張りに戻ったとあり、羊を放牧するのは4月から9月の間で、冬の寒い時期には小屋に入れて外に出さない事から、夜中の羊の見張りを行う4月から9月までの間とする説もある。

1月1日が12月25日と1月6日のちょうど中間にあたることから、キリスト歴の1月1日を定める時に中間の日を妥協案として選んだという説がある[要出典]が、これは単なる俗説である。ローマ帝国で使用されていたユリウス暦は、紀元前45年から1月1日を年初日に設定しており、キリスト教との因果関係はあり得ない。ただし、1月1日は丁度クリスマスの8日後にあたり、主の割礼祭(ユダヤ教の律法において、生後8日目に割礼を施すことが慣わしになっている)としての祝日になっている。

西暦1年は、キリストの生まれた年と決められており、紀元前を表すB.C.は「Before Christ」すなわち「キリスト前」という意味である。しかし実際には、キリストが生まれた年は紀元前8年から紀元6年ごろまで諸説ある。(後略)


上記の引用資料の通りだろうから、キリストが誕生した‘年’さえ確定されていないことになる。

「それじゃあ、クリスマスって何なの?」とこっちから聞きたくなる!
上記引用文献には次のように既述されている!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9

クリスマス(英: Christmas)は、イエス・キリストの降誕(誕生)を祝う祭[1][2](降誕を記念する日)[3]。12月25日に祝われるが、正教会のうちユリウス暦を使用するものは、グレゴリオ暦の1月7日に該当する日にクリスマスを祝う[4][5]。

キリスト教に先立つユダヤ教の暦、ローマ帝国の暦、およびこれらを引き継いだ教会暦では日没を一日の境目としているので、クリスマス・イヴと呼ばれる12月24日夕刻から朝までも、教会暦上はクリスマスと同じ日に数えられる。

なお、キリスト教で最も重要な祭りと位置づけられるのはクリスマスではなく、復活祭である[6][7][8][9]。


よ~く見て下さい!キリストが生まれた日とは書かれていない!
キリストの誕生を祝うお祭りであって、生まれた日に行うのではないのである!

まあ、この議論は素人が行うものではなく、そういうことだということを知っていればいいと言うことのようである。

でも、宗教とはほとんど無関係に日本では‘商戦’に載せられて大騒ぎに近い‘文化’になっている。
それは、それでいいじゃあないか! みんながその気になって‘お祝い’をすることに或る意味がある!

と言う訳で、我が家もこの時期‘飾り’が一杯!
今年購入したものは全くない。かみさんが何年も前から集めていたに違いない!

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画像ー268 2014クリスマスイブ 015-2
画像ー268 2014クリスマスイブ 021-2
画像ー268 2014クリスマスイブ 022-2
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こんな風に酔っ払ってはいけない!

(つづく)
[2014/12/25 19:20] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
追記・大多喜お城まつりの立役者!
2014年09月28日、千葉県夷隅郡大多喜町の‘大多喜お城まつり’は、近隣からも大勢の人々が参加して大いに盛り上がった!

このブログでも‘シリーズ’で何度も書かせて貰ったが、まだまだ書き足りていない!
余りにも沢山の写真があり過ぎて、見たり読んだりも大変になると思ったこともあって、割愛していた。
しかし、思い返してみると、武者行列の中で最も注目を集めた‘立役者’たる大多喜城初代城主・本多忠勝公に扮した方の物静かな中にも堂々とした威厳に感動した様子を書き忘れていたことに気づいた!

俳優・中井貴一さん かと見紛うほどの美男子・イケメン振りに感心したが、この方は一体誰だったのだろうか?

まあ、その戸籍調べは別として、その風貌振りを見て欲しい!

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中井貴一ー2
http://geinou9.com/?p=4292

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と、その時である!
本多忠勝公の馬前に一人の裸男が飛び出して武者行列の前に立ちはだかったのである!

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これも仕組まれた座興の一つかと思って観ていたのだが、どっこい、本物の‘酔っ払い’だったのである!
居合わせた警護の警察官に‘御用’となって、連行されて行ったというお粗末!

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この間も、本多忠勝公は、びくともせず事の成り行きをじっと見つめていた!
大した役者振りであった!

(つづく)
[2014/12/17 14:24] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
東本願寺・浅草浄苑の展示品
2014年10月23日、東京・西浅草にある浄土真宗・東本願寺派の本山‘東本願寺’の境内にある‘浅草浄苑’へ行く機会に恵まれた!

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これが、浅草浄苑のある建物で、‘慈光殿’という。この4階に浄苑がある!

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今月の美術品の展示の中で感激したのは、以下の二つ!

① 阪 正臣 の‘雪月花’! 

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読み<多分>:降る雪に 松の常盤は 埋もれても 崖の小草の 春を待ちけむ 正臣

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② 棟方志功 の‘肉筆画’!

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さて、来月の美術品は?

(つづく)
[2014/10/28 00:44] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
両国橋
その日は、日曜日だったのだが、東京での打ち合わせがあった。打ち合わせが予定より早く終了したので、ここのところの散歩不足を解消するためにも、東京駅から東に向かって歩き始めた!

東京駅付近を出発したのは、2014年10月21日(日)16:18である!
およそ一時間で何処まで歩けるかを知っておきたいと思った。

通勤の際の自宅殻の最寄り駅は、このブログにも何度も登場させてもらった千葉県JR外房線・本納駅である。
本納駅は、茂原市なのだが茂原駅より二つ手前である。

せいぜい秋葉原駅まで位行きたいと思って歩き始めたのである!
何処をどう歩いたかは、余り記憶に残ってはいないなだが、兎に角東へ向かって歩いた。

17:03、およそ45分後に‘両国橋’へ出た!

ご案内の通り、‘両国橋’は有名だから、説明は要らないとも思われるが、余り確かな情報も持ち合わせてはいない。

① 両国という、二つの国はどことどこ?
② 両国橋は、いつどんな理由で建設された?
③ 川開きの花火大会はいつから始まった?

この質問に、‘即明快に答えられる’御仁は滅多にいないに違いない!

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この道案内版は、何故か南北が通常の地図の場合と違っている!
だから、上が南であり、左方向が東である、墨田区の案内板が全部かどうかは知らないが、大抵‘南北が入れ替わっている!

① 両国という、二つの国はどことどこ?

A:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E5%9B%BD%E6%A9%8B
現在は武蔵国内にあるが、1686年(貞享3年)に国境が変更されるまでは下総国との国境にあったことから、両国橋と呼ばれる。


② 両国橋は、いつどんな理由で建設された?

A:

>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E5%9B%BD%E6%A9%8B

歴史[編集]
両国橋の創架年は2説あり、1659年(万治2年)と1661年(寛文元年)である、千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋。長さ94間(約200m)、幅4間(8m)。名称は当初「大橋」と名付けられていた。しかしながら西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ、1693年(元禄6年)に新大橋が架橋されると正式名称となった。位置は現在よりも下流側であったらしい。

江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。しかし1657年(明暦3年)の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまう。事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになる。架橋後は市街地が拡大された本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に、火除地としての役割も担った。
両国橋は流出や焼落、破損により何度も架け替えがなされ、木橋としては1875年(明治8年)12月の架け替えが最後となる。西洋風の九十六間(約210m)の橋であったが、この木橋は1897年(明治30年)8月10日の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず10mにわたって欄干が崩落してしまう。死傷者は十数名にもおよび、明治の世に入ってからの事故ということで、これにより改めて鉄橋へと架け替えが行われることが決定する。

結果、1904年(明治37年)に、現在の位置より20mほど下流に鉄橋として生まれ変わる。曲弦トラス3連桁橋であり、長さ164.5m、幅24.5mと記録に残る。この橋は関東大震災では大きな損傷も無く生き残ったが、他の隅田川橋梁群の復旧工事に合わせて、震災後に現在の橋に架け替えられた。なお、この架け替え時に取り外された両国橋の橋名板が東京都復興記念館に保存されている。

2008年(平成20年)3月28日、言問橋と共に東京都の東京都選定歴史的建造物に選定された。


③ 川開きの花火大会はいつから始まった?

A:

http://www.sumida-gg.or.jp/arekore/SUMIDA005/S005-03.htm
この両国の川開きのときに花火が行われるようになったのは享保18年(1733)5月28日といわれている。そのきっかけとなったのが前の年、享保17年に起こった大飢饉だった。この年、西日本一帯で、いなごの大群が発生するなど全国的な凶作となったほか、江戸市中にコロリ(コレラ)が流行して多くの死者を出した。これを重くみた幕府(8代将軍吉宗)は、翌享保18年5月28日にその尉霊と悪病退散を祈って、隅田川において水神祭を挙行した。この折、両国橋畔の料理屋が公許を得て、同日川施餓鬼を行い、花火を上げたという。これ以降、川開き初日に花火を打ち上げるのが恒例となった。
 このときの花火師は6代目鍵屋弥兵衛で、打ち上げた花火は20発内外であり、その費用は舟宿と両国あたりの茶店などから出された。 当時の花火について随筆『柴の1本』 には「しだれ柳に大桜、天下泰平文字うつり、流星、玉火に牡丹や蝶や葡萄に火車や是は仕出しの大からくり、提灯、立傘御覧ぜよ、火うつりの味わい仕(つかまつ)ったり」と書いてある。 いずれにせよ、立花火が主流で、上空に上がる流星が呼び物になったと思われる。この川開き花火に刺激されたのか、隅田川沿いに屋敷をもつ大名たちは、お抱えの火術家、砲術家に花火を上げさせて楽しむようになった。これら火術家が編み出したのが、いわゆる「のろし花火」だった。のちに、花火師ものろしからヒントを得て、大花火を上げるようになった。 水神祭から始まった両国の花火は、やがて「橋上の一道、人群り混雑し、梁橋たわみ動いて、みるみるまさに傾き陥んとする」 (『江戸繁昌記』)といった賑わいを呈すようになり、江戸の夏を代表する風物詩になっていった。


上記解説によると、両国橋が掛けられたのが、1659 or 1661年で、初めて約20発打ち上げの川開き花火大会が行われたのが1733年というから、橋が出来て大掛かりな花火の打ち上げ大会までにおよそ70年以上掛かったことになる!

(つづく)
[2014/10/25 13:05] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
大多喜お城まつり(その13):いよいよ武者行列の始まりー3!
大多喜お城まつり(その13):いよいよ武者行列の始まりー3!

2014年9月28日の房総半島は、まさに秋晴れの候天気に恵まれ、千葉県夷隅郡大多喜町のお城まつりは、最高の盛り上がりを見せ始めていた!

予定通り、大多喜城の前広場に集結した初代大多喜城城主・本多忠勝公を中心とした武者行列の一行が、予定通り13:30に大多喜城を出発したのである!

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これが、本多忠勝公! 大多喜城の前での記念撮影の時にもそう思っていたのだが、この忠勝公に扮している御仁は一体誰なのだろうか? 最初は、俳優の‘中井貴一’氏が特別出演か?とも思った!

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中井貴一ー2
http://geinou9.com/?p=4292
俳優・中井貴一さん

本多忠勝公は、この武者行列の撮影の際に何度も登場して戴くので、その際の度に、中井貴一さんの写真にも登場願って比較してみたい!

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流石に、本多忠勝公は、後ろ姿も凛々しい!

さて、忠勝公の後の馬上には、ドン・ロドリゴ長官公である!

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ドン・ロドリゴ公を見送って、私は今度はメキシコ通りで、武者行列を正面から出迎えるために、登ってきた近道を大急ぎで取って返すことにしたのである!

(つづく)
[2014/10/21 10:15] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
大多喜お城まつり(その12):いよいよ武者行列の始まりー2!
いよいよ武者行列の始まりー2!

このシリーズも今回で(その12)!
まだまだ続きますです、はい!

何せ、この大多喜お城まつりが行われた2014年9月28日に我が最寄り駅・千葉県茂原市のJR外房線・本納駅からJR大原駅経由、いすみ鉄道で大多喜駅まで電車・列車を乗り継いでやってきて、その後は‘徒歩’で大多喜城へ、そして大多喜小学校へ立ち寄った後、大多喜駅前で武者行列を出迎えて大いに満足し、列車でJR大原駅へ向かう途中までに撮影したコマ数は、何と‘464枚’!

そして、これまでに取捨選択をして、この弊ブログでご紹介した画像までで、やっと1/3!
このペースで行くと、36回のシリーズになるかもしれない!(笑い?)

さて、やっと大多喜城の前広場を初代城主・本多忠勝公武者行列が出発したのは、予定通りの13:30丁度である。

先ずは、2代目城主、忠勝公の次男本多忠朝公を先頭に、次に忠勝公、そしてメキシコとの通商条約に影響を与えたフィリッピン諸島長官ドン・ロドリゴ(幟<のぼり>には、何故か‘ドン・ロドリコ’と最後の一文字がにごらず‘コ’となっている!これは後日解説)の一行が続くことになっている。

この大多喜城を出発した武者行列は、大多喜小学校で式典後町内を練り歩く時には、地方から応援に駆けつけてきた一行と女子薙刀部隊まで参加して、人数は恐らく4,5倍に膨れ上がることになる!

来た来た!

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遂にやってきました!
「いよっー!、忠勝公!」

(つづく)
[2014/10/19 09:31] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
大多喜お城まつり(その11):いよいよ武者行列の始まり!
大多喜お城まつり(その11):いよいよ武者行列の始まり!

と言っても、その前に一寸だけ前広場の風景を!
まだ、13:30の出発までには、23分ある!

前広場には、準備万端で余裕さえ見せている武者行列の参加者達!
毎年のことだから、そりゃあもう段取りは判っているとでも言うのだろうか?

三頭の馬が準備されているのだが、乗馬するのは次の3人!

① 初代城主・本多忠勝公
② 2代目城主・本多忠朝公
③ フィリッピン諸島長官・ドン・ロドリゴ公

この‘ドン・ロドリゴ公’は、スペイン人で、フィリッピン諸島長官(正しくは、臨時総督)当時、次期総督と交代のためマニラからメキシコへ向けての航行中に台風に遭遇、座礁し旗艦が難破、現在の千葉県御宿の海岸に漂着した。それは、2代目城主・本多忠朝公の時代(1609年9月30日)。その後、彼は、忠朝公の紹介で江戸城へ赴き江戸城2代目城主・秀忠公に謁見するとともに駿府へも赴いて大御所・家康公にも謁見した。日本を出発してメキシコへ向かったのは翌年の1610年8月1日だそうだから、10ヶ月間日本に滞在したことになる。

実は、このドン・ロドリゴ公のお陰で、それから数百年も経った後の日本の開国時、メキシコとの通商条約だけが‘不平等条約’にならずに済んだという。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%89%E
3%83%AA%E3%82%B4%E3%83%BB%E3%83%87%E
3%83%BB%E3%83%93%E3%83%99%E3%83%AD

ドン・ロドリゴ公

日本との関係[編集]
フィリピン臨時総督在任中、マニラで起こった日本人暴動に際し暴徒を日本に送還し貿易量の制限と暴徒の処罰を要求、徳川家康の外交顧問だったウィリアム・アダムスが訪れた際会見し家康に友好的な書簡を送り、ヌエバ・エスパーニャと日本との交流が始まる。

1609年(慶長14年)、次期総督と交代のため召還命令を受け、戦艦3隻の艦隊でマニラからアカプルコへ向けての航海中台風に遭い、ロドリゴの乗った旗艦「サン・フランシスコ号」は難破、9月30日に 上総国岩和田村(現千葉県御宿町)田尻の浜に漂着、地元民に救助される[2]。なお僚艦の「サンタ・アナ号」も、9月12日豊後の臼杵中津浦に緊急入港し[3]、もう一隻の「サン・アントニオ号」のみヌエバ・エスパーニャへの航海を続けた。

地元民に救助されたロドリゴ一行は、時の大多喜藩主・本多忠朝の歓待を受け、大多喜城から江戸城に立ち寄り、駿府城で家康と会見するなど日本滞在の後、家康からウィリアム・アダムスの建造したガレオン船(日本名:安針丸)の提供を受け、「サン・ブエナ・ベントゥーラ号(英語版)」と命名、1610年(慶長15年)8月1日に日本を出発し、同年11月13日アカプルコに帰還した。この日本滞在中の見聞録は『ドン・ロドリゴ日本見聞録』として今に残されている。

サン・ブエナ・ベントゥーラ号には、ヌエバ・エスパーニャとの交流拡大を目指す家康の使節アロンソ・ムニョス神父や京の商人・田中勝介らも同乗した。その翌年の1611年(慶長16年)、田中勝介らとともにヌエバ・エスパーニャからセバスティアン・ビスカイノが答礼使として来日し、1613年(慶長18年)にルイス・ソテロや支倉常長ら慶長遣欧使節団とともにサン・フアン・バウティスタ号で帰国した。

後に、日本が開国し諸外国と国交を開いた際不平等条約が当然だったなか、1888年(明治21年)に締結した日墨修好通商条約が平等条約だったのは、メキシコと日本はこのころから交流のある互いに対等な国家だったからであり、欧米列強との不平等条約を改正できた背景にこの友好的な日墨関係があるとも言われている。
現在、ロドリゴ一行が本多忠朝の居城大多喜城に立ち寄る際に通ったコースを走る‘ロドリゴ駅伝’が、漂着した御宿町、いすみ市、大多喜町で開催されている。


そういう因縁のあるフィリッピン諸島長官・ドン・ロドリゴ公は、やはり武者行列で、‘馬に乗る資格’は十分である!

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この方が、フィリッピン諸島長官・ドン・ロドリゴ公!

大多喜高校の茶道部も参加して・・・

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お城も満足そうに・・・

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さてさて、やっとここからが‘武者行列’の本番である!

(つyづく)
[2014/10/16 11:30] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
大多喜お城まつり(その10):大多喜城前広場での行列準備状況ー4
2014年9月28日13:00ジャストに、千葉県夷隅郡大多喜町にある大多喜城前広場の東側で、鉄砲の連発音が5,6発轟いた!

‘ズズ、ズード~ン!’

その時、私は前広場の西側で、大多喜城初代城主・本多忠勝公の武者行列の出発は今か今かと待っていた!
単にぼんやりと待っていた訳ではない。

その日のその時刻の日差しの当り具合から本多忠勝公の顔が逆光になってしまわない場所は何処が良いかを勘案していたのである!

しかし、良い場所はあるものの、行列の邪魔になってはいけない!
当日は、いわゆる‘自称プロの写真家’が大勢来ていて、行列の邪魔になろうと、私のような‘アマの写真家’の前を邪魔しようとお構いなしの横暴振りである!

場所の取り合いは、持っているカメラで勝負が決まる!
100万円近くもするであろうカメラご持参の人には、安売りで買った数万円もしないカメラしか持たない私のような立場の人はやはり場所を譲ることになる!

そんなことをあれこれ考えながら、撮影場所探しをしていたのである。

その時に‘ズズ、ズード~ン!’と轟いた!

私は直ぐに発砲音のした前広場の東側へ向かって走った!

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実弾は、今放たれたばかりだった!
‘硝煙’はまだ残っていた!

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轟き音を聞いて、方々にいた‘カメラマン’が集まってきたが、もう‘発砲儀式’は終わっていたのである!
発砲隊の隊長さん、下の写真の左端の方であるが、カメラマンが大勢集まって来たのに気づかれて、実弾の儀式は出来ないが、写真撮影のために‘格好だけ’でもして上げよう、というとだったようで‘鉄砲隊’に‘構え!’の命令を下されたのである!

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こうして火縄銃での‘発砲の儀式’は終了した!

さあ、いよいよ武者行列の開始である!

(つづく)
[2014/10/15 00:52] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
大多喜お城まつり(その9):大多喜城前広場での行列準備状況ー3
大多喜お城まつり(その9):大多喜城前広場での行列準備状況ー3

ここは、千葉県夷隅郡大多喜町、大多喜城の前広場である!

今正に、大多喜町挙げての‘お城まつり’の中でも最大のイベント‘初代大多喜城主・本多忠勝公の武者行列’が始まろうとしているその最中、前広場の東側で、‘鉄砲の発砲音’5,6発の音が大きく反響した!

我々は、この千葉県は外房の街に引っ越してきて、先ずは太平洋の美しさ・勇壮さに驚いて、いい土地へ来た!と感激をしたものである!

その時に私が創った‘キャッチコピー’が、

「 遊ぼう! 外房! 皆呼ぼう!」

というものだった!
それから、房総半島の内陸部に入って、また驚いた!
その一つが‘大多喜城’である。

これだけ、お城を中心に住民の皆さんが町興しに一生懸命になっておられる城下町も少ないに違いない!
それは、町並みを歩いてみるとよ~く判る!
その一番いい例が、この‘お城まつり’の際なのである!

まあ、その検証の結果は、おいおい判るとして、話の続きは、本多忠勝公行列の準備状況・・・。

その前に、お城の屋根瓦の家紋の検証・・・。

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初代城主・本多忠勝の家紋は、徳川家康の家紋・三つ葉葵と取替えっこをしたという‘立ち葵’であることは知られている。
しかし、上の写真にある家紋は‘立ち葵’とは違っている!
実は、この家紋は、大多喜城最後の城主・松平家の家紋の‘三つ扇’である。
因みに、‘立ち葵’は、下の画像。

marunitachiaoi-640x640.jpg
http://kamon-db.net/portfolio/marunitachiaoi
勿論お気づきの通り、大多喜城の瓦にはこの‘立ち葵’の家紋もある。

9a066831-s.jpg
http://blog.livedoor.jp/achtecrf38/archives/2041037.html

大多喜城の瓦の家紋の話はこのくらいにして、‘鉄砲のずっど~ん’の音について・・・

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鉄砲の音がした時の、行列の出発を待っていた人達の表情!「あれっ!なに!?」
この時の時刻:2014年9月28日13:00ジャスト!

私は、鉄砲の音がした大多喜城の東の方へ走った!

(つづく)
[2014/10/11 23:25] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
大多喜お城まつり(その8):大多喜城前広場での行列準備状況ー2
2014年09月28日は、千葉県夷隅郡大多喜町の‘お城まつり’の本祭の日である!

大多喜お城まつりパンフ-2
大多喜お城まつりパンフ0001-2

このプログラムによると、「本多忠勝公城を出発」は、13:30となっている!

その前に、記念撮影やら出陣式での発砲などの行事が、この大多喜城前広場で行われるのである。
正式な‘記念撮影’が終了したのが、そう、12:53である!(この時刻も、カメラ内臓記録時計による)

あと30分強の時間の過ごし方は?

武者衣装を着けた人達が、三々五々個人的な撮影会を開いている。
‘武士が‘スマホ’で武士を撮る’という現象があちこちで展開しているのである。

以下、これでもか!これでもか1!の写真の連続を!

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大分遠くからやって来た若者達!

その時、突然、‘鉄砲の音’が‘ズッド~ン!と、大多喜城前広場の東側で鳴り響いた!

(つづく)
[2014/10/10 11:00] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
大多喜お城まつり(その7):大多喜城前広場での行列準備状況-1
大多喜城前広場では、我々が大多喜高校経由の近道を通って約8分の時間短縮で到着した時には、既に行列参加の重鎮の方々の写真撮影が始まろうとしていた!

2014年9月28日(日)の12:49である!(時刻が正確なのは、カメラに内蔵されている時計が、一つ一つの画面の撮影時刻を記録しているからである。勿論この時刻が正しいことは、電池充電した後の装填の際に電子時計で合わせてある!)

千葉県夷隅郡大多喜町の大多喜城(正確には、‘千葉県立中央博物館大多喜城分館’というらしい)を中心とした年に一度の町を挙げての大祭である!

この大祭の見ものは、初代城主・本多忠勝、2代目城主・本多忠朝が引き連れて町内を練り歩く‘武者行列’である!
この行列には、女子薙刀(なぎなた)隊も参加していて小学生の頃からこのお祭りを盛り上げている。
この小さい子供の頃からの認識植え付けが大事であって、感受性の強い時にこそ町全体のことを考える経験をさせておけば、成人となって例え大多喜町を出て行ったとしても‘お祭り’には、ちゃんと帰ってきて参加したいと思うものである。

このことが、町全体の大きな‘思いの流れ’となって、‘地方創生’の原動力となる!

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この集団・部隊?が、武者行列を引っ張る‘重鎮’連で、本多家の城主及び家老職以下直接本多家の武士達である!

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このお二人が、城主!

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初代城主・本多忠勝役殿!
今年のこの‘イケメン役者’は誰なのだろうか?

‘いい男’の言い方にも変遷がみられる。
‘美男’→‘色男’→‘ハンサム’→‘イケメン’
本多忠勝自身が、‘イケメン’と聞いたら何と言うだろうか?

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こちらは、2代目城主・本多忠朝役の御仁。この方は、忠勝役の方よりもお歳を召されておられるようだが・・・。

次の‘部隊’は、本多家を応援するために馳せ参じた武士達である!
続々と‘ゆっくり’集まって来た!

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この応援部隊の中でもひと際目立つのは、‘加藤清正公’!
下の写真の3人の内の‘真ん中’の人物、これが‘清正公’殿!
熊本では、‘きよまさ公’と言わずに親しみを持って、‘せいしょうこうさん’と呼ぶ!

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両脇の武将は、どなたかは知らない!

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撮影が終わった後で、‘せいしょうこうさん’に声を掛けて確かめてみた!
やはり、そうだった!
この方が、プロの役者さんか、地元の青年団の方かはお尋ねしなかった!
それにしても‘イケメン’である!

もしも、‘大河ドラマ・本多忠勝・忠朝’が実現した時には、‘加藤清正公役’に是非推薦したいくらい!

(つづく)
[2014/10/09 23:56] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
大多喜お城まつり(その6):大多喜高校から大多喜城への近道
大多喜駅から大多喜城への‘近道’とは、大多喜高校から抜ける道である!

通常は車で大多喜城へ行くから、この近道は、地元の人でも使わないのだろう。
車では、大多喜高校内の駐車場へは止めさせては貰えないだろうから、この近道は‘徒歩の場合’に限る!
この‘近道’の発見については、数回前のこのブログに書かせて頂いたが、何度もこの辺へ来たからである!

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上の3枚の写真は、大多喜高校から見た‘大多喜城’である!
大多喜高校は、大多喜城の‘二の丸’のあった場所だから、大多喜城がよ~く見えるのは当然である!

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これが、‘大井戸’である。内部には入れないように柵がめぐらしてあり、水の量や水の澄み具合は見ることは出来ない!

千葉県中央博物館大多喜分館への道順-2
‘Googleマップ’より。
この地図の近道の赤い矢印で、大多喜高校内を左(西)方向へ行って、下(南)に直角に曲がってからが急坂であり、それを約5mほど登ったところから見た‘大井戸’が直ぐ下の写真である。

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この位置から見た高校の‘天文観測用ドーム’が下の写真。

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約10mほど坂道を登ったところから見た‘メキシコ通り’が、下の写真である!

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この通りを大多喜城から出発する‘武者行列’が通ることになっている!

さて、最後の坂を上ると大多喜城の‘前広場’である!
この近道での所要時間、つまり‘赤い矢印’の部分を歩いた場合の所要時間は、12:41~12:49の8分間!
作戦は見事成功した!

何故って、我々が近道を通って、到着したその瞬間こそ、武者行列の主役さん達の‘写真撮影’が始まらんとしていたからである!

通常の道、つまり‘メキシコ通り’を通って大多喜城前広場へ行っていたら、‘8分’では到着しないに違いない。
多分‘8分’の倍の‘16分’以上掛かっていたに違いないから、この写真撮影に間に合わなかったのである!

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(つづく)
[2014/10/08 23:12] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
大多喜お城まつり(その5):大多喜駅から大多喜城へ
千葉県夷隅郡‘大多喜町’は、人口およそ一万人強の小さな町である。

それが、近頃大人気になって観光客も増え始めているというから、それなりの秘密があるに違いない!

昨日の弊ブログは、千葉県外房線の大原駅から‘いすみ鉄道’に乗って、ここ大多喜駅へ着いたところまでのレポート。

本日は、その大多喜駅から、お城まつりの本拠地・大多喜城への道順のレポート。

通常の道順とは違って、‘近道’があるのである!
勿論、徒歩でも車でも行ける!ただし、通常の道でも近道でも大多喜城の本丸までは行けないのだが。
さて、その道順とは?

千葉県中央博物館大多喜分館への道順-2
‘Googleマップ’より。大多喜駅から大多喜城への行き方の地図!

:この緑の矢印が、通常の普通の大多喜城への行き方
:この赤の矢印が、近道!

この近道を我々が‘発見した’のは、何度も大多喜城へ足を運んだ経験、そして大多喜高校の大井戸・薬医門の調査をした時に発見したのである。

元々、この大多喜高校は、大多喜城の二の丸跡なのである。
そんな訳だから、前述の通り、この大多喜高校には、大井戸と薬医門がある!

さあ、大多喜駅から近道を通って大多喜城へ出発である!

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そして、これがいわゆる大多喜城の‘大手門’!

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ここにもちゃんと‘大河ドラマ’誘致の横幕が・・・・

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大手門から振り返った大多喜駅前!

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大手門の反対側には、‘房総の小江戸’の扁額が・・・。

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そして、大手門といすみ鉄道の車両のコラボ! この二つが大多喜町を支えているのである!

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この家は、踏切を渡って直ぐの家。新築なのに、昔風の家になっている!
これこそが、‘大多喜町住民の真骨頂’である!
大多喜町を町住民皆の物という発想である!
自分の家だけ良けりゃァ、それで良いと言う発想ではないのである!

そうこうしている間にいすみ鉄道の‘急行’が踏み切りを渡った!

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さ~て、さて、ここが、ここが近道への入り口である!

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どうです?!自宅から‘30km’も離れているところの土地で‘近道’を知っているなんて!

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大多喜高校への道の曲がり角に、‘萩’が・・・

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そして、大多喜高校への坂道を・・・

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校門を入ると、そう、‘薬医門’が左手に見える!

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そして、遂に‘大多喜城’が見えてきた!

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(つづく)
[2014/10/05 22:40] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
大多喜お城まつり(その4):いよいよ大原駅から‘いすみ鉄道’で大多喜駅へ
‘いすみ鉄道’は、第三セクター方式の鉄道である!
勿論、経営は苦しい!
従って、‘Suica’を使えるようにしたいのだが、その設備を設置する余裕はない!

それで良いではないか!
何となく味気のない‘Suica’での自動改札よりも、こうやって‘切符’を買っての乗車は、何となく‘のんびり’とした雰囲気があって‘ホッとする’一瞬である!

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この券売機を、よ~く見ると、大原から大多喜往復の場合、‘1日フリー乗車券’の方がお得であることが判る!
30円×2=60円が安くなる、という訳である。

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という訳で購入したのが、この‘1日フリー乗車券’、1000円也である。

さて、そんな訳でホームに入ると、やっと‘ムーミン列車’のご到着である!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%
E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%B3#.E3.82.AD.E3.83.A3.E3
.83.A9.E3.82.AF.E3.82.BF.E3.83.BC.E5.B1.95.E9.96.8B

いすみ鉄道 - 2009年(平成21年)10月1日より日本初の「ムーミン列車」の本格運行を開始した。全6車両のヘッドマークや車体にムーミン一家、フローレン、スナフキン、ミイなどが使用されている。また、10月10日には国吉駅構内に国内唯一の駅中ムーミンショップ「VALLEY WINDS」を開業した。


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え~と、このキャラクターは、え~っと、そうそう‘スナフキン’

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1両列車で、この乗客!
大多喜のお城まつりの日で、しかも一番の時間帯というのに、これじゃあ何とかしなければ、第三セクターの経営は難しくなるばかり・・・。

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このキャラクターは、‘フローレンとムーミン’!

中吊り広告がいい!

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列車は、田園の中を‘ゆっくり、ゆっくり’と走る!都会の喧騒はどこへ行ったやら!という風景・・・。これだけでも乗った甲斐がある!

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少しずつ乗客も増えてきた!

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やっと、やっと‘大多喜城’が見えてきた!

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もう直ぐ大多喜駅である。

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大多喜駅のホームで出迎えてくれたのは、何と‘本多忠勝公’である!

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これが、大多喜駅である!

さあ、これから大多喜城へ・・・!

(つづく)
[2014/10/04 23:03] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
大多喜お城まつり(その3):大原駅からいすみ鉄道で大多喜駅へのその‘いすみ鉄道’!
‘いすみ鉄道’は、全国的に有名になっている!

いすみ鉄道map
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いすみ鉄道車両ー2
http://cappuccino4623.blog93.fc2.com/category40-1.html

この第三セクター方式の鉄道会社が何故有名になったのか?
その理由は、3つある。

① 有償で運転手さんを採用する!
② ムーミンのキャラクターを採用している!
③ 高級食事メニューを出す車両を連結させている!


そして、地元の人達が応援して、鉄道線路の周りの草刈を手伝っているのである。

このボランティア精神が生まれたのには,この場所・ここの環境・ここに住む人達の心意気が一致したと言う稀に見る特例なのだろう!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%84%E3%81%9
9%E3%81%BF%E9%89%84%E9%81%93

いすみ鉄道株式会社

800px-Otaki_sta.jpg
大多喜駅(画像左側が本社事務所)

種類 株式会社
市場情報 非上場
本社所在地 日本
〒298-0216
千葉県夷隅郡大多喜町大多喜264
設立 1987年(昭和62年)7月7日
業種 陸運業
事業内容 鉄道による一般運輸業、旅行業、広告業
代表者 代表取締役社長 鳥塚亮
資本金 2億6,900万円(2011年3月31日時点)
売上高 2億1,021万5千円(2011年3月期)
営業利益 △1億2,786万4千円(2011年3月期)
純利益 3,078万4千円(2011年3月期)
純資産 1億1,487万9千円(2011年3月31日時点)
総資産 1億2,619万4千円(2011年3月31日時点)
従業員数 16人(2011年7月1日現在)
決算期 3月31日
主要株主
千葉県 34.20%大多喜町 15.20%
いすみ市 14.30%
小湊鐵道(株) 5.60%
(株)千葉銀行 3.70%
(2011年4月1日現在)[1][2]

存廃問題[編集]

木原線が第三セクター化されて以降、長年にわたっていすみ鉄道は赤字経営が続いており、2006年度で約1億2,700万円の赤字を出している。そこで、千葉県をはじめとする地元自治体などによって結成された「いすみ鉄道再生会議」は、「2008年からの2年間は収支検証期間として鉄道を存続させるが、2009年度決算でも収支の改善見込みが立たない場合、鉄道の廃止も検討する」ことを取り決めた[14]。

このため、経営立て直しのために2007年12月から社長を一般公募し、翌2008年2月に千葉県のバス会社平和交通社長(当時)の吉田平[15]に内定し、同年3月26日の臨時株主総会と取締役会で正式決定し、4月に就任した[16][17]。

そして2009年2月、吉田が千葉県知事選挙への出馬と社長辞任を発表したため[18]、 同年5月4日に社長の再公募を発表し、6月1日、123人の公募の中から元ブリティッシュ・エアウェイズ旅客運航部長の鳥塚亮が内定し、同月28日に開かれた株主総会と取締役会を経て代表取締役社長に就任した[19]。

2008年、オリジナル開発商品の「い鉄揚げ」の販売を開始した。ホタルウォッチング列車の運転も2008年より開始されている。 2009年には、「房総のけむり饅頭」の販売を開始するとともに「い鉄揚げ」に「カレー味」と「かりんとう味」を追加、同年10月からはムーミンをあしらった列車の運行を開始している。また、同年10月以降、大原、国吉、大多喜の各駅に直営店を開店(大多喜駅は新装リニューアル)し、ウェブショップも開設した。

2010年3月4日には、訓練費700万円を採用時に自己負担することを条件に列車運転免許を取得できるという運転士養成プランを発表した[20][21]。同プランに基づき40代から50代の男性4名が採用された[22][23][24]。これに対し、動労千葉は「700万円払えば運転士になれる」と呼びかけて募集している状態で運転保安は二の次にされていると懸念している[25]。その後、4人はディーゼル列車の運転資格である国土交通省の「動力車操縦資格試験」に合格し[26]、2012年夏より単独乗務している。
こうした経営努力の結果、同年8月6日に鉄道の存続が決定した[27]。

その後、2011年3月期決算では売店業などの伸びによって売上高が前期比58.1%増になるなど、経営状況が改善されるきざしも見られる[28]


http://www.isumirail.co.jp/gurume/2149
レストラン・キハで楽しむグルメ列車  10月分 発売のお知らせ
好評を頂戴している「レストラン・キハ」で楽しむ、いすみ鉄道ランチクルーズ「伊勢海老特急イタリアンコース」及び「伊勢海老特急・お刺身列車コース」10月分の受付を下記の通り開始させていただきます。(コースの名称を変更させていただきました。)

いすみ鉄道イタリアン
2014秋イタリアン(イメージ)

いすみ鉄道all1-300x256
イメージ・お刺身は2名様盛りです


さあ、このいすみ鉄道で、大原駅から大多喜駅へ出発!

(つづく)

[2014/10/02 23:24] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
大多喜お城まつり(その2):大原駅
2014年9月28日(日)11:35、3分遅れで‘大原駅’へ到着した!

このJR外房線・大原駅から、‘いすみ鉄道’で、目的地の駅・大多喜駅へ行くのであるが、今度の出発時刻は、11:58である。大多喜駅到着は、12:25分、鈍行で27分!

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この日は、9月28日(土)だと言うのに、過ぎ去った9/23・24の広告がまだ貼られている!
大原の‘はだか祭り’は、勇壮で、岡山のそれとは規模は一寸小さいとは思われるが、それはそれは凄いらしい!
‘らしい’というのは、まだ見たことがないからである。来年は是非・・・。

以下の画像が、千葉県大原駅前の様子・・。

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‘JR’と‘いすみ鉄道’、相互乗り入れはしていないが、お隣同士。ドア2枚で繋がっている。

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こちらが、JR大原駅。

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こちらが、いすみ鉄道大原駅。

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こちらが、いすみ鉄道のホーム入り口。ごった返している!

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これがJR大原駅へのドア。したがって、両駅ホームへは、これら‘2枚のドア’で繋がっているという訳!

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南総里見八犬伝でお馴染みの‘里見祭り’は、10月18日(土)、館山で・・・。

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‘いすみ鉄道’は、‘ムーミン列車’で売り出している!乗り場を確認して、外へ出てみた。

駅前は、南総だから‘お花’である!
ミツバチも飛んでいる!

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駅前の大きな建物と言えば、昔から、‘電電公社・NTT’である。

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駅前に‘朝市’と思しきお店を撮影しようとしたら、突然自転車の人が・・・!

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‘朝市’のおばさんは、この人お一人!

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いよいよ?、‘いすみ鉄道’の乗車券の購入!関東・東北・関西、JRに限らずどの私鉄でも使用が可能になった‘SUICA’が使えない‘貴重な’鉄道である!

(つづく)
[2014/10/01 08:58] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
大多喜お城まつり(その1):自宅から大多喜駅への中継駅・大原駅へ
2014年9月28日(日)は、速報でも申し上げた通り、千葉県夷隅郡大多喜町にある

大多喜城の‘お城まつり’

である!

我々が東京から千葉県茂原市へ引っ越してきて20年が過ぎた!
そして、大多喜町の町そのものや大多喜城や直ぐそばにある県民の森や城西国際大学の薬草園などなど、何度も行った事があるが、まだ、‘お城まつり’は見たことがなかった!

最近になって、大多喜町の魅力に魅せられるようになった事と再開発があると言う‘噂’を聞き及んでからは、益々身近になってきた!

‘相馬の馬追い祭り’ほどではないにしろ、 ‘房総小江戸’を名乗るだけあって、その意気込みが伝わって来る!

本日のご案内は、車を使わずに、我が家の最寄り駅・外房線・本納駅から大多喜駅への中継点、外房線・大原駅までの風景!

先ずは、そのJR外房線・本納駅の様子から・・・。
2014年5月1日から、営業時間が変更になった!
17:40から翌日の7:00までは無人駅になっている!

1995年度の一日平均乗車人員は、 2,327 人 だった(過去最高)のだが、
2012年度は、 1,755 人 で、1990年以降最低だったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E7%B4%8D%E9%A7%85
およそ‘25%’減だから、無人化時間帯になると言うのも無理からぬことかもしれない!

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それにしても(?)9月28日というのに‘雪化粧’とは?

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いやいや、屋根だけが‘白い’だけである。これは多分、‘断熱塗料’なのだろう。‘遮熱塗料’かも知れないが、真夏時には‘5℃’も下がると言うから、これは冷房費の削減に役立つに違いない!

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何だか地中海辺りの建物みたいで、素晴らしい!

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雪ではないことは明白である・・・。

さて、10:41発の外房線下り列車に乗った!

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茂原駅での乗車状況! 行楽日和の9月28日の日曜日だと言うのに・・。
勿論、行楽客は自家用車で出かけているに違いないのだが・・・。
これじゃあ、JRさんも大変に違いない!

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つり広告や、車体壁の広告だって、少ないのが目立つ!

(つづく)
[2014/09/30 22:16] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
大多喜町の‘お城まつり’(その1):速報
千葉県夷隅郡大多喜町、このブログで何度も取り上げさせて頂いた町である。

‘何度も’の理由は、沢山あるのだが、一番の理由は「町全体の人達が、細々とではあるが、町の発展に心を一つにしている」ように窺えるところにある。

大多喜町の人口は、わずか(?)一万人強(平成26年1月1日現在で、10,122人)なのだが、町全体を江戸時代の初期の頃までタイムスリップさせようとしている。

その心意気が‘お城まつり’に現れている!

今日、2014年9月28日が、その‘お城まつり’の当日なのである。
そのパンフが下の画像!

大多喜お城まつりパンフ-2
大多喜お城まつりパンフ0001-2

私達は、千葉県茂原市に住んでいるので、大多喜町までは約30km。
普段は車で行くのだが、町挙げての‘武者行列’というから交通制限と駐車場のことを考えると今回は初めて電車で行って見ることにしたのである。

最寄の駅、外房線・本納駅から大原駅まで外房線で行って、そこから‘いすみ鉄道’で大多喜駅まで、鈍行で行けば、待ち時間を合わせて約100~120分!

① 大多喜城での武者行列出発式
② 御神輿と武者とのコラボレーション式典
③ 武者行列

①&③、これらの速報を!

特に、携帯を掛ける‘加藤清正’! 
そして、イケメンの‘本多忠勝公’!

このイケメン・忠勝公は、一体誰?
明日、町役場に聞いてみる??

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詳細は、別途!

(つづく)
[2014/09/28 23:10] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
‘行徳橋’!(その2):橋からの眺め
千葉県夷隅郡大多喜町にある‘行徳橋’へ行った!

この橋の両袂には、この大多喜町を有名にした元祖、本多忠勝初代大多喜城城主の銅像があるというWEBからの情報を頼りに行ってみたのである。

この‘行動’の裏には、まだ公表は出来ないが、或る‘秘密結社’(一寸大袈裟過ぎる!?)の存在があり、政府の‘地方創生’方針に沿った開発が目論まれているという情報をキャッチしたからでもある!

その話の詳細は後日またこのブログに書かせてもらう事にするが、行ってみて確かに忠勝の銅像は在った!
このことは昨日のこのブログに紹介してある!

しかし、二つの‘不満’が残った!

① 忠勝の銅像が‘小さ過ぎる’!
② この行徳橋から大多喜城が良く見えない!

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この二つの画面からもお判りの通り、大きさの目安のものを一緒に撮影していないのは申し訳ないが、その‘小ささ’が見て取れる。目測では、坐像の高さは、多分60~70cm程度!
これでは、忠勝公も一寸不満かもしれない!

さて、さて肝心のこの行徳橋からの大多喜城の眺めは?

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この角度からは、大多喜城は全く見えない!

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さて、ここからは?
あっ!見えた!見えた! 画面の中央の少し右よりの位置。青く見える‘屋根’の左にかすかに!

これを望遠で撮影したのが、下の画像である!

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少し前進してみても、これがこの行徳橋から見える‘望遠’でのぎりぎりの画像で、裸眼ではきょろきょろしてもフツーの状態では気付くことが出来ない!

私の方は、予めWEBで調査をしていて、ここから見えるという確信があったから探し出せたのである!
やれやれ、これじゃあ御大・忠勝公の銅像からも見えやあしない!

橋の欄干には、家康の御紋だった‘立ち葵’が組み込まれているし、忠勝公の戦の‘レリーフ’もあって工夫がなされているのはご立派である!

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この川は、夷隅川である。曲がりくねった川であるが、房総半島ではその流域面積が最大である。延長約68km!

この川をもう少し遡ったところに、‘桜の名所’があるという!

(つづく)
[2014/09/15 23:48] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
大多喜町の魅力!
‘住めば都’という!

だが、よくよく考えてみるとそう簡単には行かないことをみんな経験しているに違いない!

私は、大昔、そう、もう20年以上も昔のことである。
単身赴任の期限が来て送別会を開いてくれた皆さんの前で挨拶をすることになったのだ!

ほとんどの人が、
「この地を‘第二の故郷’と思って忘れることはありません!皆さん有難う!」
と言うのだそうである。

感謝の言葉としては、これが一番無難である!

しかし、これではやはり‘新鮮味’がない。
その時、私は初めて‘故郷とは何か?’と考えてみた。そして、私が‘定義した故郷’とは次のようなことだった。

<故郷とは>
① 自分のことをよくよく理解してくれる‘親友・知人’(家族も含む)がいる場所
② 真から美味しいと思う‘食べ物’がある場所
③ 美しく落ち着く‘景色’がある場所

という結論に到達した。

「私が考える‘故郷’とは、これです!このことからすると、最早この地は私にとって‘第一の故郷’で~す!」

そう挨拶をして、拍手・喝采を浴びた思い出がある!

その単身赴任先とは、愛媛県・松山市である!
友人・知人は、多分500~1,000人、瀬戸内の鯛やタコをはじめ魚の宝庫、そして瀬戸内海の美しい景色!
住みたい場所の筆頭である!

さて、2014年09月13日(土)、今年の気象は異常なのだが、この日は正に‘秋そのもの!’と言った天気に恵まれた!

今後ご縁が出来そうな町、千葉県夷隅郡大多喜町へ行って、大多喜城の初代城主・本多忠勝の銅像を確かめ、今後の開発が見込まれる‘地域’を下見するため、午後から我が家を車で出発することになった。

結論から先に言えば、この大多喜町が‘故郷’と思えるように段々なってきたのである!

我が家から大多喜町までは、約30km、車でちょうど一時間と言ったところである。

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2014年09月13日14:25  自宅を出発!

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15:23 丁度一時間で大多喜町夷隅神社に着いた。
大多喜町の町役場に駐車させて貰って、それから歩きで目的地へ行こうと思ったのだが、この日は町役場の建物の改修工事が行われていると見えて工事会社の建築事務所が町役場の駐車場を占めていて、しかも関係の車が多数駐車していたために、急遽約100m南の夷隅神社の駐車場に停めさせて頂くことになった。

この‘夷隅神社’は由緒ある神社であるが、この解説はまた後日・・・。

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ここは、夷隅神社の裏の駐車場。

見上げてみると、この大銀杏には、

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‘ぎんなん’が鈴なりである!

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こんなに‘びっしり’である!
これじゃあ、「また来なきゃぁ!」と思った次第!

さて、本多忠勝の銅像があると言う‘行徳橋’の近くで、「こりゃあ、まあ~!」と驚くほどの大きな‘栗’に出会った!

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両手でも一つしか持てないほどの大きさ!

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スケールがなかったので、‘スマホ’と一緒に・・・

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もぎ取って中身の栗の大きさを見てみたいと思ったが・・・。

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この栗も‘鈴なり’である!
大多喜町は、‘たけのこ(筍)’で極めて有名な場所なのだが、‘ぎんなん’も‘栗’も有名なのだろうか?

駐車した夷隅神社から、歩いて7~8分で最初の目的地‘行徳橋’へ着いた!
WEBで調べたとおり、本多忠勝の銅像が見え始めた!

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(つづく)
[2014/09/13 23:58] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
こんにゃく食品の魅力!
‘こんにゃく’の魅力は、歳を取れば取るほど関心が増すことにある!

お判りの通り、歳を取ってくると身体の至る所に‘ひずみ’が出てくる。
その‘ひずみ’とは、食べ過ぎや運動不足によって、本来の身体の機能がうまく働くなることである。

それを解消してくれるのが、この‘こんにゃく’である!

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http://tabeyo.e-fukui.com/webapps/www/material/detail.jsp?id=140

http://garop.jp/c3/vg/konnnyaku.htm
コンニャク/期待される効能・効果

肥満を予防したり、便秘の改善に有用とされます。また、糖尿病や動脈硬化、高血圧といった生活習慣病の予防にも役立つと言われています。含有される成分には食物繊維がありますが、そのほとんどはグルコマンナンとなります。コンニャクはエネルギー量が低いことで知られており、構成する九割以上は水分と言われています。グルコマンナンはもともと水溶性ですが、アルカリ液を添加すると凝固します。栄養としての価値はありませんが、食物繊維そのものは高い整腸作用を呈します。また、消化されないため腸まで移動し、有害物質や老廃物、コレステロール、糖質などを自身に吸着させ、そのまま排泄される特徴があります。このため、癌や動脈硬化、糖尿病の予防に有用とされています。また、水分吸収率も高いため、排便量を増加させる働きもあると言われています。その他、腸内の善玉菌を増加させる働きもあると考えられています。


http://hontonano.jp/eiyou-memo/052glucomannan.html
グルコマンナンぐるこまんなん

グルコマンナンは腸で消化されない食物繊維(複合多糖類)で、こんにゃくいもから精製されたもの。これを湯にとかし水酸化カルシウムで固めたものが食用のコンニャクです。コンニャクは、凝固用に使用するアルカリ剤(水酸化カルシウム)の影響で、日本では数少ないアルカリ性を示す食品です。

グルコマンナンは、水を吸収し、30分で約10倍、6~7時間で約100~200倍に膨らむ。この性質は、食品分野ではゲル化剤・品質改良剤・増粘剤・保湿剤・吸収剤などとして、広く食品、工業分野に使用されています。

軟骨組織や関節液にあるコンドロイチンや、ヒアルロン酸の主原料になるものである。もともとグルコサミンはタンパク質と糖を原料に肝臓で合成されるが、その合成能力は、年齢とともに低下していく。

グルコマンナンの効果

① コレステロール低減
② 血糖値の低減
③ ダイエット、整腸、食物繊維の補給


しかし、この通りの効果があることはみんな知っているのに、何故そんなに食べられていないのだろうか?
それは、‘単純な料理方法’しかなかったからのように思われる!

しかし、しかしである!
昨日の弊ブログに書かせてもらった通り、‘こんにゃくジャーキー’という発想 がある!

こんにゃくジャーキーDSCN0405_400
http://www.konnyaku-museum-shop.com/SHOP/list.php

食感といい、味といい、正に‘こんにゃくの革命’だと思った!

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・1位 こんにゃくぱん
・2位 こんにゃく蜂蜜カステラ
・3位 こんにゃくあげ餅 醤油味
・4位 こんにゃくラーメン
・5位 こんにゃくチョコレートパン

だそうで、こんにゃくジャーキーは、5位以内に入っていない!

こんにゃくパークの場所は!

こんにゃくパークaccess-map

・上信越自動車「富岡インター」/車で約10分
・JR新幹線「高崎駅」下車(東口)/車で約30分
・上信電鉄「上州福島駅」下車/車で約10分
・上信電鉄「上州富岡駅」下車/車で約15分
・世界遺産「富岡製糸場」から車で約15分
・「群馬サファリパーク」から車で約20分

(つづく)
[2014/09/12 23:58] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
日本における磁器の歴史と発展
今、NHKの大河ドラマ・軍師官兵衛では、本能寺の変・山崎の合戦が終わり、いよいよ秀吉が天下人となる段階に来た。
日本の磁器が生まれ、その発展を担ったのは、佐賀県・有田町である。
有田焼が生まれて‘400年’が、再来年(2016年)というから、‘日本の磁器の歴史は、1616年から始まった’ということになる。

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http://morinokajiya1929.cocolog-
nifty.com/blog/2009/07/197-2dbb-1.html

人間国宝・井上萬二の白磁


豊臣秀吉と日本の磁器の歴史とは、密接な関係があることは周知の通りである。
秀吉の朝鮮出兵なくして1616年の磁器生産はなかったに違いない!
世界で一番早い磁器の生産は、勿論中国であり、それは日本に伝わった年より約1,000年も昔だそうだ。

http://www.harmony2.net/13/jk1.html
磁器の焼成では、最古である中国(刑州) より約千年も遅れて、1616年
秀吉の朝鮮出兵(1592~1598)の際に連れ帰った李参平という帰化陶工が、鍋島藩 (現在の佐賀県有田)で焼いたとされています。


ほとんどの日本人が知らないのは、

① 何故秀吉が朝鮮で戦争を起こしたか?
② その規模(送った武士等の数や期間)は一体どのくらい?

‘正しい歴史認識を’と韓国大統領から指摘されたとしても、‘慰安婦問題’のことは別として、朝鮮と日本の関係を任那日本府の時代に遡って正しく客観的に歴史認識をしている日本人がどのくらいいるだろうか?

今、やることがなかったら、その歴史を自分でしっかりと調べ直してみるのもいいかもしれない!

現在の日本の自衛隊員数とは比べ物にならないほど(約10倍?)の武士等を送り込んでいたのである。
当時、日本の‘兵隊要員’の数は、世界最大であった!

文禄・慶長の役を経て、日本が失ったものは?
得たものは?

得たものの一つが、磁器の開発に繋がる‘陶工達’の連行(?)である!

(つづく)
[2014/08/05 00:28] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
NHK大河ドラマの制作費
NHKの大河ドラマ誘致 については、この弊ブログでも何度か紹介したことがあるが、千葉県・夷隅郡・大多喜町が、大多喜城の君主・本多忠勝、忠朝親子を主人公にしたドラマを!と随分前から活動されているという!

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http://www.honda-tadakatsu.com/

その誘致趣意書が以下である。

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http://www.honda-tadakatsu.com/syuisyo.asp
わが大多喜町は、町づくりの視点の一つに「大多喜らしさを創造・発信する誇れる町づくり」をあげ、歴史環境を資源とした町並み整備事業や歴史・文化にかかわる活動を積極的に推進しております。

大多喜町の歴史は古く、永い間千葉県南房総地区の中心的な役割を果たして参りましたが、中でも今から約四百年前、近世上総大多喜城を築城し、城下町の整備を始め、当町の基礎づくりに貢献した人物が、徳川四天王の一人「本多忠勝」とその次男「本多忠朝」であります。
本多忠勝は、徳川家康の最重要側近として戦国の世を駆け抜けた勇猛果敢な武将であります。

生涯五十七戦の戦に無敗を誇り、家康に過ぎたる者とたたえられ、止まったトンボさえも真っ二つになるという「蜻蛉(とんぼ)切(ぎり)」の槍の名手として多くのエピソードが、残されております。

また、本多忠朝は、慶長14(1609)年、御宿沖で座礁したスペイン船乗組員317名の命を救い、以後、日本、スペイン、メキシコの友好交流の基を作った人間性豊かな二代目城主であります。

これらのエピソードは、ごく一部でありますが、近世初めの戦国の世から太平の世へと移る日本の歴史を背景に大河ドラマとしてNHKに取りあげていただき、放映の機会を得れば、多くの登場人物の人となりや生き方は、とかく人間関係が薄れ、人と人との絆が失われつつある現代社会へ光明をもたらし、多くの人々の共感を得られるものと確信しております。

さらに、誘致活動を進めていくことは、各位が大多喜町の歴史・文化についての思いを新にし、地域振興に役立つものと考えます。

また、夷隅郡市はじめ、県内各市町村、本多氏とゆかりのある国内各市等と連携して、この活動を推進していけば、全国的な広がりも期待できると考えます。

何とぞこの趣旨にご賛同いただきまして、絶大なるご支援、ご協力を賜りたくお願い申し上げる次第でございます。

千葉県夷隅郡大多喜町大多喜九三番地 大多喜町役場内

NHK大河ドラマ「本多忠勝・忠朝」誘致実行委員会

会長  井守 新

他実行委員一同


さて、‘ 絶大なるご支援、ご協力を賜りたく’と仰せのことは多分‘寄付金’のことではないかと気になった。
そこで、‘NHKの大河ドラマ’の制作費は一体どのくらいの巨額なのだろうか?が気になりだし、他の人達にも聞いてみた。

A:「えっ? そう、数億円?」

B:「そんなんじゃあ、足りないって!だってさ、映画一本100億円以上って沢山あるじゃん? そ~ねえ、150億円!」

C:「バ~カ!そんなにするかよ、まあ10億円以下!」

D:「1億円以上するはずない!NHKって、貧乏なんだよ!」

さて、さて、過去のNHK大河ドラマの制作費ってどのくらいなのだろうか?

NHKの大河ドラマは、1963年(昭和38年)の「花の生涯」から始まって、今放映中の「軍師官兵衛」で53本目。
実は、既に‘54本目(花燃ゆ)’、‘55本目(真田丸)’が予定されている、という!(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B
2%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E

製作費について[編集]2005年以降、NHKの不祥事がクローズアップされたため透明性を明かすために『功名が辻』以降、毎年の決算概要に1話分の平均製作費について公表している。なお、『功名が辻』が6,110万円、『風林火山』が6,080万円、『篤姫』が5,910万円である。ほとんどの支出がセットなどの美術費であるとのことである[11]。『義経』は6,440万円


Dさんの予測が当たっているのだが、制作費の中に‘出演料’は含まれていないのだろうか?
大物俳優さんの出演料は、我々ど素人には想像もつかないが・・・。

案外、安~い!

(つづく)
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[2014/07/08 23:47] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
茂原の七夕祭りの広告が、東京駅に・・・。
房総半島で「七夕祭り」と言えば、茂原市と決まっているらしい!
全国的なことで言えば、「七夕祭り」は、仙台と平塚だと思われる。勿論、京都だって東京の阿佐ヶ谷だって有名なのだが・・・。

本日、2014年07月07日は七夕祭りであるが、全国的に一斉というわけではない。旧と称して8月7日を中心というところも多い。九州辺りでは、こっちの方が普通である。

さて、今日東京駅の地下通路を丸の内側から八重洲方面へ行こうとした時に‘もばら’という文字が目に飛び込んできた!
やはり、茂原市に住んで20年も経つと、生まれ故郷よりも住んだ期間が長いのだから‘愛着’が強いのは当たり前である。

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茂原市の七夕祭りが、どうして7月25,26,27日なのかは知らないが、多分土日を入れての3日間なのだろうから、曜日で決まっていると思われる!

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茂原への行く方法として、JRを!ということで東京駅が場所を提供してくれたに相違ないが、‘渋滞知らず’とはJRらしい!

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でも、でもである。東京駅で‘茂原市’の文字や宣伝に出会うと何となく恥ずかしいやら誇らしいやら、の気持ちになるということはやっぱりもう‘茂原人’なのだろう!

決して‘茂・原人’と間違わないでほしい! ‘北京原人’と同類ではないのである!

(つづく)
[2014/07/07 23:31] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
大多喜城の遺産(その4)
大多喜城の遺産(その4)

大多喜城の遺産として、当時の建造物が残っているのは、

① 薬医門
② 大井戸


の二つである。

薬医門については前回見てきた。
今度は大井戸である。

http://www.pref.chiba.lg.jp/kkbunka/sonohoka/minwa/minwa-28.html
大多喜城「底知らずの井戸」

天正(てんしょう)十八年(一五九〇年)本多忠勝(ほんだただかつ)は徳川家康(とくがわいえやす)の命(めい)により大多喜城を築いた。生活に水は欠かせない。まして、戦(いくさ)で籠城(ろうじょう)ともなると、水が生死を分ける。そこで城内二の丸に、日本一と呼ばれる大井戸を掘った。雨の降らない夏でも、満々と水をたたえ「底知らずの井戸」と呼ばれていた。

八代藩主(はんしゅ)松平正和のときだ。

「あの大井戸は、底知らずの井戸だ。いくら水を汲(く)んでも尽(つ)きることはない」

「いや、そんなバカなことがあるか。たくさん汲めば水はなくなるに決まっている」

「いや、尽きることはない」

侍(さむらい)たちが言(い)い争(あら)そっている。そこで、殿様に許しを得て井戸の水を汲(く)み出すことになった。

城下の力自慢五十人の人夫を集め、水が汲み出された。八個の滑車(かっしゃ)に十六個のつるべ桶(おけ)で、水汲みが行われた。人夫たちも言い合った。

「底のない井戸なんてあるものか。昼頃には底が出てくるさ」

「いや、底なしの井戸といわれているらしい・・・」

「こん井戸は夷隅川につながっているらしいぞ」

「夷隅川どころか、遠く太東岬(たいとうさき)の海につながっているんだって」

「そんなばかなことがあるもんか」

「いや、城が敵(てき)に囲まれたら、大井戸に逃げ道が・・・」

陽(ひ)が沈み暗くなった。それでも作業はつづき、夜を徹(てっ)して水を汲み出した。朝を迎えた。さすがにみな、疲労の色は隠(かく)せなかった。

「本当に底がないのかねえ」

「ばかな、あるにきまっている。もう一日、水を汲み出してみよう」ということになった。

いくら汲み上げても底が見えない。必死になって汲み上げた。二日目の夜になった。それでも底は見えてこない。やがて、東の空が明るくなり夜が明けた。

井戸をのぞいて見ると、相変(あいか)わらず満々と水をたたえている。

「やっぱり、お城の井戸は底なしだ」

みな、その場に長々と寝(ね)そべってしまったと。

おしまい

(『大多喜城物語』参考 斉藤弥四郎  ふるさと民話さんぽ「広報おおたきNo.425」より)


この問題は、現在考えれば、割に簡単なのだが・・・。
つまり地下水が絶え間なく注ぎ込まれるのだから、汲み上げる量がその水量より少なければ涸れることはない!

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大井戸は、天守閣とはこんな位置関係にある!

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http://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/p411-029.html

大井戸の高さ位置から見上げた天守閣の崖が以下である。

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以下は、天守閣へ戻って駐車場へ向かう道中の画像!

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トイレだってこんなにご立派!

(つづく)
[2014/07/06 23:20] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
大多喜城の遺産(その3)
大多喜城の遺産(その3)

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大多喜城の歴史については、以下の文献に詳しい!

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A4%9A%E5%96%9C%E5%9F%8E
大多喜城の歴史・沿革[編集]大永元年(1521年)に真里谷信清が「小田喜城」として築いたのがはじまりとされる。以前は小田喜城は同町内の根古谷城のことであり、今日の大多喜城は徳川家康によって大多喜の地を支配した 本多忠勝 が築城したものと考えられてきたが、近年の発掘によって現在の城の地下に大規模な城の遺構が遺されていることが明らかとされて、小田喜城と大多喜城とが完全に重なる訳ではない(戦国期には裏山である栗山が城の一部に使われていたが、江戸期には栗山は除かれてやや麓側に縄張りが移動されている)ものの、現在では信清の小田喜城を元にして後の大多喜城が築かれたものと考えられている。信清の後を継いだ真里谷朝信の代の天文13年(1544年)に、里見氏の武将正木時茂によって真里谷氏は城を奪われて、以後時茂・信茂・憲時の3代に渡って正木氏が支配して、上総国東部支配の拠点とされた。だが、天正9年(1581年)に里見義頼との内紛によって憲時が殺害されると、同城には里見氏の代官が派遣されたという。

天正18年(1590年)、里見氏が惣無事令違反を理由に上総国を没収されると、同国は徳川家康に与えられ、その配下の勇将・本多忠勝が城主となり、大多喜藩10万石が成立した。忠勝は里見氏の北上を防止するために突貫工事を行い、3層4階の天守を持つ近世城郭へと大改築を行い、ふもとに城下町の建設を行った。これが今日の大多喜城である[1]。

以後、この城は大多喜藩の拠点として幕末まで重要な役割を果たしてきたが、元和5年(1619年)9月、藩主阿部正次の転封により大多喜藩は一時的に廃藩となったため、城は荒廃した。寛文11年(1671年)12月、阿部正春が1万6000石で入城した際、幕府から「大多喜城は城跡になってしまっているので、追々再建するように」という命令が下ったものの、「一重の塀もないありさまで、門や櫓などもない」という当時の記録の通り、大多喜藩規模縮小に伴い、荒廃した状態で長く支配が行われていたようである。元禄3年の幕府隠密の調査記録と思われる、『土芥寇讎記』にも、「幕府から大多喜城の再建命令が通達されたにも関わらず、大多喜藩では命令を履行していない。塀もない状態だ。ましてや門や櫓などあろうはずがない」と記されている。史料が少ないために江戸時代の状態は不明な点も多いが、阿部氏以降の城主は多少の増築などは行ったようである。ただし山頂の天守などは荒廃していたようだ。天保13年(1842年)には天守が焼失し、天守の代わりに2層の「神殿」と称する建築が天保15年(1844年)8月に建てられていたと考えられている。

明治3年12月に城は取り壊され、その後本丸も削平されたという。[2]その後、昭和41年(1966年)に本丸跡は千葉県の史跡に指定された。昭和50年(1975年)に城跡に天保6年(1835年)の図面を基にして天守が再建されて、内部には千葉県立総南博物館(現在の千葉県立中央博物館大多喜城分館)が設置された。


現在、大多喜城の‘本物’の建造物で残存しているものは、ただ二つのみ!

① 薬医門
② 大井戸


大多喜高校敷地内での以上の二つの実地検分!

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上の二つの看板画像で少々データの食い違いが気になる

それは、‘火災’が、天保13年なのか、14年なのか?ということであるが、まあ、一般的にはそう気にはならないだろうが、私の場合に限っては、大いに気になるのである!!

天保14年の方の記事では、火災が起こったのが、「天保14年7月3日」とまで書かれている!(一つ上の画像)
実は、私の生年月日が、天保と昭和の違いがあっても、14年7月3日だからである!
こちらの看板には、文章の責任者(?)名が記載されているが、二つ上の画像には、その記載がない!ただし、それだけでは、どうちらが正しいかを判断してはならないが、どうしてこんな違いが出るのだろうか?

もう一度拡大画像を!

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いずれにしても、千葉県教育委員会にも大多喜町教育委員会にも問合わせてみる必要がある!

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虫食い(正確には、‘腐朽菌’による腐食)が少々気になる! 何とか防腐処理を今施さないと長年の保存は難しいのではないか??

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薬医門に別れを告げて、大井戸の方へ移動!

(つづく)
[2014/07/05 23:28] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
大多喜城の遺産(その2)
今、大多喜町では、‘NHK大河ドラマ’に本多忠勝、忠朝の物語を!というキャンペーンを張っている。

画像ー243大多喜城と薬医門 088-2

その舞台は、当然のことながら‘大多喜城’であり、昨日このブログ欄でご紹介した実物での建造物

① 薬医門
② 大井戸


をフル活用した物語となるに違いない。

ジオラマが4階にある。

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この画面のほぼ中央の丸い建造物が、‘大井戸’である!
その大井戸の直ぐ左上の建物が‘薬医門’である。

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これは、角度を変えた場所から見たもの・・。

大多喜城の天守閣から二つの建造物を見たあと、早速‘現場’へ行ってみることにした!

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天守閣のある本丸跡から階段を降りていけば、その現場に行ける!

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大井戸が見えてきた!

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二の丸があった場所には、現在県立大多喜高校がある。

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中学校及び高等学校の校歌の石碑を過ぎて、学校の正門の直ぐそばに、有名な‘薬医門’が見えてきた!

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(つづく)

[2014/07/04 23:07] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
大多喜城の遺産(その1)
千葉県夷隅郡大多喜町に‘大多喜城’がある。
お城がある、といっても江戸時代のお城その物が残っている訳ではない!

このことは、特殊のところは別として、普通のどこのお城の事情とほぼ同じであるが、特に大多喜城は、その天守閣についての情報がほとんどなく江戸時代の多数のお城の仕様の平均値(?)を仕様にして作られたそうであるから、それこそ本多忠勝殿が現れて見てみたら、「ナニコレ?」と仰せかも知れない!

さて、このお城敷地内に、江戸時代に存在した‘建造物’が‘二つ’そのままの状態で存在するという。

① 薬医門
② 大井戸


2014年07月02日、この二つを訪ねて、大多喜城へ行ってみた。

先ずは、65歳以上無料の大多喜城(千葉県中央博物館・大多喜城分室)へ・・・。

城内は、ほとんどの場所で‘撮影禁止’なのだが、‘体験コーナー’と‘最上階からの窓から’の撮影は許可されている!

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これが、大多喜城から見た‘薬医門’である!
詳細は、この後の弊ブログで・・・。

(つづく)
[2014/07/03 23:56] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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