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父の日・母の日:(その2)母の日
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http://acsave.moo.jp/pg189.html

プレゼントとしては、勿論カーネーションもいいが、親にとっては永遠に残る自分の子供が描いた絵の方が嬉しいに決まっている!

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http://kamiyagakuen.com/wp/?activity=
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母の日の由来

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%8D%E3%81%AE%E6%97%A5
母の日(ははのひ)は、日頃の母の苦労を労り、母への感謝を表す日。日本やアメリカでは5月の第2日曜日に祝うが、その起源は世界中で様々であり日付も異なる。例えばスペインでは5月第1日曜日、北欧スウェーデンでは5月の最後の日曜日に当たる。

起源

アイルランドとイギリス[編集]

「マザリングサンデイ」は移動祝日で、キリスト教暦のレント(四旬節)期間の第4日曜日(復活祭の3週間前)に祝われる。17世紀に起源をもつと言われる(奉公中の子ども達が年に一度、教会で母親と面会出来る、など)。

アメリカ[編集]

アメリカでは南北戦争終結直後の1870年、女性参政権運動家ジュリア・ウォード・ハウが、夫や子どもを戦場に送るのを今後絶対に拒否しようと立ち上がり「母の日宣言」(Mother's Day Proclamation)を発した。ハウの「母の日」は、南北戦争中にウェストバージニア州で、「母の仕事の日」(Mother's Work Days)と称して、敵味方問わず負傷兵の衛生状態を改善するために地域の女性を結束させたアン・ジャービスの活動にヒントを得たものだが、結局普及することはなかった。
ジャービスの死後2年経った1907年5月12日、その娘のアンナは、亡き母親を偲び、母が日曜学校の教師をしていた教会で記念会をもち、白いカーネーションを贈った。これが日本やアメリカでの母の日の起源とされる[1]。
アンナの母への想いに感動した人々は、母をおぼえる日の大切さを認識し、1908年5月10日に同教会に470人の生徒と母親達が集まり最初の「母の日」を祝った。アンナは参加者全員に、母親が好きであった白いカーネーションを手渡した。このことから、白いカーネーションが母の日のシンボルとなった。アンナ・ジャービスは友人たちに「母の日」を作って国中で祝うことを提案。
1914年に「母の日」はアメリカの記念日になり、5月の第2日曜日と定められた[2]。

日本[編集]

日本では、1931年(昭和6年)に、大日本連合婦人会を結成したのを機に、皇后(香淳皇后)の誕生日である3月6日(地久節)を「母の日」とした[1][3]が、1937年(昭和12年)5月8日に、第1回「森永母の日大会」(森永母を讃へる会主催、母の日中央委員会協賛)が豊島園で開催された[4]後、1949年(昭和24年)ごろからアメリカに倣って5月の第2日曜日に行われるようになった。母の日にはカーネーションなどを贈るのが一般的。


世界の「母の日」の日付

母の日 - Wikipedia0001

父と母の‘文字’の由来(起源)について

私達が毎日使っている漢字は、ものの形から生まれた絵文字(象形文字)から出来ています。このコラムでは父・母の漢字由来を解説します。
http://okcoram.jp/coram173.html
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父の漢字の由来

手にムチを持つ姿を一族の統率者として、「父」としました。
古来、子供の為にムチや斧を持って獲物を狩に行く男性の姿から「父」という
漢字が生まれました。

母の漢字の由来

きらびやかにしなった腕でひざまずいている女性の姿に
点を2つ追加したのが「母」の漢字の由来です。
この2つの点は、両手で子を抱きかかえている姿とも
子供に乳を与えている姿とも言われています。
その様子から「母」という漢字が生まれました。


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http://sii7k.blog88.fc2.com/

現在の‘ハハ呑気だね!’は、こんな風に変わって来ている!


http://www.youtube.com/watch?v=bzo4vJ65F_0

最後にこんな統計があるということをお伝えして・・・

母の日に夫からプレゼントして欲しいことランキング - その他ランキング - goo ランキング0001-3
母の日に夫からプレゼントして欲しいことランキング - その他ランキング - goo ランキング0001-2
http://ranking.goo.ne.jp/ranking/999/mothergift_husband_female/

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http://www.katsufujiya.com/blog/index.php?ID=1135

さいなら、さいなら、さいなら!

(つづく)

[2013/06/17 01:09] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
父の日・母の日:(その1)父の日
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http://ameblo.jp/yoo43yuki825/entry-11547993943.html?frm_src=thumb_module
「父という字はビールで乾杯する姿から生まれたんです」「・・・・・ウソです」

今日、6月の第三日曜日は、‘父の日’だという。少し前に‘母の日’があった。

「‘ちち’が歳をとると‘ぢぢ’になり、‘はは’が歳をとると‘ばば’になる!」と我々は聞かされて育った。

その時代には、‘父の日’や‘母の日’なんてものは 存在しなかった!毎日が‘尊敬’の日だったから、そんなものは必要なかったのである!

しかし、戦後の馬鹿げた教育方針で道徳観は薄れ、経済至上主義が横行したおかげで、日本国民の‘心’は廃れてしまい、‘父の日’や‘母の日’を作らなければ、父を想い出し母に感謝する心を持ち合わせることが出来なくなってしまったのである。

私は、小さい時から

「‘遅々’として進まず、‘はは’として呑気!」が最高の生活、と思ってきた。

物事はそんなに急に進んではいけない!‘テクノロジー’が急に進み過ぎると、現在のように‘追いついていけない世代’が出現し、‘差別’を産んで、それが父や母を尊敬しなくなる‘文化’を産んでしまったとさえ考えている!

‘テクノロジ―’とは‘テクテク’、‘ノロノロ’進んでこそ‘テクノロジー’なのである!
今の‘スマホ’の進歩(と言うより‘進化’)の仕方、もう人間味など微塵も感じられない!

‘はは’として呑気!、とは‘ハハ、呑気だね!’という‘呑気節’という歌が凡そ一世紀も前に流行ったことにその元がある!

http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/172738/m0u/
のんき‐ぶし【のんき節】
《歌の終わりに「はは、のんきだね」という囃子詞(はやしことば)が入るところから》大正7年(1918)ごろから流行した俗謡。添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう)が社会を風刺して歌ったもの。また、昭和に入って演歌師の石田一松が歌い、人気を博した。




http://www.youtube.com/watch?v=BCTOU0S3wqU
公開日: 2012/03/20
邦楽番外地シリーズ
土取利行(三弦弾き唄い)/添田唖蝉坊(作詩・曲)ノンキ節
大正6年に作られ7年から流行。縁日や夜店などで演歌師がうたった。そのうち報知新聞­に麻生豊の漫画「ノンキナトウサン」が出て、これを石田一松が「ノンキ節」の曲にあて­はめて唄いこれまた演歌師の歌となった。石田一松は後年、法学士となり、衆議院議員で­三期当選の緒にもついた。

ここでは、‘ハハ、呑気だね!’の‘ハハ’が‘ホ!’としか聞こえない!


http://www.youtube.com/watch?v=r1pP-WfcCBA
アップロード日: 2009/12/27
(名人会寄席の夕)
時事小唄 のんきだね
石田一松
詩 石田一松
曲 添田唖蝉坊
テイチクレコード
レコード番号 T3242

ここでも‘ハハ’が‘ホホ’と聞こえるが・・・。

‘呑気な生活’こそ、人類や地球上に存在するあらゆる‘もの’が本質的に求めている‘理念’である!

そんな訳で‘文化’こそが人間が目指す道であるのに‘文明’という‘文化’発展の為の‘道具・手段’が、経済至上主義という心狭き思想のために悲しいかな主流になってしまったのである。‘本末転倒’とは、正にこの事である!

人類の犯した最大の罪は、この「‘文明’の偏重主義にもの申す雰囲気を造れない」という事である!

したがって、‘人類の破滅及び地球の破滅’は、この最大の罪である‘文明’こそがその役割を演じることとなるであろう!

なんだか、‘教祖様’の発言のようで恥ずかしい! <この馬鹿!誰が‘教祖様’か!>(註:<>は陰の声!)

大体、「00の日」と言うのは‘商戦の日’なのである!クリスマス’だって、そう!‘バレンタインデー’なんて典型的!

とうとう‘父の日・母の日’も利用される‘日’に格下げされてしまったのである!

でもまあ、そのルーツを探って設定された尊い意味を認識すると同時に現在の日本での‘商戦’に裏付けされた如何にも情けない‘設定’を明らかにしてみたい。

(1)父の日

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%88%B6%E3%81%AE%E6%97%A5
父の日(ちちのひ)は、父に感謝を表す日。

主な父の日[編集]

1909年にアメリカ・ワシントン州スポケーンのソノラ・スマート・ドッド[1](Sonora Smart Dodd)が、彼女を男手1つで自分を育ててくれた父を讃えて、教会の牧師にお願いして父の誕生月である6月に礼拝をしてもらったことがきっかけと言われている。彼女が幼い頃南北戦争が勃発。父ウィリアムが召集され、彼女を含む子供6人は母親が育てることになるが、母親は過労が元でウィリアムの復員後まもなく亡くなった。以来男手1つで育てられたが、ウィリアムも子供達が皆成人した後、亡くなった。
最初の父の日の祝典は、その翌年の1910年6月19日にスポケーンで行われた[2]。当時すでに母の日が始まっていたため、彼女は父の日もあるべきだと考え、「母の日のように父に感謝する日を」と牧師協会へ嘆願して始まった。
1916年、アメリカ合衆国第28代大統領ウッドロー・ウィルソンは、スポケーンを訪れて父の日の演説を行い、これにより父の日が認知されるようになる[2]。
1966年、アメリカ合衆国第36代大統領リンドン・ジョンソンは、父の日を称賛する大統領告示を発し、6月の第3日曜日を父の日に定めた。1972年になり、アメリカでは正式に国の記念日[3]に制定される[2]。

母の日の花がカーネーションなのに対し、父の日の花はバラ。ソノラ・スマート・ドッドが、父の日に父親の墓前に白いバラを供えたからとされている。[要出典]1910年の最初の祝典の際には、YMCAの青年が、父を讃えるために、父が健在の者は赤いバラ、亡くなった者は白いバラを身につけたと伝えられる[2]。

8月8日[編集]

台湾の父の日(父親節)は8月8日である。これは、「パパ」(表記は爸爸)と「88」の中国語の発音が同じであることに由来している。

8月第2日曜日[編集]

ブラジルでは、母の日の3ヶ月後の8月第2日曜日が「父の日」(Dia dos Pais) である。ただし、国の休日ではない。1950年代に Sylvio Bhering が、聖ヨアキムを彰して提唱した。

2月23日[編集]

ロシアでは、2月23日が「祖国防衛の日」(День защитника Отечества) とされ、軍人・退役軍人に感謝する他に、父親・夫・男性に感謝する日となっている。これと対となる母親・妻・女性の日は、3月8日の国際女性デーである。
元はソ連の祝日で、1918年2月23日に赤軍が初の対独戦闘に勝利したことを記念し「赤軍の日」(День Красной Армии) として制定され、1949年に「ソビエト陸海軍の日」(День Советской Армии и Военно-Морского флота) と改名された[4]。ソ連崩壊後の2002年に、現在の名称でロシアの祝日となった[5]。

昇天日[編集]

ドイツでは、国の休日である昇天日(復活祭の39日後の木曜日で、早ければ4月30日、遅ければ6月2日)が、「父の日」(Vatertag) でもある。「男の日」(Männertag) や「紳士の日」(Herrentag) とも呼ばれる。


どうやら、世界各国で、日程はバラバラのようである!<だから、贈り物が‘バラ’?‘アホッ!’>

日付の一覧
父の日 - Wikipedia0001

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http://www.katsufujiya.com/blog/index.php?ID=1061

(つづく):明日は‘母の日’について
[2013/06/16 12:47] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
我が家にも‘スマホ’が遂にやって来た!<マル秘物語>
我が家にも‘スマホ’が遂にやって来た! これを‘Google’翻訳ソフトで英語にすると、

‘Smartphone' is also in my home has come at last!

となるのだそうである。実は、もう30年も昔、英会話の先生から
「‘パンダ’が上野動物園にやって来た!」を英訳しなさいと言われて、
「‘Panda' came to the Ueno Zoo!」と言ったら、大笑いされた経験がある。何故、このイギリス人は大笑いするのか?と日本人の生徒は私も含めて8人全員が不思議がった。

そのイギリス人はこう言うのだ。

「‘パンダ’が、自分一人(?)で、飛行機か船に乗って来たというのなら、この表現は間違っていない!しかし、‘パンダ’は、檻に入れられて連れて来られたのだから、‘受身’の表現にしなければならないのだ!全ての日本人がこの間違いを犯す。 この事を注意するだけで、外人から褒められる! ついでに‘外人’という日本語は良くない。何だか、‘人の外’で、‘人間じゃあない’と聞こえてしまう。なんとかなりませんか?日本人さん!」

その時の正解を彼がどう表現したか?肝心なことを忘れてしまったが、多分、

「‘Panda' has been imported into the Ueno Zoo.」

だったような気がする。

となると、我が家にも‘スマホ’が遂にやって来た!を直訳して

 ‘Smartphone’ came to my home at last!

と言ってしまってはいけないのだろうから、上記のようにいうのだろうか? でも、これって‘受動態’になっていないのだが・・・。

大雑把な人に聞くと「それで、通じるよ!通じりゃあ、いいじゃん!」という。こうなってしまえば、最早、‘英語学’や‘英文学’なんかどっちでもいい、という世界である!

果たして、「我が家にも‘スマホ’が遂にやって来た!」の‘スマートな’英語では、どう表現すべきなのだろうか?

さて、ドコモからのメール情報を‘気軽に’読んでしまったので、貯めていた‘ポイント’が5月31日で‘全て’無くなってしまうのだと解釈したために、余り乗り気ではなかったが、貯まった‘ポイント’を全部使って‘スマホ’に切り替えることにしたのである。 後で、キチンと説明を受けたら、約1/10のポイントが5月31日までに消化しないと‘切り捨てられる’ということだったのである。

まあ、それはいいとして結果オーライだった。手数料分だけが掛かるのだが、この5月中にスマホに切り替えれば8万円以上もする新型スマホが‘タダ’になるというではないか!

そんな訳で「我が家にも‘スマホ’が遂にやって来た!」という状態となったのである。手続きは5月中に行なって‘切り捨てられる’分で、ACアダプターだけを購入した。本体も同時にと言ったら「在庫がございません!」という。
「えっ?あれだけ宣伝しておきながら、‘在庫なし!ってどういう事?」「‘受注発注’なものですから・・・」という。つまり、注文を受けてから発注するのだという。‘蕎麦屋’や‘うなぎ屋’じゃぁあるまいし・・・と思ったが、相手がそうおっしゃるのなら、何も急ぐ事はない!

そんな訳で、入荷したので2013年06月07日にドコモ店へど~ぞ!という電話が掛かって来た。行ってみれば店内にはそんなに人影は多くなかったが、「だた今、凡そ2時間程お待ち頂いております。」と仰るのである。「えっ!?」成程人影が少ないのは皆外へ行って別の用事を済ませているらしい。下手に30分と言われるより‘2時間’と言われる方がいい。

我々も、じゃあと言うことで車で10分くらい先ににある‘日吉神社’へ久し振りに行ってみることにした。これで1時間半程の‘散歩’が出来る! なが~く待たされるのも結構いいではないか!

手続きに約30分強、ついに、‘スマホ’ゲットである。

NTTドコモでは、今季‘2トップ’に絞って販売作戦を展開している。

http://www.j-cast.com/2013/05/16175241.html?p=all
通信キャリアがメーカーの面倒みる体質が変わる時

ウェブサイトでも2機種を大々的にアピール
「ドコモの顔とも言える、ツートップ」

加藤薫社長が2013年5月15日の今夏向けモデル発表会でこう紹介したのが、ソニーの「エクスペリア」と韓国サムスン電子の「ギャラクシー」の最新機種だ。この日は同時に富士通やシャープ、NECカシオなど他メーカーも新製品を披露したのだが、2機種だけが「特別待遇」となった。ウェブサイトも「ツートップ」として別格の扱いをされている。
他の機種と明確に区別されているのが、価格だ。10年以上継続してドコモ回線を使っていたり、従来型携帯電話から乗り換えたりする場合に料金を割り引く。プランによってエクスペリアの端末価格は実質5000円に、ギャラクシーも1万5000円ほどにまで下がるという。これ以外の新製品の価格は出ていないが、加藤社長は報道陣に「1~2万円くらいの差がつくと思う」と発言している。
国内外の大手メーカーのスマホをずらりとそろえるドコモだが、顧客からは「何を選んだらいいか分からないとの声が出ていた」と加藤社長。そこでドコモとして「お勧め」の2機種をあえて選んだそうだ。ただ冬商戦はまたゼロから選び直すとして、他社の端末に変わる可能性を示した。


‘ギャラクシー’にせずに‘エクスぺリア’を選択したのは、価格が安いのとやはり国産だからである。

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何故か‘うさぎ’が写っているが、これがゲットした‘エクスぺリア’である!

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ACアダプターに収まっている‘エクスぺリア’

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今迄の携帯より相当に重いし、携帯収納バッグ?にも入らない!

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しかし、モバイルPCに比べればず~と軽量である!しかも性能は抜群である! 何といっても、この弊ブログを一瞬にして開くことが出来る!

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弊ブログを開いた!

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同上

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ところが、ところがである!重大事件が持ち上がった!実は、この画面はこのスマホにカミサンに電話をさせて、話が出来るかどうかの‘テスト’をしてみたのである。ところが、どうしてもこのスマホで電話を受けることが出来ないのである!

とうとう、PCで「‘スマホ’で電話を受信、画面を開くには?」を検索して、やっと解決出来たのである!

通話画面を開く
http://blog.goo.ne.jp/sumajo/e/5907c0a798581728d5ef8f5855377504
補足
このようにスライドして通話画面を開く端末もあります。スマホを手にしたら、取扱説明書は必ずチェックしましょう。

私は‘受話器のマーク’画像ー144 028-2-2を一生懸命‘押し続けていた’のである!

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この‘ご利用ガイドブック’とやらには、何度も探してみたが‘スライドして通話端末を開く’という説明は何処にも書かれていない!

スマホ説明書目次

確かに、車を買った場合に、その説明書には‘車は、ハンドルを回しながら運転するのです!’という説明はないかも知れないが、スマホの画面にスライドの→を是非入れて欲しいものである!こんな‘老人’もいるのだから・・・。

ああ、恥ずかしい!

(つづく)
[2013/06/08 23:47] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
‘定点観測’の意義
最近‘定点観測’の意義が再認識されたのは、‘東京スカイツリー’の映像が話題になってからである。勿論、NHKが、特殊な技術で定点から撮影した映像をTVに流した時には、その映像がNHKが開発した‘高精細’であったこともあって、世界中の人が驚いたことも少なからず影響しているものとも思われるが・・・。


http://www.youtube.com/watch?v=o-TT9XdsPjw
この‘youtube'の定点は、一か所ではないから、尚更面白い!

このブログでも‘定点観測’をしようと思っていることは何度も書かせて貰っている。

① 千葉県茂原市千沢の赤目橋:富士山の観測(ダイアモンド富士も含む)

② やはり、千沢地区の或る定点:早苗の成長過程

③ 我が家の玄関前の定点:額アジサイの成長過程

等である。

‘定点観測’の興味は、‘対象物’の時間的変化、つまり植物等の場合、その植物の‘一生’の顛末が判る。また、富士山などのように‘一生’は、撮影する方の寿命の方が短いから、この場合は‘季節毎の表情’ということになる。

① 千葉県茂原市千沢の赤目橋という定点:富士山の観測(ダイアモンド富士も含む)の場合:

http://kissyarita.blog.fc2.com/blog-entry-464.html

夕日ダイアモンド富士:春の総括偏
<前略>

この問題は、時間があればもう少し詳細に検討して見たいが、我々が知りたいのは、この富士山が見える場所、しかもこの場所は海抜数mの高さしかない‘平地’なのだが、ここから見える年2回(多分)の日時なのである。

そこで、太陽が沈む(勿論、天動説でもないから太陽が沈む訳ではないのだが)位置がどのくらい違ってくるかについて、3月12日の‘夕日ダイアモンド富士デー’を真ん中にして前後3日の太陽の位置を写真で見てみた。

13日と14日は、残念がら雲が太陽を隠してしまったので、私が勝手にそれらの日のそれぞれの時刻の写真に‘’を入れて太陽とした。

1日に約1分(実際は、1分より少し短い)という仮定の下にそれぞれの日のそれぞれの時刻の写真を用いた。

① 3月09日 17:33

② 3月10日 17:34

③ 3月11日 17:35

④ 3月12日 17:36

⑤ 3月13日 17:37

⑥ 3月14日 17:38

⑦ 3月15日 17:39

そもそも富士山は、この‘赤目橋’上から、どのよう見えるかのか、の確認の意味で‘基本となる写真’が直ぐ下の写真である。写真でみて太陽の輪郭が綺麗に見えるのは、‘大気’が汚れ過ぎているか、雲や靄や霧が懸っているかのようである。その場合には、残念ながら、肝心の富士山が見えない。

逆に富士山が綺麗に見える場合には、太陽が輝き過ぎて輪郭が上手く撮れない。従って、何かしらの‘フィルター’が必要となる。今回は残念ながら、フィルターを準備出来なかった。


画像ー101 030 3月9日17:33
① 3月09日 17:33

画像ー102 054 3月10日17:34
② 3月10日 17:34

画像ー105 0673月11日17:35
③ 3月11日 17:35

画像ー107 068-4
④ 3月12日 17:36

この3月12日が、千葉県・茂原市千沢の‘赤目橋’上から見た観測出来る日、‘夕日ダイアモンド富士デー’である。

3月13日17:37
⑤ 3月13日 17:37

3月14日17:38
⑥ 3月14日 17:38

画像ー111 1573月15日17:39
⑦ 3月15日 17:39

これらの写真をご覧戴ければお判りの通り、太陽の沈む位置は、毎日かなりの距離動くのである。

といった具合に、定点観測をしてみると、太陽の沈む‘位置と時刻’が一日ずつかなり変化することが判る。

今後のこの定点での太陽観測の最大の‘ショ―’は、今年9月の秋分の日前後の‘ダイアモンド富士’の観測&撮影にある!

今度は、春分の日前の‘二の舞’はしたくない!

② やはり、千沢地区の或る定点:早苗の成長過程

③ 我が家の玄関前の定点:額アジサイの成長過程

については、数日前の弊ブログに掲載させて貰ったが、まだ数日~一ヶ月程度であるから、その結果は後日ということで・・・。

なお、③ の額アジサイの撮影は、昨日(2013年05月31日)も行なったのであるが、今年の‘梅雨入り’が早いと同じように、‘蚊’の出現も早いと見えて、撮影中に‘蚊’に刺されてしまった!

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2013年05月31日12:33

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同上拡大

ご用心、ご用心!

(つづく)
[2013/06/01 23:48] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
散歩の楽しみ(その3):白鷺
2013年05月08日の散歩の続き。

その前に・・・・、

昨年の秋に、我が家の玄関から直ぐの‘借景’の敷地内の‘杉の木のてっぺん’に止まっていたのは‘青鷺’だった。

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我が家の玄関前。‘借景’の杉の木

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2012年09月11日05:57

画像ー51 137-1
同上

さて、散歩の時に見たのは‘白鷺’だったのだが、‘鷺’と言えば、余りにも昨年の秋に見た‘青鷺’が印象に残っており、どうしても比較したくなったという訳である。

そこで、先ず‘青鷺’とは?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AA%E3%82%B5%E3%82%AE
アオサギ蒼鷺、Ardea cinerea) は、動物界脊索動物門鳥綱コウノトリ目サギ科アオサギ属に分類される鳥類

分布

繁殖地:黄緑、青:越冬地、緑:周年生息地
アオサギは、アフリカ大陸、ユーラシア大陸、イギリス、インドネシア西部、日本、フィリピン北部、マダガスカルに分布している。
夏季にユーラシア大陸中緯度地方で繁殖し、冬季になるとアフリカ大陸中部、東南アジアなどへ南下し越冬する。アフリカ大陸南部やユーラシア大陸南部などでは周年生息する。日本では亜種アオサギが夏季に北海道で繁殖し(夏鳥)、冬季に九州以南に越冬のため飛来する(冬鳥)。本州、四国では周年生息する(留鳥)。

形態 [編集]

全長88-98cm。翼開張150-170cm。体重1.2-1.8kg。上面は青みがかった灰色の羽毛で被われ、和名の由来(漢字表記の蒼はくすんだ青色のことも指し、中国語名と同一)になっている。種小名cinereaは「灰色の」の意で、英名(grey)と同義。また淡灰色の長い羽毛(飾羽)が混じる。下面は白い羽毛で被われ、胸部の羽毛は伸長(飾羽)する。頸部から胸部にかけて黒い縦縞が入る。頭部は白い羽毛で覆われ、眼上部から後頭にかけて眉状の黒い筋模様(眉斑)が入る。後頭は眉斑と繋がるように黒い羽毛が伸長(冠羽)する。雨覆の色彩は灰色で、初列雨覆や風切羽上面の色彩は黒い。人間でいう手首(翼角)の周辺には2つの白い斑紋が入る。雌は雄に比べるとやや小型で、冠羽と飾羽が短い。
虹彩は黄色。

若鳥 [編集]

若鳥は上面が灰褐色、頭部が灰色の羽毛で被われる。また若鳥や冬羽は上嘴が黒ずむ。眉斑は不明瞭で、後頭に冠羽が伸長しない。繁殖期は眼先がピンク色で、嘴や後肢の色彩もピンク色。非繁殖期は眼先が黄緑色で、嘴や後肢の色彩が黄色。

生態 [編集]

河川、湖、池沼、湿原、干潟、水田などに生息する。非繁殖期には単独で生活するが、小さな群を作ることもある。
食性は動物食で、魚類、両生類、小型哺乳類、甲殻類、昆虫などを食べる。水辺で待ち伏せたり、水辺や浅瀬を徘徊しながら獲物を探す。獲物を発見すると、素早く頸部を伸ばし捕食する。水深の深い場所では、体を水に浮かべて泳いでいることがある。
優雅な姿をしているが、意外にも攻撃的で神経質な鳥で、餌場では羽毛や飾り羽を逆立てて他の鳥を威嚇して追い出すことがよくある。特に獲物が共通するダイサギなどのサギ類には容赦なく攻撃をしかけて執拗に追い立てる。 また、獲物に対する執着も強く、他の鳥から獲物(主に魚類)を奪って捕食することが見られる。ミサゴなどの猛禽類や、時にはツルやコウノトリなどの自分よりもはるかに強大な相手でも付け回して隙があれば横取りする。
繁殖形態は卵生。同科他種を含めた集団繁殖地(コロニー)を形成する。雄が巣材を集め、雌が樹上に木の枝を組み合わせた皿状の巣を作り、日本では4-5月に1回に3-5個の卵を産む。巣は同じ巣を使いつづける。雌雄交代で抱卵し、抱卵期間は23-28日。育雛は雌雄共同で行う。雛は孵化してから50-55日で巣立つ。生後2年で性成熟する。アシの生えた地上での営巣記録もある。

人間との関係 [編集]

養殖魚を食害する害鳥とみなされることもある。
害鳥としての駆除などにより生息数が減少している地域もある。例としてイングランドとウェールズでは1970年代に毎年4,600羽以上が駆除され、1979年における生息数は5,400ペアまで激減した。逆に日本のように生息数が増加している地域もある。

夕風や水青鷺の脛(はぎ)をうつ  与謝蕪村


上記文献では、‘アオサギ’の漢字表記に‘蒼鷺’の文字を当てていて、中国でもこの‘蒼’と表記するという。

青(蒼)鷺の素晴しい写真が見つかった!

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http://plaza.rakuten.co.jp/cooloo/diary/201011300000/

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http://plaza.rakuten.co.jp/cooloo/diary/201011300000/

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http://plaza.rakuten.co.jp/cooloo/diary/201011300000/

青鷺もこのように‘高画質’で、絶好のチャンスを見逃さなければ、やはり美しい!



では、‘白鷺’は?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%B7%BA
白鷺(しらさぎ)とは、コウノトリ目サギ科のうちほぼ全身が白いサギ類の総称で、日本ではダイサギ・チュウサギ・コサギ・カラシラサギを指す。沖縄ではクロサギの白色型がこれに加わる。アマサギも入れられることがある。音読してはくろとも言う。
シラサギという名前のサギがいるわけではない。大きさや足指の色、冠羽の有無などで識別することとなる。
徳島県では1965年(昭和40年)10月より、白いサギ科の鳥の総称としての「しらさぎ」を県の鳥に制定している[1]。
サギ類は他の種類のサギたちと同じ個所に集まって営巣し繁殖する(サギ山)。サギ山で集団営巣することから、糞に伴う臭いや鳴き声により、人にとっては公害となることがある。
利用 [編集]

コサギは後頭に冠羽があり、日本画のモチーフとして多用されてきた。
繁殖期の背の飾羽はとても美しく、婦人用の帽子の飾りに多用されたが、現在は多くの国で規制の対象となっている。
これらの多くは渓流など清冽な水域には生息せず、富栄養化が進んだ水域に見られる。



田植えの済んだ田圃に‘白鷺’がいた!(2013年05月08日午後) 

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こんなに10m以内に近づいてもこの‘白鷺’( ダイサギ・チュウサギ・コサギ・カラシラサギ、のうちのどれ?)は逃げない!

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では、この‘白鷺’の‘百態’をど~ぞ!

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では、‘白鷺’の美しい写真を‘WEB’から・・・。

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http://viewoflovely.blog91.fc2.com/blog-entry-426.html
ダイサギ

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http://viewoflovely.blog91.fc2.com/blog-entry-426.html
ダイサギ

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http://viewoflovely.blog91.fc2.com/blog-entry-426.html
(左)チュウサギ   (右)コサギ

‘アオサギ’も‘シラサギ’も大きさ体重など、そんなには違いはない、と思われる。

この田圃にいた‘シラサギ’の体重は、どのくらいだろうと思って考えてみた!私の‘予測’では、‘背の高さ’はおよそ‘1m弱’だから、そう4~5kgかな?と思った。カミサンは‘3kg’という。

驚くことに、上記引用資料によれば、

  全長88-98cm。翼開張150-170cm。体重1.2-1.8kg


だそうである!  

体重が‘2kg’未満なら、食べ物の量もそんなに多くは要らないのだろう!

都会では、アオサギもシラサギも、そう簡単には見られないが、ここ‘上総の国 茂原の里 字千沢’では、身近に素晴らしい鳥に毎日会える!

(つづく)
[2013/05/15 14:48] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
小さいが故に・・・
小さいが故にそんなに‘もて囃されない’花 がある。また、花と葉っぱとの数の多少によってその花の価値が違っているように思えて仕方が無い!

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http://yk-mugen.at.webry.info/200804/article_1.html

‘ソメイヨシノ’の人気は、「ぱっと咲いて、パット散る!」と言われるが、それだけではないような気がする。上述のように

① 花が人間の大きさと比較して、‘小さい’という或いは‘大き過ぎる’という、たったそれだけで人間様にはそんなに‘持てない’ケース

② 葉っぱが多過ぎて花の存在が強調されないケース


が、どうやらあって、人間が勝手に花の優劣を付けているような気がしてならない!

そこで、改めて‘ソメイヨシノ’の場合 を考えてみたい。

花の大きさが、丁度‘花’と感じることが出来る手頃な大きさである。そしてまた、花が咲く時には‘葉っぱ’がまだ出て来ていないのである。ソメイヨシノが満開の時には、‘葉っぱ’が無いので桜の木全部が‘花’だけで覆い尽くされてしまうから、‘遠目’にも‘豪華’に見える!

八重桜の場合、葉っぱが先に出て来るし、花が‘かたまって’咲いているから、大きく見えてしまう。①&②の両方の欠点を備えているだけに、‘八重桜’を花見会として見に行く人は少ない! 勿論ソメイヨシノと比べれば、八重桜は咲くのが遅いからソメイヨシノで花見を満喫してしまっている人々に‘新鮮に’受け止められないというどうしようもない欠点?・不利な点がある。

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http://www.hana300.com/yaezak1.html

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http://www.hana300.com/yaezak4.html


ただ、これは人間がそんな風に‘評価’しているだけで、それぞれの‘花’にとっては何ら関係が無いとも思われる。

花一輪だけを比較して見れば、‘ソメイヨシノ’が他を圧倒する程ダントツとは思えない!


① 花が人間の大きさと比較して、‘小さい’という、たったそれだけで人間様にはそんなに‘持てない’ケース

(その1)

何と言う花なのか知らないが・・・、

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この花は最近ではどこのお庭にでもある花である。花自体が余り大きくはないからそんなに目立たないが、

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段々ズームインして見ると

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いやいや、とんでもなく素晴らしい形をしているのが判る。

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もっと拡大してみると、何だか下の写真の‘蘭’にも近づく立派さである!これをもう少し大きくは出来ないものだろうか?

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http://nyackscurse.blog.so-net.ne.jp/archive/c133694-1
『 Phragmipedium Sedenii。Phrag.longifoliumとPhrag.schlimiiの交配種です。』だ、そうだ。でもやはり‘蘭’は凄~い!


(その2)

次の生け垣用の木に咲いている花もここのところ気付いていなかった!このお宅の前は毎日のように通っているのだが・・・。

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何故だか知らないが、花を付けているところとそうでないところがある。

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今まで気付かなかったのと大きな花ではない為、つい見過ごしていたが、段々拡大して行くと

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まあ、こんなにも立派な花であることに気付かされる。

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ここまで大きくすると、最早、下のソメイヨシノを凌いでいるようにさえ見えて来る。この花弁の形、何かのデザインに採用されてもいい。例えば、有名デパートの包装紙のデザインに如何であろうか?

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http://yk-mugen.at.webry.info/200804/article_1.html こちらはソメイヨシノ。


(その3)

この花は‘ハルジオン’と言うらしい。

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我々がまだ子供だった頃にも見て育ったような気がする花で、今でもそん所そこらにある花である。

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拡大して見るとお判りのように、これ位の大きさに写真を拡大して見たところでそんなに綺麗だなんて思わない!

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一寸ケバケバしいが、結構‘様’になっている。

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まるで‘菊’の一種だとさえ思わせてくれる!

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http://plaza.rakuten.co.jp/shion9/diary/201212020000/ これは、所謂‘菊’。


(その4)

お次は、これまた、草の生えているところには春になればきっと咲いて呉れる花であるが、名前は知らない。

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雑草の中に埋め込まれた格好になっているのだが、どうして、どうしてご立派である。

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更に拡大して見ると結構複雑ではあるが気品がある!

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こうなりゃあ、一流ってもんだ!

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小さいから気付かなかったが、これが手のひらサイズであったとしたら結構人気が出るのかも知れない!比較のためにソメイヨシノを直ぐ下に再掲してあるのだが、ソメイヨシノに一歩も引けを取らないではないか!

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http://yk-mugen.at.webry.info/200804/article_1.html これ、ソメイヨシノ。


(その5)

これだって、どこにでもある花であるが・・・、

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丁度5月の初旬には一番の美しさを誇る!

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この可憐な花に

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ミツバチが・・・

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よ~くご覧あれ! この可憐な花弁にミツバチが入り込んでいる。ミツバチは己の羽を振動させてはいないので彼の体重は皆一枚の花弁に支えて貰っているということになる。何が凄いかと言うと可憐で弱々しく見える一枚の花弁だけでミツバチの重さ以上の‘力’を出しているという事である。

花弁の方だって、自らが生きていくためには少なくとも花弁の強度が必要となる。彼女(花弁)の方は長年に亘って何代も‘DNA'を変えて行った結果なのであろうと思われる。この強度を持たなければ‘死活問題’となるからこそのDNAの更新なのだろう。


(その6)

さて、この次は、言わずと知れた‘ナデシコ’である! もう少しで世間では言われなくなりそうだった‘ナデシコ’を復活させたのは言わずと知れた‘ナデシコジャパン’の女子サッカー選手たちである!

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これは我が家の玄関先の鉢植えナデシコである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%87%E3%82%B7%E3%82%B3
ナデシコ(なでしこ、撫子、瞿麦)はナデシコ科ナデシコ属の植物、カワラナデシコ(学名:Dianthus superbus L. var. longicalycinus)の異名。またナデシコ属の植物の総称。蘧麦(きょばく)。 秋の七草の一つである。歌などで、「撫でし子」を掛詞にすることが多い[1]。

ナデシコ属 (Dianthus) はナデシコ科 (Caryophyllaceae) に属し、北半球の温帯域を中心に約300種が分布する。このうち、ヒメハマナデシコとシナノナデシコは日本固有種(日本にのみ自生)であり、他に日本にはカワラナデシコとハマナデシコが分布する。それらの特徴は次のようなものである。

カワラナデシコ (D. superbus L. var. longicalycinus (Maxim.) Williams)

カワラナデシコには、ナデシコ、ヤマトナデシコの異名もある。これはセキチク (D. chinensis L.) を古くは唐撫子(カラナデシコ)といったことに対する。ナデシコは古くは常夏(とこなつ)ともいった。これは花期が夏から秋に渡ることにちなむ。


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拡大するとこんなにも神秘的で美しい!これは‘ダイアンサス’という種類らしい。
‘大和撫子’の異名を持つのは上記引用資料によれは、‘カワラナデシコ’というそうだ。画像は以下の通り。

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http://blogs.yahoo.co.jp/hondacp77/58218938.html カワラナデシコ=ヤマトナデシコ

結論としては、‘人間様好みにする’には、‘花’を大きくすれば、道は開ける可能性がある。

大きな大根は既に出来上がっている。そのアナロジーで、これら小さな花を大きくしてみる研究はなされているのだろうか? 商品開発のコンセプトになるかも??

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http://shop.plaza.rakuten.co.jp/oisi/diary/detail/201302080000/





② 葉っぱが多過ぎて花の存在が強調されないケース


八重桜については先に述べた。

これは、‘偽アカシア’である。アカシアの花が話題になるたびに議論?になるのは、「アカシア」と「偽アカシア」の違いについてであるが、これは後述する。先ずがこの花の優雅さを・・・

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これ位の‘遠目’では、この‘偽アカシア’の優雅さには気付けない!

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こうなって来ると少しは花の良さが伝わって来る。

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真近で見るとこんな風に見える!

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背景が‘青空’となると、この花の優雅さ・気品が一段と増す。不思議である!

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話が真逆かもしれないが、花弁がまるで‘絹織物’で創られたような錯覚さえ覚える!

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高級な蘭と比較しても引けを取らない程の風格がある。それなのに余り日本では話題に上らないのは何故?

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http://yk-mugen.at.webry.info/200804/article_1.html ソメイヨシノ

今更、ソメイヨシノの一輪と比較しても仕方が無いが、圧倒的に‘偽アカシア’に軍配は上がる!


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http://kitatabi-blog.at.webry.info/200706/article_22.html

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http://kitatabi-blog.at.webry.info/200706/article_22.html

いずれも‘葉っぱ’が邪魔をして、全体としては、残念ながらソメイヨシノに劣る!

<アカシア問答>

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1041098285
ニセアカシアとアカシアの違いは何ですか?ニセの方しか見たことがありません。

A1「ミモザの樹」って見たことない?
黄色いモサモサした花が咲くヤツ
アレが一応「本物のアカシヤ」の仲間です。

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http://mie0123.blog44.fc2.com/blog-entry-37.html

葉の形もいろいろあって、あのような羽状複葉(鳥の羽みたいな葉っぱ)じゃなくて普通の葉っぱっぽくなっている種類もあります

あとは・・・
サバンナ特集のテレビで、キリンが傘みたいな形の樹の葉を食べているでしょう?
あれもアカシヤの仲間です。アカシヤ属の総称なので、様々な種類があります。

A2:ちょっと話がややこしいですが・・・ アカシアの雨に打たれて。。。という歌がありましたがこの歌に出てくるアカシアとはニセアカシアの事です。又、アカシア蜜として採蜜された蜂蜜もニセアカシアの蜜なのです。

では何故これがニセ(偽)となったかといいますと最初に日本に持ち込まれた時の誤解でアカシアとされたものが後に本来のアカシアというものが解かったので乱暴にも間違っていた最初の物にニセ(偽)とつけてしまったわけです。

では、アカシアとは何かと申しますとフサアカシアやギンヨウアカシアなどのネムノキの様な葉をもつもので一般的にミモザあるいはミモザアカシアともいわれます。(ちょっと更にややこしいのですがミモザとは本来はオジギソウの事です。) アカシアは他にも何種もありますがフサアカシアとギンヨウアカシアが最も身近なアカシアだろうと思います。

A3日本で普通に“アカシア”というとそれは「ニセアカシア」なのが一般的です。
丈夫で手入れもほとんど不要、美しくて香りの高い花が咲く…といいことづくめなので街路樹や公園などに一気に広まりました。
アカシアとニセアカシアは同じ「マメ科」に分類されます(一部違う説もあります)が、その下の「属」が違います。
明治時代に日本に導入された「ニセアカシア」を単に“アカシア”と呼んだので、今でもそのまま“アカシアと言うことがあります。
(たとえば“アカシア蜂蜜”はニセアカシアのもの。)
なお、“アカシア”はその仲間全体を指す名詞で、「アカシア」という名前の植物があるわけではありません。
たとえば「キク」という名前の菊がないようなものですね。



(つづく)
[2013/05/08 13:18] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
海鵜と川鵜の違いは?(その2):赤目川付近の鵜はどっち?(その2)
弊ブログ2013年04月13日『海鵜と川鵜の違いは?(その2):赤目川付近の鵜はどっち?』http://kissyarita.blog.fc2.com/blog-entry-492.html )では、


これまで色々検討してきたが、これで結論を出してもいいと思われる!

「千葉県茂原市千沢一帯に生息もしくは飛来する‘鵜’は、‘川鵜’である!」

(つづく)かも?


と締め括っている。

(つづく)かも? は、その通りつづく、のである!

2013年05月04日(みどりの日)の朝、例の鉄塔に‘赤目川付近の鵜’がいるかどうか出かけてみた。

それは、上記のブログで次のような‘珍説’を出していたことに多少引っかかっていたからである。その‘珍説’とは・・・、

数々の‘鵜’の写真があって( http://kissyarita.blog.fc2.com/blog-entry-492.html

『 この‘左ほっぺ側’は、明らかに3態とも‘川鵜’である!

右ほっぺ側:海鵜
左ほっぺ側:川鵜


ひょっとしたら、海鵜と川鵜との‘あいの子’かも??? 』

というものである! そんな訳でもう少し決定的な証拠写真が欲しくてその日も赤目川(千葉県茂原市千沢付近)の土手へ出てみたのである。

どんな理由かは知らないが、その日は‘たった一羽’しかいなかったが、この一羽が何と‘エンターテイナー’の素質(?)があると見えて、有難いことに色々な‘仕草’を見せてくれたのである!

2013年05月04日朝の‘鵜’の‘百態?’

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2013年05月04日07:53 この画面の中央の‘ゴミ’みたいに見えるのが、今回の主役エンターテイナー‘千ちゃん’こと千沢の‘鵜’であ~る! この日は何故だか上記の通り‘一羽’しかいないから逃げられては大変とばかり、こちらも‘藤の木’に隠れての必死の撮影である。

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07:53 これじゃあ、目的が達せられない!

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07:54 いいぞ、いいぞ!これなら十分いける!望遠では、これが精一杯。PCで拡大すると、

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① 第一候補!07:54:16

‘百態?’がこちら!

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② 07:54:26

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③ 07:54:30

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④ 07:54:34

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⑤ 07:54:38

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⑥ 07:54:48

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⑦ 07:55:02

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⑧ 07:55:10

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⑨ 07:55:14

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⑩ 07:55:20

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⑪ 07:55:22

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⑫ 07:55:30

画像ー127 104-3
⑬ 07:55:34

画像ー127 106-3
⑭ 07:55:42


それから約35分後、もう一羽が飛んで来て、彼の向かって右側に止まった!

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08:33 因みに、鉄塔の頂上に止まっているのは、ほぼ同時に飛んできた‘カラス’である。

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08:34

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08:33:38 これなら候補写真になる!

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⑮ 08:33 この‘鵜’は、上記‘百態?’を演じてくれた‘鵜’(千ちゃん)ではない!となりに飛んできた方の‘鵜’である。

これ以降の画像が、‘海鵜’か‘川鵜’かの判定に用いるためにPC処理をして‘口元’を明瞭にした画像である。

ここでも改めて‘判断基準’の写真を・・・。

umiu1_20130411025411.jpg kawau0031.jpg
左:海鵜                     右:川鵜
http://www.ne.jp/asahi/kenharu/2008/miwakekata01.htm

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①の拡大とPC処理画像 【左ほっぺ】明らかに‘川鵜’の特徴を示している!

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②の拡大とPC処理画像 【左ほっぺ】これも‘川鵜’の特徴がはっきり出ている。

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③の拡大とPC処理画像 【左ほっぺ】画像が余り鮮明ではないが、‘川鵜’の特徴を示している。

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④の拡大とPC処理画像 【右ほっぺとあご下】これは珍しく‘あご下’が写っている!‘鋭角’に見えるのは‘海鵜’の特徴の‘それ’ではなく、あごの下で、左右の‘それ’が接合している画像である! これも勿論‘川鵜’。

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⑥の拡大とPC処理画像 【左ほっぺ】これは、正に‘川鵜’の特徴!

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⑦の拡大とPC処理画像 【左ほっぺとあご下】これも珍しく‘あご下’が見えている。‘鋭角’に見える‘それ’は、あご下への‘終点?’の‘それ’であって、‘海鵜’の‘それ’ではない!‘川鵜’。

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⑧の拡大とPC処理画像 【右ほっぺ】典型的な‘川鵜’の特徴!

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⑩の拡大とPC処理画像 【左ほっぺ】これぞ正に‘川鵜’!

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⑪の拡大とPC処理画像 【あごの下(裏?)と右ほっぺ】あごの下(裏?)がこれだけはっきり撮れている画像は初めてである!そういう前提で画像を見れば、成程、‘白い鋭角’は、正に下あごの中央であることが理解出来る。そして、肝心の右ほっぺは‘川鵜’の特徴を示している。もう一寸クローズアップすれば・・・、

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⑪の嘴部分の拡大・PC処理 上記のことが更によく判る!

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⑫の拡大とPC処理画像 【左ほっぺ】これも典型的な‘川鵜’の特徴!

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⑬の拡大とPC処理画像 【左ほっぺ】上記におなじ。

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⑭の拡大とPC処理画像 【右ほっぺ】右も左も‘川鵜’の特徴。

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⑮の拡大とPC処理画像 【右ほっぺ】これは、上述の通り、これまでの上に記述した‘鵜’(千ちゃん)とは違う‘鵜’である。此方は、エンターテイナーの素質は無いらしい!?その所為か、‘千ちゃん’と比べると後頭部の‘毛羽立ち’が少ないように見える。これも明らかに‘川鵜’の特徴を示している。

今回は、‘千ちゃん’とこその隣に遅れて来たもう1羽の2羽の特徴を見てみたが、2羽とも‘川鵜’であると見られる。

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2012年11月15日08:07 同じ鉄塔・電線に止まる‘鵜’の集団。

以前撮影した‘大集団’はその日は撮影出来なかったが、この赤目川一帯の‘鵜’は、きっと‘川鵜’だろう と判断して良いのだろう。

再度(つづく)かも?
[2013/05/07 01:41] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
‘マテ貝’の不思議:塩で何故?
‘マテ貝’の不思議

マテ貝
http://blogs.yahoo.co.jp/otoichirou/53666559.html
マテ貝

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%86%E3%82%AC%E3%82%A4
マテガイ(馬刀貝、蟶貝、学名 Solen strictus、英: razor clam)は二枚貝綱マテガイ科の1種。
日本では、東北以南の波のおだやかな内海の砂浜に見られる。特に西日本で多く食用とされる。

形態 [編集]

マテガイ上科に特徴的な細長い形の薄い殻を持ち、成貝は10cm程度になる。
砂を掘り、数十cm~1m程度の深さに住む。

漁業 [編集]

マテガイは塩分濃度に敏感であり、急激な変化があると巣穴から飛び出す性質を利用した漁法が一般的 である。

マテガイのいそうな砂地の表土を1cm程度掻くとマテガイの巣穴が見える。マテガイの他にも、カニ類やゴカイ類も砂浜に巣穴を作るが、やや菱形をした穴がマテガイの穴である。ここに塩を振り込んでしばらく待つと、マテガイが数cmほど飛び出してくるので、それをしっかりと押さえ、ゆっくりと抜き出す。急激に抜き出すと足が切れてしまうことがある。

長崎県五島列島において、マテ掘(マテガイ掘)の熟練者は、砂浜の表面をトンガ(唐鍬)でコツコツと叩くことでマテガイの巣穴を見分け、既に食したあとのマテガイの殻をスプーンとして巣穴に塩を入れ、さらにマテガイが飛び出す速度に合わせて抜き出すことで、素早く効率的に採取することができる。また、叩いた反応がマテガイ以外の貝類(例えばカガミガイ)であった場合は唐鍬で掻き出し、採取する。

食材 [編集]

マテガイの白ワイン蒸し(スペイン料理)
独特の形であるが、癖はない。バター焼きや塩茹で、煮付けなどにして食べることができる。



http://www.ntv.co.jp/burari/contents/

ぶらり途中下車の旅ロゴ

2013年4月13日放送分

今週の路線

シーサイドライン・京急線

≪シーサイドライン≫
神奈川県横浜市磯子区の新杉田駅と同市金沢区の金沢八景駅を結ぶ横浜新都市交通が運営する新交通システム路線。工場通勤客の足となっているほか、横浜・八景島シーパラダイスや海の公園などへの観光路線としても活用されています。

≪京急線≫
三浦半島の三崎口から横浜・川崎を抜け、東京・泉岳寺までを結ぶ京急線。「京急本線」「空港線」「大師線」「逗子線」「久里浜線」の5路線があり、全72駅・総距離87キロの路線です。

今週の旅人

宮川一朗太

1966年3月25日生まれの47歳。
東京都出身。17歳の時に映画「家族ゲーム」でデビューし、日本アカデミー賞優秀新人賞を受賞。現在は、映画やCMナレーションなど多方面で活躍中!

野島公園駅 野島公園


潮干狩りシーズンの到来。浅瀬で宮川さんが子ども達に交じって何かを待っています。泥に刺した松葉を引き上げると…!?松葉を使ってアサリを釣る「松葉釣り」に挑戦したのでした。

そして、塩を利用した「マテ貝採り」にも挑戦。なんとも不思議な潮干狩りを楽しみました。



<野島公園での「マテ貝採り」>

マテ貝の巣穴へ‘お塩’をかけてやれば、しばらくするとマテ貝がひとりでに巣穴から出て来る!不思議である!

以下のテレビ画像は、日テレ「ぶらり途中下車の旅」の画面をカメラで撮影したものである。

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野島公園 - Google マップ0001
野島公園の位置:

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採れた「マテ貝」の料理法は?

http://disseny.jp/kimama/recipe/r-card/07116.html
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マテ貝の鉄板焼き

マテ貝の料理法

【作り方】

1 マテ貝は、塩水につけて砂出ししたあと、殻や表面に出ている身をよく洗っておく。

2 フライパンにオリーブオイルを入れ、にんにくとマテ貝を並べて火を通す。

3 貝が開いたら、白ワイン、塩を振りかけて、蓋をして蒸し焼きにする。

4 片側の殻をはずし、皿に並べてパセリを散らし、レモンを添える。



この‘マテ貝’に面白い写真と解説のブログを見つけた!

http://blogs.yahoo.co.jp/day_ray2/8751401.html

これがチンダイ貝ですよ

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みなさんご存知ですか~?

これが、アーサーのブログのタイトルにある「チンダイ貝」です

別名「マテ貝」とか「兵隊貝」とか呼ばれています

長細い長方形の殻に入っている二枚貝です

岡山ではちょくちょく魚屋でみかけます

中身はこんな感じで、ユニークな人の形をしていますよ~

足がとても短く見えますが(笑)

実は取水管と出水管です

春先が旬で、潮干狩りシーズンには獲ることができます

煮物や酢の物など美味しくいただけまする♪



これ、本当にビールに合う!

(つづく)
[2013/04/14 02:26] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
絵説法の絵
2013年02月09日、‘富士山の見える場所’を探しに、噂を聞いて千葉県市原市米沢にあるという‘米沢の森・御十八夜’へ行ってみたが、その日はとうとう‘米沢の森’への入り口さへ見つけることが出来ずに‘涙をのんで’茂原市へ引き返すことにした。

しかし、そのまま帰ってくるのも残念なので、以前お参りしたことのある‘笠森観音’へ立ち寄ることにした。当然この観音の森からも‘富士山’が見える場所があるかもしれない、とのかすかな望みもあったが、結果としてはこの場所からはいくら天気が良くても多分無理だろうという結論となった。

      (‘笠森観音’については、別途後日この弊ブログで紹介したい)

しかし、それ以上に大変ありがたい‘絵説法の絵’に出会う事が出来た。それを以下に紹介したい。

ご案内の通り、‘絵説法’と言えば、天台宗ハワイ開教総長・荒 了寛 師 である。その日たまたまこの‘絵説法の絵’が展示されていたのである!これこそ‘ラッキー!’であった。

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http://www.sankeibiz.jp/econome/photos/130202/ecf1302020501000-p1.htm
天台宗ハワイ開教総長・荒 了寛 師

http://www.tendaihawaii.org/about/profile.html

荒 了寛 ( あら・りょうかん )

1928年福島県生まれ。10歳で仏門に入る。
大正大学大学院博士課程(天台学専攻)修了。
仙台市仙岳院、清浄光院(仙台)、大福寺(福島)などを歴任。
現天台宗ハワイ開教総長としてハワイ在住。
ハワイおよびアメリカ本土で布教活動に従事。
その傍ら、ハワイ美術院、ハワイ学院日本語学校などを設立、日本文化の紹介、普及に努める。
独自の画法による仏画も描き、サンフランシスコ、ボストン、ニューヨークなどで個展を開催。
日本各地でも毎年個展を続けている。
主な著書
「慈しみと悲しみ」「人生の要領の悪い人へ」 「画文集・慈しみと悲しみの仏たち」「アメリカ仏教の夢」 「ハワイ日系米兵、私たちは何と戦ったのか」 「娑婆を読む」「生きるとはなぁ」「生きよまず生きよ」他


「にこにこ羅漢さん」 瀬戸内寂聴

私はもう半世紀ほど前から荒さんとおつきあいしている。 最初は、当時の天台座主、山田恵諦大僧正のハワイツアーの一行に加えてもらった時であった。私たちを迎えてくれたのは、ハワイ天台宗別院の御住職荒了寛で、その頃のハワイ別院は、他の宗派の堂々とした立派な寺々に比べて、いかにも見劣りのする小さな、見るからに貧しげなお寺であった。ハワイへの進出に他宗に立ち遅れた天台宗が、寺一つ持っていない時、荒師が単身ハワイに乗り込んで、自費で、こつこつとハワイ天台宗別院を創建されたのであった。
壁にいくつかの立派な仏画がかかっていた。 私がそれに目をとめて、どなたの作品ですかと伺ったら、荒師が照れた少年のようにはにかんで笑顔になって「私の描いたものです」とおっしゃった。私は画面から光が放っているような仏画を不思議な思いで眺め拝んだ。 その旅のある時、荒師は、障害のあるお子さんがあり、その御子息を入院させられるいい病院がハワイにあるため、一家をあげて、すべての仕事を捨ててハワイに渡ったのだと話して下さった。
ハワイのどこかの丘のようなところで、私と姉と、荒師の三人だけの時であった。その時、荒師はこうも言われた。 「家内も私も、とても辛くて、その子が可哀そうで、この先どうして生きていけばいいのかと迷っていたこともありました。でも今は、この子がいるため、私たちは生きていかれることがわかりました。この子のおかげで、ハワイ別院も生まれたのです。この子こそ、私の仏さまですよ。今では心からそう思ってこの子を拝んでいるのです。」
私も姉も下を向いて涙を流した。私の目には淡々と話している荒師の顔こそ仏さまのように見えた。
* 荒了寛 絵説法カレンダーより抜粋


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‘絵説法’の‘絵’を拝見する前に、天台宗・笠森寺、通称‘笠森観音’の紹介を一寸だけ。詳細は追って弊ブログで・・・。

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‘二天門’をくぐると‘観音堂’が見えて来る。その手前に土産物屋さんがある。その奥隣りに‘絵説法の絵’が展示されている。

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これが‘観音堂’への上り階段。

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http://kasamori.jp/?page_id=13
構造は日本唯一の「四方懸造(しほうかけづくり)」で桁行 約17m、梁間 約14m、棟高 約34m、床高 約20m、階級75段の珍しい建造物で明治41年(1908)「国宝」に、その後昭和25年(1950)「文化財保護法」の制定により「国指定重要文化財」となっています。


さて、ここからが‘絵説法の絵’の展示場・・・。

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入り口の看板。

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こんな風に展示してある。後は説明を必要としない。ガラスからの反射光があって、見にくいものもあるが、内容は実に素晴らしい!

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以上の‘絵説法の絵’21枚。文字といい絵といい、実に内容にマッチしていて素晴らしいものである。

(つづく)



[2013/02/26 22:33] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
平成25年(2013年)の歌会始
平成25年(2013年)の‘歌会始’が、1月16日皇居で執り行われた。新年の皇室行事の最後を飾る行事である。

そもそも「歌会始」とは?

http://www.kunaicho.go.jp/culture/utakai/utakai.html

歌会始め

人々が集まって共通の題で歌を詠み,その歌を披講する会を「歌会」といいます。既に奈良時代に行われていたことは,「万葉集」によって知ることができます。

天皇がお催しになる歌会を「歌御会(うたごかい)」といいます。宮中では年中行事としての歌会などのほかに,毎月の月次歌会(つきなみのうたかい)が催されるようにもなりました。これらの中で天皇が年の始めの歌会としてお催しになる歌御会を「歌御会始(うたごかいはじめ)」といいました。

歌御会始の起源は,必ずしも明らかではありません。鎌倉時代中期,亀山天皇の文永4年(1267年)1月15日に宮中で歌御会が行われており,『外記日記』はこれを「内裏御会始」と明記しています。以後,年の始めの歌御会として位置づけられた歌会の記録が断続的に見受けられます。このことから,歌御会始の起源は,遅くともこの時代,鎌倉時代中期まで遡ることができるものといえます。

<中略>

毎年1月の歌会始の儀では,天皇皇后両陛下の御前で,一般から詠進して選に預かった歌,選者の歌,召人(めしうど)の歌,皇族殿下のお歌,皇后陛下の御歌(みうた)と続き,最後に御製(ぎょせい)
が披講(ひこう)されます。皇太子殿下をはじめ皇族方が列席され,文部科学大臣,日本芸術院会員,選歌として選ばれた詠進者などが陪聴します。

この儀式は,読師(どくじ):(司会役),講師(こうじ):(全句を節をつけずに読む役),発声(はっせい):(第1句から節をつけて歌う役),講頌(こうしょう):(第2句以下を発声に合わせて歌う役)の諸役によって進行されます。



NHK・TVで放映された、2013年の「歌会始」をTV画面で追ってみたい。もしかして来年以降参加する時の事を考えながら・・・。(これ以降の画像は全てNHK・TVの画面を‘デジカメ’で撮影したもの)

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2013年01月16日10:31 今年のお題は「立」

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10:31 皇居正殿、松の間で開催

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10:32 天皇陛下 皇后陛下も御着席になっておられる

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10:33 お歌が両陛下へ

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10:34 一般から詠進して選に預かった人達

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10:35 読師(どくじ):司会役のこと。一言もしゃべらないが、目配せで会を進行させる。

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10:35 講師(こうじ)と発声(はっせい)及び講頌(こうしょう)の人達が、両陛下の方へ進み出て、

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10:35 両陛下へご挨拶

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10:36 講師(こうじ)を務める方が、第一句目を節をつけずに読み始めた。太田一毅君の歌である。

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10:37 小学生・太田一毅君

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10:37 太田一毅君の歌

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10:40 高校生・瀬利由貴乃さん

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10:40 瀬利由貴乃さんの歌

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10:43 大学生・川俣茉紀さん

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10:44 川俣茉紀さんの歌

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10:44 歌の合間、会場は静まり返っている

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10:45 両陛下も静かに歌を聞かれておられる

この3句の他の一般から詠進して選に預かった歌,選者の歌,召人(めしうど)の歌,皇族殿下のお歌,皇后陛下の御歌(みうた)と続いた。そして、

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11:38 御製(ぎょせい):天皇陛下の歌の講師(こうじ)が始まった。天皇陛下以外は起立である。

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天皇陛下のお歌

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11:38 起立して御製(ぎょせい)の披講を聞く参列者

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11:41 御製の披講を聞かれる皇太子殿下と秋篠宮殿下

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11:42 御製の披講を聞かれる女性皇族の方々

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11:43 御製の披講が終了して、「歌会始」がお開きとなった

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11:44 来年のお題は「静」と発表された

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11:44 応募方法の案内

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11:44 送り先の案内

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11:45 これにて平成25年(2013年)の「歌会始」の終了。

来年のお題は「静」という。

出来れば、‘冥土の土産’に投句してみたい!



[2013/01/20 00:00] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
橘樹神社と御神籤について
毎年元旦には、市内の‘橘樹神社’(たちばなじんじゃ)へ初詣に出かける。ここは規模はそう大きくはないが由緒正しき神社である。

橘樹神社
http://nobyama.com/tachibana_album.htm
橘樹神社の一の鳥居

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E6%A8%B9%E7%A5
%9E%E7%A4%BE_(%E8%8C%82%E5%8E%9F%E5%B8%82)

橘樹神社(たちばなじんじゃ)は、千葉県茂原市本納にある神社。式内社、上総国二宮。旧社格は県社。神紋は「橘」。
古くは「橘神社」・「橘木神社」とも記された。現在は「橘樹」の2字で「たちばな」と読む。

祭神 [編集]

主祭神
弟橘比売命 (おとたちばなひめのみこと)


相殿神
日本武尊 (やまとたけるのみこと) - 弟橘比売命の夫
忍山宿禰 (おしやまのすくね) - 弟橘比売命の父


概史 [編集]
社伝では、日本武尊が東征した際、相模から上総へ渡ろうとした時に海上で暴風に遭った。弟橘媛が海に身を投じて日本武尊の難を救ったことから、日本武尊が弟橘媛の御陵を作り、弟橘媛の櫛を納めて、橘の木を植えて祀ったのに始まると伝える。『古事記』には「七日の後、その后の櫛海辺に依りき。すなはちその櫛を取りて御陵を作り治め置きき。」[1]とあり、これが当社のことであるという。また『日本書紀』では、「さらに相模においでになって、上総に渡ろうとされた。海を望まれて大言壮語して、こんな小さい海、飛び上ってでも渡ることができよう、と言われた。(中略) こうして、日本武尊は上総より転じて陸奥国に入られた。そのとき大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦(鴨川市吉浦)を廻り玉浦(九十九里浜)を横切って蝦夷の支配地に入られた。」[2]とあり、この時祀られたのが由来とされる。
国史の初見は、『日本三代実録』元慶元年(877年)5月17日条、従五位勲五等の橘樹神に正五位下の神階を授けるという記述である。元慶8年(884年)7月15日、正五位上の神階が授けられ、日本武尊・忍山宿禰が合祀された。『延喜式神名帳』には「上総国長柄郡 橘神社」として記載され、小社に列している。その後、延宝8年(1681年)に正一位を授けられた。
中世には当社周辺に社領・橘木荘(のち二宮荘)を有した。
明治6年(1873年)近代社格制度において県社に列した。


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今年は例年に比べて初詣の人達が多い。

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拝殿まで延々と列が繋がっている。その長さおよそ150m以上。

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今年初めて見る‘日の丸’も何だか活き活きしている。‘翩翻と翻る’の形容どうりである。

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ここが、神社名にもなった橘の木。

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蜜柑よりも一寸小さめで、キンカンよりは少し大きい実がなっている。味はどうなのだろうか?

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橘の‘紋’が見える。

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拝礼の仕方「二拝、二拍手、一拝」と書いてあるから皆そうしている。

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境内の‘桜’(種類・名前は判らないが、断じて‘梅’ではない!??)がもうほころんでいる。

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参拝客も何だかスッキリしている。

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御神籤を引く人達は皆がみんな‘大吉’を期待している。

私も遂に今年は‘大吉’だった!

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持ち帰って来た‘大吉’の御神籤


‘おみくじ’の名前の由来についての知識は余りないが、何となく‘くじ’に丁寧・尊敬語の‘み’がついて、更に丁寧・尊敬語の‘お’がついたのだろうか?程度の予測だけはあった。‘おみおつけ’=‘御御御付け’という味噌汁の丁寧語という感覚である。

調べてみて驚いた! こんなにも沢山な表現方法があるのである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%
E3%81%BF%E3%81%8F%E3%81%98

おみくじお神籤・お御籤・お仏籤・御神籤・御御籤・御仏籤・おみ籤またはみくじ・神籤・御籤・仏籤(みくじ))とは神社・仏閣等で吉凶を占うために引く籤である。「みくじ」は「くじ」に尊敬の接頭辞「み」をくわえたもので、漢字で書くときは「御籤」とするか、神社のものは「神籤」、寺のものは「仏籤」とする。ただし厳密には問題があるが、区別せず「神籤」とすることもある。現在ではみくじ箋(みくじ紙)と呼ばれる紙片を用いるものが一般的である。


上記引用文献の中の‘御御籤’が‘御御御付け’に当たるのだろう。‘神社のものは「神籤」、寺のものは「仏籤」’というのも面白い! 都合のよいように勝手に変える、という発想法がとてもいい!

更に、その歴史はというと、次のように解説してある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%8
1%8A%E3%81%BF%E3%81%8F%E3%81%98

歴史 [編集]

古代においては国の祭政に関する重要な事項や後継者を選ぶ際に神の意志を占うために籤引きをすることがあり、これが現在の神籤の起源とされている[1]。現在の神籤は参詣者が個人の吉凶を佔うために行われるもので、これは鎌倉時代初期から行われるようになった。当時は自分で籤を用意するのが一般的であった[2]


‘神の意志を占うために籤引きをする’等というのも‘素朴’でなかなか良い。これじゃあ神様に失礼なのかもしれないが、その屈託の無い素朴さが堪らなく純粋でよろしい。そしてそれで納得をするというのだからますますよろしい。
正に‘信じる者は救われる’である。

また、この‘おみくじ’は、一体誰が創っているのであろうか?の疑問に対しては次のような解説がある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%
E3%81%BF%E3%81%8F%E3%81%98

奉製 [編集]
現在、おみくじの7割近く女子道社(山口県周南市)によって奉製され[3]、英語版は外国人観光客向け等に日本国内の寺社に奉製されるほかハワイなど日本国外への輸出も行われているが[4]、各神社寺院独自で奉製しているところもある。


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http://www.kanko-shunan.com/saihakken/josidousha.html
初詣、合格祈願、お祭りetc・・・皆さんも1度は神社やお寺にお参りに行ったときなどに、おみくじをひいたことがあるのではないでしょうか。それらのおみくじが、どこで作られているのかご存知ですか?

JR山陽本線徳山駅から車で北へ約40分、自然豊かな緑に囲まれ清流の美しい音が聞こえてくる周南市鹿野地域に、女子道社という会社があります。実は全国の神社仏閣においてあるおみくじの大半はここ女子道社で作られています。さらに驚くことに作業は全て手作業で行われているのです!主に近隣の農村の主婦たちによって、ひとつひとつ手折りで丁寧に仕上げられ、紙折り機など一切使わないその作業風景からは、創業当時の趣がそのまま伝わってきます。繁忙期には60~100人もの方が交代で作業し、ベテランの方になると1日に5,000~6,000枚のおみくじを折られるそうです。

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清流通りにたたずむ女子道社          全てのおみくじは手作業で折られる

女子道社の歴史は明治時代までさかのぼります。男尊女卑の風潮強い当時の世相にあって、先々代の二所山田神社の宮司宮本重胤さんは、神道には本来女性をけがれとみなす思想はなかったことから、女性神主の登用を提言し、女性参政権をいち早く訴えました。女性を対象とした全国組織『敬神婦人会』を設立し、女性の自立を主張、その教化の一環として明治39年機関誌『女子道』を発刊しました。そしてその資金源として考えられたのがおみくじであり、女子道社が創業されました。

心を込めて折られたおみくじは神社に祀られ、清めの儀式の後、日本全国だけでなく、遠くはハワイまで発送されます。おみくじの種類は全部で18種類。先々代が明星派、先代がアララギ派の歌人であったこともあり、和歌を織り込んだみくじをはじめ、金みくじ、赤みくじ、振り出し用みくじなどの他、外国人観光客や学生向けの和英文みくじ、催事・イベント用の開運みくじなど、時代の変化や人々のニーズに応じたおみくじを発案しています。また、羽車式みくじ機、電動式みくじ機などのおみくじ販売機の製造も行い、現在まで多くの神社仏閣へ納品しています。
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全国への発送を待つおみくじ

三代目宮司宮本公胤さんは「おみくじは占いではありません。たとえ、凶が出ても縁起が悪いと落ち込むことも、大吉が出て有頂天になることもありません。内容をよく読み、反省すべき点は反省し、励ましのお言葉として受け止め、日々努力を怠らないことが大切です。」とおっしゃられています。

文明が進んだ現代においても人々に愛され親しまれ続けるおみくじ。その理由は、手作業にこだわり、心を込めて作られていることにあるのかも知れません。



おみくじの中身は一体誰が作るのだろうか?

おみくじ当番の巫女さんに「大吉だから持ち帰ってもいい?」と聞いてみた。「お守りにもなりますから、ど~ぞ!」という嬉しい返事が返ってきた。


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http://nobyama.com/tachibana_album.htm
これが、主祭神 弟橘比売命 (おとたちばなひめのみこと)の御陵

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http://nobyama.com/tachibana_album.htm
拝殿にある伯爵・東郷平八郎直筆の扁額

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去年のお飾りやお札を燃やすための焚き火も赤々と燃えている。

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この焚き火の前にず~と座っておられる御老人にお話を聞いた。91歳になられるという。お元気そのものだ。ここ茂原市本納のお生まれだそうで、「大東亜戦争で、海軍だった。硫黄島付近で戦って九死に一生を得て帰還した。」そうである。‘火の番’を買って出られたのであろう。まだまだ100歳までは大丈夫そうだった。

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お店も沢山出ていて、何となく昔の風景が蘇って来る。


新年の初詣、御神籤、やはりいいもんである。

さあ、今年も頑張ろう!


[2013/01/04 09:36] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
マツコの知らない世界(その2):団地の世界
マツコの知らない世界 (TBSテレビ)を先週見て大変面白かった。‘コーラ談義’であった。(参照:弊ブログの12月7日: http://kissyarita.blog.fc2.com/blog-entry-356.html

今週は‘団地’がテーマである。2012年12月07日の深夜(正確には、08日の00:50)に予約をしておいて、今か今かと待ちながら楽しみにしていた番組を見始めた。

先週の‘画像’は、後日パソコンの画面から頂戴したものだったから‘精細度’に不十分のところがったので、今週はTV画面から直接自分のカメラで撮影した。

パソコンの画面は‘STOP’が効くので、狙った画面が撮影が出来るが、パソコンの画面が‘高精細’ではないので画像が荒れる。

一方、TV画面は高精細であるのだが、画面の切換わりスピードが激しいので、狙った画像が取りにくい。勿論、カメラの性能にもよるのは当然ではあるが・・・。

さて、上述の通り、今回は‘団地の世界’である。

‘解説者’は、自らを‘団地マニア’と自称しているという、「大山顕」氏である。彼の事は存じ上げなかったが、この番組を拝見して見て、‘何でこんな人が’この番組に出演出来たのであろうか? と首を傾げた次第! 彼のことについては、この記事の最後に・・・。

以後の写真は全て、2012年12月08日00:50から放映のTBS・TV番組を自分のカメラで撮影したものである。(だから、先般のPC画面撮影のもの比べて‘高精細’になっている!)

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画面に向かって‘右下’のコメント部分を見て戴きたい!

『 今夜マツコが本気の大激怒!「あなたは嫌悪感がする・・・」』とある。

‘出出し’から、マツコ・デラックス氏が怒っている! 彼(女?)には、天才的閃きというか人を見通す能力があるから、大山顕氏は、見た瞬間に‘見破られている’のであろう。

見せられる方は、‘馬鹿にされた気’になって何ともし難い気分が漂ったが、これも‘天下のTBSさん’である、そんな馬鹿な‘ディレクター’じゃぁないだろう、きっと何か‘どんでん返し’でもあって、‘な~るほど’と視聴者に思わせる‘秘策’があるに違いないと思ったから、我慢して見ることにした。

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でも、この大山顕氏のこの‘顔つき・眼鏡’が私も気に入らない! 何だか‘気弱な詐欺師’(失礼!)のようで、何の魅力もない顔つきである。 これでもこの‘団地’の分野での社会的貢献はあるのだろう。TBSさんが選択したテーマでもあり、その道のプロなんだろうから・・・。

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自分の‘知らない世界’を教えて頂くのに、‘あなたは、嫌悪感がする!’と面と向かって言われたのでは、ご本人も立つ瀬がない! これは最後にきっとマツコ氏が謝る‘どんでん返し’があるに違いない! 私の期待は、もうそちらの方に集中した!

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ところが、話が進めば進むほど、マツコ氏の顔つきが険しくなるばかりである! この不満そうな顔つき、でも彼(女?)は、今では超一流のタレントであり、それなりのきちんとした社会経験も踏まえての苦労人である。大山顕氏を‘こき下ろす’ばかりが能ではないことぐらい心得ているに違いない!

マツコ・デラックス氏

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%84%E3%82%B3%E3
%83%BB%E3%83%87%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9

マツコ・デラックス(男性、1972年10月26日 - )は、日本のコラムニスト、エッセイスト、女装タレント。所属事務所はナチュラルエイト。千葉県立犢橋高等学校卒業。放送大学教養学部在学中。

来歴 [編集]

文筆活動 [編集]

1972年、千葉県生まれ。千葉県立犢橋高等学校在学中は木村拓哉と同級生であったが親しくはなかった[2]。芸能界進出以前の経歴については、まとまった記載はないが、美容師、ゲイ雑誌「Badi」の記者・編集者などをしていた[3]。
2000年頃[4]から140×3のスリーサイズ・体重140kgを誇る巨体に女装するというスタイルでの活動を行い、そのキャラクター性を生かしたタレント活動を開始する。また文筆業でも「マツコ・デラックス」の筆名でコラムニストとして幾つかの雑誌で連載を持つ。
新聞およびニュースサイトの見出し欄などでは、文字数制限の問題から「マツコDX」と表記されることがある[5]。2002年、ソニー・マガジンズ社から『アタシがマツコ・デラックス』を発表、以後も定期的にエッセイ集などを執筆している。

タレント活動 [編集]

テレビ番組初出演は、バラエティ番組『ワンナイR&R』(フジテレビ)の前身番組『エブナイ』だった。知人に「女装した出演者が足りないから、手伝ってよ」と誘われ出演した[要出典]。2007年1月に放送された『ジェネジャン・未成年の"生"と"性"スペシャル』(日本テレビ)にはパネラーとして出演している。
2009年、初の冠番組である『マツコの部屋』(フジテレビ)が開始。それまで自分でマネジメントをこなしていたが、友人であるミッツ・マングローブの伯父である徳光和夫に「事務所に入った方がいい」との助言を受けたことから、芸能事務所・ナチュラルエイトに所属した[6]。
2011年、ラジオ番組でも冠番組『井筒とマツコ 禁断のラジオ』(文化放送)が開始。同年9月からは、島田紳助の引退に伴い、『人生が変わる1分間の深イイ話』(日本テレビ)の実質的な後任「スペシャルコメンテーター」となる。
2012年4月、『三毛猫ホームズの推理』(日本テレビ)で連続ドラマ初レギュラー。

政治的発言・活動 [編集]

「今の若者は漫画家の小林よしのりのゴーマニズム宣言やSAPIOに影響を受け過ぎており、若者が右寄りになっている」と批判している[7]。
2012年10月1日に「潰瘍性大腸炎」(全国に10万人規模の患者がいる厚生労働省指定の難病)の悪化で辞任した安倍晋三元首相の自民党新総裁選出に関連して、「安倍晋三は腹が痛いといって国を売りとばしたみたいな馬鹿」と発言している。
[8][9]。


私の興味は、もう‘団地’の事などどうだっていい、この結末をTBS側がどう処理するのだろうか?の方に完全に移ってしまったのである。

この時点、コマーシャルが終わって、実質的内容が開始されてわずか2分後の事である!

それにしても、こんなお粗末過ぎるタレントは今まで見たことがなかった。

彼の経歴(全部ではない!)を調べてみた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E9%A1%95
大山 顕(おおやま けん、1972年11月3日 - )は、千葉県在住の写真家、フリーライター。

略歴 [編集]

1972年(昭和47年)11月3日生まれ。埼玉県出身。千葉県船橋市にて育つ。1998年(平成10年)千葉大学工学部工業意匠学科卒業し、松下電器産業株式会社(現・Panasonic)に入社。10年間勤務した後に退社し、写真家として独立。現在は、執筆、撮影、出版、テレビ出演、イベント主催などを行ってる。

盗作問題[1] [編集]

2008年2月、大山はニフティが運営する『デイリーポータルZ』において「手のりポッド」というテトラポッドのペーパークラフトの記事を掲載した。ところが、このクラフトは別の人物が作成したものを無断で加工し、自ら考案したかのように紹介したものであった。さらには、自らのブログにも同様の内容の記事を掲載した。

それから約1年後、『デイリーポータルZ』に関連記事として「テトぐるみがかわいい」という記事を再度掲載した。取り上げた内容はテトラポッドを模したぬいぐるみであったが、このぬいぐるみに関しても第三者の作成したものでありながら自身も制作に関わったかのように内容を偽った。その後、大山はペーパークラフトの本来の作者からの指摘があったにも関わらず無断加工を認めず、さらに強い抗議を受けた後、ようやく『デイリーポータルZ』上に謝罪文を掲載する事となった。

しかしながら、その後も週刊トロ・ステーションや雑誌等の取材に自分が製作者であるとしてインタビューを受け、また本人のブログからも未だ当該記事を削除せず[2]、盗作行為を続けたままである。なお、謝罪文において「利益全額および記事2本分の原稿料をすべてしかるべき活動団体に寄付することにいたします」と述べたが、どのような団体にいくら寄付したのかは一切明らかにされていない。Twitterやブログなどにおいても、本件に関して言及したユーザーやコメントはブロックおよび削除されてしまっている。

著書・作品 [編集]

監修・編集 [編集]
『団地マニア 〜団地プレイはじめの一歩〜』(2007年 エイベックス・マーケティング)
共著 [編集]
『工場萌え』(2007年 東京書籍) ISBN 448780163X
『工場萌えF』(2009年 東京書籍) ISBN 4487803454
『ドボク・サミット』(2009年 武蔵野美術大学出版局) ISBN 4901631829
『酷道をゆく』(2008年 イカロス出版) ISBN 4863200250
『酷道をゆく2』(2008年 イカロス出版) ISBN 4863200722
『団地団 ~ベランダから見渡す映画論~』(2012年 キネマ旬報社) ISBN 487376386X
単著 [編集]
『ジャンクション』(2007年 メディアファクトリー) ISBN 4840120935
『団地の見究』(2008年 東京書籍) ISBN 4487802598
『団地さん』(2008年 エンターブレイン) ISBN 4757741413
『高架下建築』(2009年 洋泉社) ISBN 4862483844
『共食いキャラの本』(2009年 洋泉社) ISBN 4862484638
執筆 [編集]
「工場の魅力~ある廃工場の風景~」『ワンダーJAPAN 4』(2007年 三才ブックス) ISBN 4861992018
『ワンダーJAPAN巨大工場総特集号』(2009年 三才ブックス) ISBN 4861991943
連載 [編集]
『デイリーポータルZ』(2002年 -  @nifty)
「ドボ珍」『東京スポーツ』(2009年4月 -  東京スポーツ新聞社)


この大山顕氏は、マツコ・デラックス氏とは、1972年(昭和47年)生まれの同い年である。

それなら案外同世代としての感覚は同じだからもう少し‘認め合う’というか‘共通認識’があっても良かったのにとは思ったが、そこが二人の‘センス’の違いなのであろう!(陰の声:センスがなくてウチワ揉め!)

でも、この引用記事を見て驚いた!これは、天下の‘Wikipedia’さんの記事である。嘘なんかではないに違いない!

それにしても、‘大活躍’である! いわゆるお笑いタレントとは一味違うタレントなのだろうが、新情報をキャッチすることに懸命なTBSテレビさんが何故こんな‘疑惑’というか‘グレイ’な人を自社の番組に登場させたのだろうか?

もうこれ以上内容について書かせて貰う事にも嫌気が射してきた。
取敢えず、その時のテーマだけは、以下に箇条書きにさせて貰う。

① 愛すべき団地たち (団地を愛し過ぎた男の少し過剰な団地熱)

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② 千葉出身マツコと大山氏の超ローカル団地トーク

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③ 千葉市 VS 船橋市 相容れない2人

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④ スターハウスとテラスハウス

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⑤ 50年前の団地は、‘憧れの高級タワーマンション’だった

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⑥ 団地とマンション その違いと魅力

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⑦ 迫力あるタワーが魅力

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⑧ 謎の突起物を擁する辰巳一丁目アパート(江東区)

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⑨ 団地感がアップする特選スポット

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ああ~、もう嫌になった! 何と言うテーマの選び方だ!  まだあと何枚もの写真があるが、これでおしまい!
馬鹿馬鹿し過ぎる!

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大山氏への不満爆発!本番中にマツコがマジギレ

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大山氏の身勝手さにヒートアップするマツコ

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全くの間抜け面で・・・

遂に最後まで‘どんでん返し’など全くなかった! 余りにもお粗末な番組だった!何と言うディレクターなのだろうか? それともマツコ氏の評判を下げたいという目論見なんぞが存在するのだろうか? 不思議である!

私がもしも団地の事でマツコ氏に知らない世界を教える立場だったら、次の項目を揃えるに違いない。

① 団地人口の推移 → これで個人住宅数との推移が判るではないか!

② 日本の経済発展と団地の集中地域 → これで大企業を支えている人達が団地にどのくらい住んであるかが判明して、団地の価値が認識出来るというもの

③ 団地住まいの国会議員の数は? → 団地出身者でも国を動かす人物が・・・

④ 団地出身の‘タレント’の数と% → 団地は庶民を楽しませる生みの親か?

⑤ 団地の建て替えは、今?

⑥ 公務員社宅としての団地は、一般の団地とどう違うのか?

⑦ 団地と文化人:文化人(Ex.音楽家、画家、書道家、小説家、etc.)の排出度% → 団地は文化の発祥地か?

・・・等々考えればいくらでも‘テーマ’はあるはず・・。

次の週の予告は、

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カジノのお話のようである。これが面白くなかったら、二度とこの番組は見ないことにする。

TBSさんにも言い分はあるだろう。一円もあなたが払っている訳ではないでしょう?それならそんなに文句を言わないで!

でも、こちとらは、深夜(00:50)まで、暖房器具も利用して、明かりもつけ、さらに電力を喰うTVを点けていたのですゾ!

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(つづく)

来週のカジノに期待!

[2012/12/13 00:25] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(6) | page top
千葉県茂原市近辺の文化活動(その1):SBC第72回定期演奏会
今朝(2012年12月10日)は、この千葉県・茂原市も随分と冷え込んだ。今季初めて裏庭の小川に‘薄氷’が張った。

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2012年12月10日08:45 場所:千葉県茂原市千沢

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同上、望遠

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同上、望遠

この場所は、カニさんが夏の間には一杯いたり、巨大オタマジャクシが住んでいた小川である。このことはこの弊ブログで何度も紹介させて貰ったが、今やこんなに寒々としている。


さて、昨日(2012年12月09日)は快晴ではあったが風は凄く強かった。

茂原市で‘SBC第72回定期演奏会’が開かれたので、聞きに行った。入場料金は500円(前売り300円)也であるが、或るお方が急に行けなくなったという事で我々夫婦にチケットを下さったのである。

コンサート-1
SBCとは、Symphonic Brass-orchesta Chiba のこと。(‘千葉交響吹奏楽団’と訳していいかどうかは知らない)

会場は、茂原市東部台文化会館・音楽ホールである。座席数:338

14時ジャスト、いよいよ開演である!

IMG_0269.jpg
http://www.sbchiba.com/home

プログラムは、以下の通りである。

コンサート0002-2

第1部

行進曲「K点を越えて」から始まった!この曲は、作曲者の高橋伸哉氏のHPによれば、次のように解説してある。

http://www.h3.dion.ne.jp/~shin-tk/k_point.html
行進曲「K点を越えて」
 March “Beyond the Critical Point”

1999年度全日本吹奏楽コンクール課題曲
1999年発表
演奏時間:約3分

 1999年度の全日本吹奏楽コンクール課題曲だったこの作品は、各地の地方予選、支部大会、そして全国大会にいたるまで、中学校から高校、大学、職場、一般の各部門にわたり、数多くの団体に演奏されました。課題曲としての役割を終えた今日でも、各地の学校行事のレパートリーやコンサート・プログラムとして愛され続けています。

(行進曲「K点を越えて」スコアより)
 1998年、長野冬季五輪における日本人選手の活躍は、私達に数多くの感動を与えてくれた。中でも、スキー・ジャンプ団体戦の勝利は、特に印象深いものであった。
 曲名にある「K点」とは、スキー・ジャンプ競技の用語で、ドイツ語のKritisch Punkt(英:Critical Point)の頭文字「K」に由来し、着地における極限点を意味する。元来危険とされるはずのK点越えも、今日では勝敗の分かれ目となることが少なくないという。
 そのような極限点に、恐れることなく挑み続ける選手達の勇気を讃えるべく、この作品を書いた。と同時にこの曲が、日々練習に励まれている演奏者の方々への、ささやかなエールとなれば幸いである。


司会者の‘解説’をいい加減に聞いていたせいか、この「K点を越えて」が長野冬季オリンピックの時の‘行進曲’として選手の入退場の際に使われた、と聞いた積りになっていたが、そうではなかった!

長野冬季オリンピックは、1998年であり、この曲を作曲して高橋伸哉氏が発表したのは、その翌年の1999年である。上記引用資料(高橋伸哉氏のHP)にある通り、‘挑み続ける選手達の勇気を讃えるべく’長野冬季オリンピックの感動を想い起して作曲されたのである。

真剣に聞いていた積りであったが、‘長野冬季オリンピック’と‘行進曲’という二つの言葉から、そう自分勝手に、その際に演奏された行進曲と思い込んでしまったのである!

情報の伝達が難しい事は、これまで色々指摘されている通りである。‘伝言ゲーム’に象徴される通り、3~4人でもその内容は、100円が100万円に化けてみたり、お爺さんが亡くなったのにお父さんやお婆さんが亡くなった、と伝えられることは往々にしてあることだ。‘風評’もこれに似た現象で迷惑を被る人々が大勢いる。

私も「K点を越えて」をもう一度確かめなかったら、この行進曲は‘長野冬季オリンピック’の際の選手入退場の際に演奏されたものだ、と言い張ることになっていたに違いない。「だって、この前のSBC定期演奏会の時の司会者がそう言っていたのを‘この耳で’俺が直接聞いたんだから・・・」という事になっていたとすれば、‘嘘’が少なくとも私の周りには広がって行くかもしれない状態になる可能性があった。くわばら、くわばら!

危ない所だった! このブログを書くために調べ直した事によって‘難を逃れる’ことが出来た。ブログを書くことの‘良さ’が一つ証明された。

さてさて、話が横道にそれてしまったが、第1部の演奏が終わって、第2部の楽器紹介の際に、また新しい知見が得られた。

第2部

このSBKは、オーケストラではないと仰る。そう、オーケストラは‘管弦楽団’である。

このSBCは、‘管弦楽団’ではなく‘吹奏楽団’である、ということらしい。

‘打楽器’と‘管楽器’とで構成される楽団で、ヴァイオリン等の‘弦楽器’はないという。‘手拍子’は‘打楽器?’だから大いに結構と仰るのは、指揮者の一人、片岡和成氏である。な~るほど、吹奏楽には‘手拍子’は場合によっては適しているし、盛り上がる!

そういわれて気付いたのが、この楽団の覚え方。

楽団員はみんな「‘ゲン’を担がない‘神田’の生まれ」と思えば良い。‘ゲン’を担がないから、‘弦楽器’はない!

‘神田’の生まれだから、‘管’楽器と‘打’楽器 しかないという訳である。そんなことを考えながら、暖房の効いた座席でニヤニヤしていたら、‘楽器紹介’である。

コンサート0001-2
演奏をされる人だけで、40人を超す大所帯である。‘ごあいさつ’の中にもある通り、まとめ上げることに最大のご苦労があるのだろう。どなたもキチンとした収入源が別にあっての参加だと思われる。地方で文化を守るためには、多分皆さんの‘持ち出し’無くしては運営が不可能なのだろう。もっと政府はこれらの事にも関心を持つべきである。

ほぼ満席だったから、入場者を330名として入場料400円(当日500円、前売り300円)とすれば、

   400円/名 × 330名 = 13万2千円

収入はこれだけである。

会場使用料は、調べてみると日曜日の午後前半では、~1万円 だそうだから、これは格安である。

この分を差し引いた約12万円を丸々スタッフも入れた約50人に均等に分配したとすれば、

   120,000円 ÷ 50人 = 2,400円/人

練習に何度も参加した事はさて置き、この日だけの時間、練習やあと片づけまで入れれば、5時間は下らない。

つまり、単純計算、これも成り立たないことは判ってはいるが、敢えて計算すれば、時間給500円/人 にもならないという訳である。それじゃあ、入場料を500円から倍の1,000円に引き上げれば、今度はお客さんが来ないという事になって、収入は同じである。

色々な雑費、例えばカタログ代や衣装代や交通費等々を勘案すれば、皆さんには時間給のお金だって行くはずない! 打ち上げの‘ラーメン代’くらいが関の山である。

いやいや、何だか計算して見ると情けなくなってしまう!

‘文化’とは一体何なのか?政府・行政の今後の対策は?



さて、第2部の目玉は、管弦楽団中心のヴァイオリン用としてヴァイオリニストの‘葉加瀬太郎’氏が作曲した‘情熱大陸’をこのSBC吹奏楽団が、‘ヴァイオリンの音’を管楽器と打楽器で雰囲気を出そうという試みである。確かに、雰囲気は出たが、やはり‘日光の手前’(=いまいち)だった。でもでも余興としては素晴らしい発想だった!

hakase.gif
http://asicre.ti-da.net/e2385347.html

第3部

ロックンロール・メドレーや‘ヘイ ジュード'、それにNHKの朝ドラ「梅ちゃん先生」の主題歌‘さかさまの空’も演奏されたが、圧巻は‘美空ひばりメドレー’であった。

中でも際立ったのが、‘お祭りマンボ’である。これは、‘マンボ’だから、吹奏楽にマッチしているのであろう、これは‘中央’に出しても決して引けを取らない凄~い迫力であった!<拍手!>

b00072522385050.jpg
http://metastasis.exblog.jp/i72/

こんなきちんとした楽団の演奏会でも必要なのは、演奏をする人達と観衆の一体感である。この40人以上を纏め、そして観衆とのコミュニケーションにも気を配る人が必要なのである。

このSBCでは、演奏も司会役もこなされた‘片岡和成’氏がそうである。普段は何をされておられるのかは知らないが、大変なお役目である。団員も彼について行こうとしていることが我々観衆にも十分理解出来た。適当な笑いあり、巧く団員・楽器の紹介もありでこの発表会は大成功だったと思う。ただもう少し何とか資金調達が出来ないのか、これが悔しい想いであったが・・・。<お願い:戻って来てこの‘SBCのHP’( http://www.sbchiba.com/home )を覗かせて貰ったが、これでは情報が中々伝わらない。どなたかが本気でHPの改善をされればもっと人気が出るに違いないと思った。>

アンケート用紙に、「今後演奏して貰いたい楽曲があるか?」の質問に「‘演歌’を是非吹奏楽団で!」とお願いをして、終了後の団員の皆さんの暖かいお見送りを受け、厚かましくも‘片岡和成’氏と握手をさせて貰って会場を後にした。

16:10、外はまだ木枯らしが吹き荒れていた。

(つづく)

次回(その2)は、近々開催される茂原市近郊での‘文化’的活動についてのご紹介を。

[2012/12/10 10:28] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
‘貯蔵栗’は、本当に美味い!
表題の‘貯蔵栗’については、弊ブログで取り上げたことがある。2012年10月04日付けのブログ【 http://kissyarita.blog.fc2.com/blog-entry-290.html 】である。

その時の解説を見ると、
 

http://kissyarita.blog.fc2.com/blog-entry-290.html

貯蔵栗

茨城の栗の生産量は全国1位。笠間市は代表的産地で知られる。笠間の栗農家は2009年、海外産に負けないよう、高い付加価値のある商品をと、厳選した大粒の栗を零度で1か月間貯蔵して甘みを増す貯蔵栗の生産を始めた。3%前後の糖度は12%に高まり、粉っぽさが消えてねっとりとした食感になった。


とある。

実は、このブログを書かせて貰った以上、我が家でも‘貯蔵栗の実験’を開始した!

開始した日付けは、2012年10月14日(日)である。カミサンの或るお知り合いから小粒ではあるが‘立派な’栗を頂戴したのである。

‘レシピ’(?)としては、

‘0℃で一ヶ月’の貯蔵

のようであるが、何しろ貯蔵は我が家の冷蔵庫である。‘冷凍’に、とも思ったが、冷凍であると多分素人考えでも、甘みを増す‘反応’が進まないだろうと思ったため、4~5℃程度の冷蔵場所に保管した。

この際必要なのは、‘空気の遮断’であろうと思った。この遮断に効果を発揮するのは‘サランラップ’である。ラップ剤の中でも、その効果は群を抜いている。このことは、もう何年も前に、我々が別の目的で何種類ものラップフィルムを試した結果である。流石に‘発明元の技術は違うわい!’と絶賛したことを覚えている。

そんな訳で、約1.5カ月貯蔵した後、普通通りに茹でてみたところ、なんと、何と、この美味さは、これまでに味わったことの無い程の‘食感と甘み’である。

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画像ー65 209-2

上述の引用資料の表現

「・・・・3%前後の糖度は12%に高まり、粉っぽさが消えてねっとりとした食感に・・・」

は全くその通りである。

通常、プロが書き物で指示した‘レシピ’をその通りに素人が実験した場合、まともな結果が得られないのが普通である!

しかし、この場合は、正にその通りになった!

勿論、冷蔵しない場合と我が家で冷蔵した場合の‘糖度’を計った訳ではないのて‘定量的’なことは不明である。

しかし、いやいや、驚いた。

特に‘粉っぽさが消えてねっとりした食感’は、これまでに感じた事の無かった食感である。

来年からは、少々冷蔵庫の体積は必要なものの、何ら難しいこともないので、多分80%はこの方法でと大いに気を良くした次第である。

皆さん方も、どう~ぞ!



[2012/12/09 08:41] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
コーラ談義
コーラと言えば、‘コカコーラ’と‘ペプシコーラ’しか知らなかった。

毎週、金曜日の夜12時50分(正確に言えば、土曜日の00:50)から面白いTV番組がある。

マツコの知らない世界
http://www.facebook.com/matsuko.sekai

TBSテレビの番組である。先週の金曜日(2012年11月30日)の深夜に偶然チャンネルが合って、こんな面白い番組があったことに初めて知った。

話題が揮っている。その日の話題は‘コーラ’であった。冒頭に書いた通り、われわれ‘期限切れ’人類は、コーラなんて年に2,3度しか口にしないから、余り関心もなかったが、古い時代から知ってはいるので馴染みはあった。

途中から見たのだが、あの情報通の‘マツコ・デラックス’さんが知らないことを我々が知っているはずがない!こんなテレビ番組があることは、‘われわれ老人が知らない世界’である。

マツコの知らない世界でコーラを飲む
http://www.facebook.com/matsuko.sekai

マツコの知らない世界 2012.11.30 TBSテレビ

話題が多過ぎる! コーラについてよくもまあこんなに話題があるもんである。

御出演になった人、つまりマツコ(女子?)氏に、彼(女?)の知らない世界をお教えする役目のご仁は、

http://www.colawp.com/greetings/author.html
中本 晋輔 (なかもと しんすけ)

日本有数(?)のコーラのコレクターにして、この企画の首謀者。 東に新たなコーラありと聞けばキコキコとチャリンコをこいで出かけ、 西に新たなコーラありと聞けば関空から空を飛びアメリカ大陸まで行ったりする。 その結果、部屋は赤い缶に埋め尽くされ阪神大震災の際に酷い目に会い、 資料として残すことを決心する。

「コーラを学問する」などと陳腐化されたスローガンのもと、 単なる骨董的収集活動にとどまらず、 むしろ考古学的知見をもって各地のコーラを分析し、 その文化的背景を探ろうとしている。 だからといって今後の活躍に期待しないように(笑)

コーラ白書で使用したコレクションは彼個人のものである。 また、ここで公開されているデータは 実質的にすべてこの中本の手によって作成された。 コメントなども他のメンバーと協議しつつも、 最終的には彼の手で書かれたものである。

だいたい、「ふすけ」と呼ばれている。スーツ姿も初々しさが抜け,すっかりオッサンだ。


これが、自己紹介の様である。

早速話題から・・・。

以後の写真は全て、(http://video.fc2.com/content/%E3%83%9E%E
3%83%84%E3%82%B3%E3%81%AE%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%
E3%81%84%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%80%802012.11.30/2012120
1MhcZqqsT/&tk=TXpjMk1qWXpOREk9
)からの引用。

① 近年見なくなったペプシの瓶コーラ

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瓶コーラは近年見なくなったのは?

業務用としては残っている。

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瓶コーラの方が美味いと思うのは何故?

瓶が‘冷たい’からだと思う!

② 世界中で飲まれているコーラの数は?

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1日の約10億本!

③ ではコーラの最初の売り出し目的は?

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コカコーラは、‘強壮薬’! ペプシコーラは、‘胃腸薬’!

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‘ペプシ’の名前は、‘ペプシン’から・・。ペプシン:胃液中にあって、塩酸と共同でたんぱく質を分解する。

④ コーラの原料は?

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レシピは明かされていない!

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でも、同じコカコーラであっても、こんなに味が違う!

⑤ コーラ戦争

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二大メーカの販売戦争!

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コカコーラに軍配! 軍隊に納入作戦でコカコーラが圧倒的に大勝!

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しかし、ペプシが巻き返し作戦に!

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遂にペプシがコカコーラを上回る!

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両者は永遠のライバル!

コカコーラの巻き返し作戦は? ペプシの味の真似をした!

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えっ!?

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それにより、コカコーラの売り上げが上がった!

⑥ 最近の両者の売り上げNo。1 商品は?

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これらが、両者の人気商品!

これらを飲んでみると・・・??

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ゴックン!

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美味くな~い!

⑦ 日本のコーラ市場に異変??

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‘健康飲料’という概念が、遂にコーラにも及んで来ているという。

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何と!脂肪を抑える効果まで、コーラに??

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御当地コーラ!

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沖縄の黒糖入り!

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‘塩’までが??

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でも‘宗谷の塩’、美味しいかも? ただし、コーラとしてではなく??

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キリンが参入!現在第2位かも?

⑧ 日本一高価なコーラは?

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ホテル、ザ・リッツカールトン大阪の室内サービスのコーラ。お値段:1,017円也。

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でも、こんなに豪華に持って来てくれる! そんなに、高くな~い!

⑨ 世界一ウマいコーラ!

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ドイツの‘afri’コーラ。 でも残念ながら、賞味期限が切れている!13年前に!

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えっ!

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こんな調子の‘マツコの知らない世界’という番組。面白い!

今日金曜日の深夜、もう土曜日になって00:50から・・・・!

(つづく)

[2012/12/07 00:55] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
‘爪楊枝’の溝
‘爪楊枝’の溝 については、言うまでもなく‘頭を溝で折って、爪楊枝置き’にするための‘溝’であると思っていたし、そう或る大先輩から教えられて納得していた。

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http://store.shopping.yahoo.co.jp/taketora/sa00392.html

ところが、今日、或るTV番組でのクイズを見ていると、そうではないという。‘こけし’の頭の部分に似せてわざわざ‘溝’を入れた、というのが正解 だという。

これは、製造元で実際にそうやって製造し始めた経緯を御存じの方へのインタヴュー映像もあったから、これは疑いは無い!

ただし、折って爪楊枝置きに出来るのも事実だから、‘質問の仕方’によっては‘その答え’に違いが出て来る

 ‘溝’がつくられた主目的は何? という質問なら‘こけし’に似せたが正解だろう。

 ‘溝’の利用法は? という質問なら、‘こけし’という正解はまずないから、‘置き’が正解だ。

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http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/8786/mametisiki-tu.htm

‘WEB’で調べてみると、あるわあるわ、どれも皆同じで皆孫引きと思われるが、次に様なものである。

http://ntzatu.wordpress.com/2011/09/03/%E7%88%AA
%E6%A5%8A%E6%9E%9D%E3%81%AE%E6%A0%B9%E5%85%83%E3%81%A
E%E6%BA%9D%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B/

雑学猫の館

雑学こそ史上最強の学問です。

爪楊枝の根元の溝は何か

手で持ったときに滑りにくいからではありません。

諸説あり、明確にはわかっていないのですが、次の2つが有力説です。

こけし説

爪楊枝を作る過程で(摩擦熱などで)どうしても爪楊枝のおしりのほうが茶色く焦げてしまうらしい。これは見苦しいと考えた会社の人が、「おしりの方に溝をつければこけしみたいになるかも」と思いつき、今のように削るようになったという説。

爪楊枝置き説

爪楊枝の溝の部分で2つに折り、折れた短い方を爪楊枝置きにできるという説。

どちらの意見も多いのですが、どちらかというと「こけし説」のほうが本当のようで、「爪楊枝置き説」はガセのようです。ただ爪楊枝起きは便利ですね。今度使うときにはやってみます。


それでは、爪楊枝の‘原木’は?

http://www1.city.kawachinagano.lg.jp/kiccs/youji_sub.html?/bunka2
・楊枝の材料を育む風土
日本では昔から、楊枝は楊柳(ようりゅう)・黒文字・卯木(うつぎ)などの材料で作られてきました。東南アジアでも殆どが木や竹製の楊枝を使っています。
 アジアは元来、緑を育む気候と豊かな大地に恵まれ、農耕文化が発達したため、楊枝の素材としても周りに多くある木や竹を利用していて現在も続いている。

インドのお釈迦さまが使われた楊枝も木製であった。

 ヨ-ロッパでは 歯につまった肉片を取るのには強い楊枝が必要でそのため楊枝の素材も水鳥の羽・ヤマアラシの針・野うさぎの骨・獣の角・象牙が多く使われていました。また、青銅・金・銀等もその強さゆえに楊枝の素材として使われていました。
 日本では仏教の関係から肉食が盛んでなかったため、動物の骨や羽根製の楊枝ではなく、木製の楊枝が一般的でした。
 わが国は木の文化であり楊枝にもその文化が表れている。
農耕民族は楊枝の素材として木・竹・葦の穂等の植物的なものを多く使いました。食べ物の関係上、歯の表面の汚れを取ることが主な目的でした。


http://zeror.ifdef.jp/uranai/keta/19.htm
楊柳 とは柳の木の総称、楊は猫柳、柳はしだれ柳


http://blog.goo.ne.jp/isobekai/e/625d67fdea
727156737b4e106fbf06a2

世界にはヤナギ科の植物が350~400種もあり、日本には30~40種があるそうです。漢字では「柳」のほかに「楊」とも書く。楊貴妃の「楊」。楊貴妃は楊一族の出身だった。
日本では一般的には、枝垂れているヤナギを「柳」、枝が上を向かってのびるヤナギを「楊」としているが、中国では古来「柳」と「楊」には明確な区別がないようで、現代中国ではシダレヤナギは“垂柳”、ネコヤナギは“銀柳”と書くそうです。

<中略>

ヤナギは爪楊枝の材料でもある、といってもそれは中国の話で、日本ではシラカバ(白樺)を使う。白樺は容易に手にはいるし木質が柔らかくて加工しやすく、また歯をいためないからいいのだそうです。ところでこの爪楊枝、実は仏教とともに中国から伝わった。天平勝宝六年(752年)に来日した唐僧の鑑真がもたらした『四分律』(僧侶の戒律を定めたもの)という経典には、「澡豆(そうず。洗い粉)と楊枝を以て手を洗い口を漱がしむべし」と記されており、爪楊枝は僧侶ばかりか貴族の間でもよく使われたそうです。


白樺群生地
http://www.yachiho-kogen.jp/2008/05/post_52.html

http://www.cleardent.co.jp/tsumayoji-gallery/process.htm
つまようじの製造

 楊枝は、卯木や黒文字の原木が使われ、当時、豊富にあった河内長野を中心と楊枝産業として始まりました。
 その後、アメリカより白樺製の「平楊枝」が安く輸入された頃から、機械化が本格的に進み、楊枝の産業へと変遷していきました。

 楊枝は、原木の切断、煮沸剥き工程へと進み、短板、乾燥(回転ドラム)、軸加工(ここまで北海道)、楊枝の長さに切断・先付け(河内長野)へと、すべて機械で生産されています。最近は大半が中国からの輸入となってきましたが、楊枝を含めて国産の商品が徐々に見直されるようになり、国産の楊枝を求められる方も多くなってきています。



爪楊枝一つにも色々な歴史があり、それぞれの苦労があって今日に至っていることが、よ~く判った。

だから、WEB検索は面白いし、止められない!

(つづく)

三角楊枝があるという。その効果について次回。

三角楊枝
http://www.binchoutan.com/youji/index.html













[2012/11/13 22:16] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
秋深し・・・
「秋深し 隣りは何を する人ぞ」 松尾芭蕉

と、小学校の時から60年以上そう思っていたが・・・・、

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http://www.city.iga.lg.jp/ctg/22062/22062.html

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q109371885
これは、松尾芭蕉が元禄7年(1694年)の9月28日、大阪に滞在したときに弟子の芝柏が主催した興業(俳句会)へ病気の為欠席することとなったため、発句(最初に出す俳句)として遣わしたもので、笈日記などに掲載されております。
正確には

秋深き隣は何をするひとぞ

ですが、「秋深し」で覚えられている人が多いです。
一般的には、秋が深くなり(新暦だと11月末~11月上旬)床に伏せって静かにしていると自然と隣の人の生活の音が聞こえ、隣の人は何をしている人だろうなどと色々想像してしまいます。

ということになっていますが、大阪の蕉門(芭蕉一門)の興業に出席した人々(隣)に対して、こんな秋深くなった良い季節に何をしているの?俳句会でも開いているのですか?そんな良い会に出席できなくてすいません。
といった挨拶を含めた俳諧味(滑稽さ)も表していること私は思っております。

芭蕉の晩年は、俳句の中に庶民の生活臭が漂う風流さの『かるみ』を説いていました。
この興業は結局芭蕉の為に開こうとしたことから流会となって、その約二週間後の10月12日に大阪の久太郎町3丁目の花屋仁佐衛門宅で逝去しました。(芭蕉終焉の地の碑は御堂筋の道路の中にあります)


秋深き隣りは何をする人ぞ
http://blogs.yahoo.co.jp/kabashin1gou/57437079.html
(註:この作者が‘秋’の字を間違えておられるのではない!全体のバランス上‘偏’と‘旁’を入れ替えておられるのである。二行目の‘何’と‘秋’の‘ノ木偏’の第一筆が同じ方向を示す字であるため、前以て出来るだけ遠くへはなそうとして、偏と旁を入れ替えておられるのである。書道ではよくある‘手法’である。)

さて、この芭蕉作の俳句が‘秋深き’であったら、折角私が作った‘駄洒落俳句’が成り立たなくなってしまう!

「秋ふかし ふかしと言えば さつまいも」

11月ともなれば、秋深し、なのに・・・。

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2012年5月5日

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2012年11月11日
6月5日の写真と比べてみれば、‘秋深し’がよ~く判る。葉っぱはもうない!

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2012年8月18日

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2012年8月18日
この頃は‘カニさん’が沢山いた。

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2012年11月11日 8月18日の写真と比べると‘紅葉’していることが判る。

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2012年11月11日

カニはどうやら‘冬眠’に入ったと見えて、一匹も姿を見せない。

因みに、上記引用資料にある通り、「秋深き 隣は何を する人ぞ」は、元禄7年9月28日作、51歳。

芭蕉は、その次の月、つまり元禄7年10月12日に死去。「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」これが最後の句で、10月8日の深夜に作ったという。

従って、「秋深き・・・」は、最後から二番目の句という事になるそうだ。

それにしても、芭蕉が亡くなったのは、51歳。何だか70歳はとうに越していたような感じがするが、江戸時代の平均寿命は、恐らく‘人生50年’というから、芭蕉も現在なら、80歳近くと言えるのかもしれない。

現在では、51歳と言えば、一番油の乗り切った活躍真っ最中と言ったところ。人間の寿命、iPS細胞のお陰で今後どこまで伸びるのだろうか?


(つづく)

次回は、「‘カニの冬眠’について」と「紅葉は何故起こる?」













[2012/11/11 23:54] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
江戸ものしり考証
江戸時代という長期平和時代 を構築した元祖は、言わずと知れた‘徳川家康’である。

勿論、家康一人の完全なる‘独創’ではないことも確かである。

織田信長や豊臣秀吉の影響 が当然ある。しかし、家康の人生哲学の根本は、やはり家康の素質にある。以前、このブログでもこの英雄3人の‘評価’について書かせて貰ったことがある。( 第Ⅲ象限からの脱出! http://kissyarita.blog.fc2.com/blog-entry-181.html

人物の評価は、沢山のファクターから成立っている。そのパラメーターを2つに絞って単純化して見た。そのパラメーターは、下図に示す通り、(独創力)と(人格)としてみるとかなり特徴が出て来る。


2次元 象限-50001-2
http://kissyarita.blog.fc2.com/blog-entry-181.html

織田信長
http://history4u.net/archives/463
信長は、独創力はあるが‘人格’には少し劣る(鳴かぬなら殺してしまえ・・・)から、第Ⅳ象限という訳である。

豊臣秀吉
http://www.shouzou.com/mag/p11.html
秀吉は、独創力ありでかつ‘人格’もあり(鳴かぬなら鳴かせて見せよう・・・)だから、第Ⅰ象限。

徳川家康
http://amesei.exblog.jp/14390712/
家康は、独創力は信長、秀吉に劣るが、人格は素晴しい(鳴かぬなら鳴くまで待とう・・・)という訳で、第Ⅱ象限に‘貼り付けられる’という訳である。

第Ⅲ象限は、独創力も人格も劣る‘人物’、すなわち‘歴史には登場しない人物’、一般庶民という訳。

あくまで、この評価は‘相対的な’もので、家康が絶対的に‘独創力’に劣るという事ではない!信長・秀吉に比べて‘相対的に’独創力が低い程度だというだけのことである。

しかし、その後の‘実績・評価’からすれば、「いやいや、信長や秀吉よりも‘独創力’においても‘優れていた’のだ」という評価だってあり得る。

江戸時代という日本の‘長期平和時代’の礎を築いたのだから・・。でもでも、それは信長と秀吉はいたからだ!との反論もあろう。

この果てしない評価議論は、ひとまず置くとして、実際には、江戸時代という平和時代が訪れた。この平和時代の‘文化’が、実は現在にも幅広く大きな影響力を持っていると思われる。

ここに興味深い一冊の本がある。

江戸monoshiri
稲垣史生氏の著作である。

今日においても江戸時代の文化が色褪せないのは、その文化の程度が高度に洗練されていたからに違いない。

‘時代劇’が未だに人気を博している最大の理由は、日本人の体質に合致した‘勧善懲悪’という文化が、江戸時代という平和な庶民生活に裏打ちされているからに他ならない。

体制を保つための‘士農工商’という身分制度も、それぞれが世襲制度を保持したためにいわゆる‘競争’という意識を生活の中に取り入れなかったことが、人間性を却って尊重する風習を産んで、みんなが平和を謳歌したことに繋がったに違いない。

先般も指摘させて貰ったが、江戸幕府が開かれた後直ぐに起こった‘島原の乱’が、江戸幕府をして‘仁政’を行なわせる起爆剤となって、その犠牲の上に約260年の平和が保たれた。そして‘鎖国’もがその平和に貢献していたのである。

その江戸時代の文化・風習・習慣を解き明かしてくれるのが、このご本である。

プロローグとしては、このご本の‘ものしり475の考証’の一つを紹介してお開きとしたい。

江戸ものしり
それにしても、‘火事と喧嘩は江戸の華’と言われる‘火事’を、町人・江戸っ子が‘待ち望んでいた’というのも面白い。誰かが損をしないと他の人が儲からない。これを経済が回るという。現在のように老後のためとか将来の生活が不安だからと言ってお金を使わないと経済は回らない。

(つづく)



















[2012/10/16 23:51] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
論語について(その1):プロローグ
‘論語’といえば、「論語読みの論語知らず」 ということぐらいしか出て来ない。

勿論、‘論語’の作者は‘孔子’ではない。‘孫弟子達’が孔子の‘言行録’を纏めたものであることは誰もが知っているのであるが・・・。

孔子の‘子’は‘先生’という意味の尊称。したがって、‘孔’先生である。

儒教の始祖。

面白いことに、当時の宗教の始祖の共通点は、「始祖自身が‘経典’に当たる‘書き物’を自らの手で書かなかった」 という点にある。

世界における現在の‘宗教人口’を見てみよう。

http://www.bekkoame.ne.jp/i/funyara9/syukyo01.htm
宗教人口

地球の人間が100人いたら、35人がキリスト教信者、19人がイスラム教信者、14人がヒンドゥー教信者、6人が仏教信者という事に相当します。



そして、主な宗教の‘聖典’を以下に示す。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%85%B8

① キリスト教 - 新約聖書、旧約聖書(聖書)

  『新約聖書』(しんやくせいしょ、ギリシア語: Καινή Διαθήκη, ラテン語: Novum Testamentum)は、紀元1世紀から2世紀にかけてキリスト教徒たちによって書かれた文書で、『旧約聖書』とならぶキリスト教の正典。また、イスラム教でもイエスを預言者の一人として認めることから、その一部(福音書)が啓典とされている。『新約聖書』には27の書が含まれるが、それらはイエス・キリストの生涯と言葉(福音と呼ばれる)、初代教会の歴史(『使徒言行録』)、初代教会の指導者たちによって書かれた書簡からなっており『ヨハネの黙示録』が最後におかれている。

② イスラム教 - コーラン、ハディース、啓典(律法、詩篇、福音書)

イスラム教の教典(聖典)としてすべてのムスリムが認め、従うのは、アラビア語で「朗唱されるもの」という意味をもつクルアーン(コーラン)唯ひとつである。 クルアーン(コーラン)はムハンマドが最後の予言者として語った内容が、ムハンマドおよび後継者の代によって編集され、書物となったものである

③ 仏教(仏典、経典
      部派仏教 - 法句経、阿含経など
      大乗仏教 - 法華経、般若経など

仏教の経典は、釈迦時代は釈迦が文書化を許さなかったため暗記によって保持されたと伝えられる。この時代のインドでは、文字はすでに普及していたが、その使用は商用や法規の公布などに限られ、世俗の用件に用いるものではなかった。ことに、書くことで自分を離れるから、聖典に対する敬虔さを失うと考えられて、文字に記すのではなく、体で覚えたわけである。

仏典が組織的に編まれたのは、釈迦の入滅後間もない時期である。釈迦の入滅時に一人の比丘が「もう師からとやかくいわれることもなくなった」と放言したことがきっかけで、これを聞いた摩訶迦葉が、釈迦の教説(法と律)を正しく記録することの大切さを仲間の比丘たちに訴え、聖典を編纂した。
この編纂会議を結集(けつじゅう、サンスクリット:saMgiiti)と呼ぶ。しかし、ここでは現在我々が目にする仏典の成立ではなく、核とも言うべきものが作られた。この編纂会議は、第一結集と呼ばれている。
その後も、仏典はおよそ二百年間は暗記によって保持され、文字に写されなかった。

④ 儒教 - 経書(詩経、礼記、春秋、論語など)

『論語』(ろんご、拼音: Lúnyǔ )とは、孔子と彼の高弟の言行を孔子の死後、弟子達が記録した書物である。『孟子』『大学』『中庸』と併せて儒教における「四書」の1つに数えられる。


上記引用の通り、‘巷間’世界4大宗教と言われる(勿論、4大宗教は定義次第で別のものを挙げることもある)上記の聖典・経典の類は、悉く‘始祖の手で書かれなかった!’のである。

さて、‘論語’に話を戻すと、‘今何故、論語’なの?から始める必要がある。

ここに一冊の本がある。

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著者は、あの「日本人とユダヤ人」で一躍脚光を浴びた‘山本七平’氏である。(1991年没)

彼が、戦後日本の教育の乱れを危惧して、有難いことに、東洋のバイブル(聖書)たる「論語」を我々一般人にも判るように解説してくれている。

そして、あの遠藤周作氏が、この本のカバーの内側に次のような推薦メッセージを寄せておられる。

‘論語の読み方’推薦の言葉・遠藤

遠藤周作氏も言葉を慎重に選んでおられるが、要するに‘戦後の教育’を日教組が駄目にしたという事である。そのことを「デモクラシー(民主主義)は政治制度であって、人間個人の規範とは‘次元’を異にしたもの」という表現をされているのである。

これは、この「論語の読み方」を読んでいく上で、読者が決して忘れてはいけない概念である。

戦後生まれというより、戦前に産まれていても‘戦後の教育制度’の中で教育された日本人は、「論語読みの論語知らず」どころか、

「論語読まずの論語知らず」

であって、最悪である。

このことは、今の中国人にも当てはまる。

毛沢東の「文化大革命」では、‘孔子と封建思想’という名目で‘排除’する闘争がなされたが、1976年毛沢東の死去により、‘儒教思想’は復活する。現首相の温家宝は、2004年 「平和共存五原則」 周年記念演説,世界文明の多様性を肯定し、その先見性孔子の世界観指摘、評価。( http://kerukamo.blog115.fc2.com/blog-entry-130.html

前出の宗教人口に見られる‘儒教人口’600万人強が全部中国人だとしても、中国全人口の0.5%にも満たないから、中国は‘儒教の国’とは言えないのだろう。

儒教の教義は、
「儒教は、五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを教える」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%92%E6%95%99 )であるから、今般の中国の動きに儒教思想が現れているとは到底思えない。

‘国の宝は人づくり’

だという基本的な教えさえ守る気配がない。一人っ子政策は果たして大丈夫か?

そんなこんなで、今こそ‘論語’が見直される時だと感じている次第。

今後、この本「論語の読み方」を熟読しながら、日本人だけに止まらず‘人間の生き方と教育問題’について勉強をしてみたい。

(つづく)

















[2012/10/15 23:28] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
ロングイヤービエン(その1)
‘白夜’は、一日中太陽が沈まない自然現象である。このことは小学校でも教わるから、日本人なら誰でも知っている。

白夜
http://www.toxsoft.com/sswpro/kaisetsu/index.html

白夜の観察
観測地をノルウェーなどに設定して観測日付を夏至の時期にすることで、1日中太陽が沈まない白夜の様子を観察することもできます。太陽に追尾を設定し、薄明・昼光と朝・夕焼けをチェックすることで、空が1日中明るいのを観察できます。


しかし、‘白夜’があるのなら、その反対に‘一日中太陽が昇らない日’があることには誰もが気付いているはずなのに、このことは小学校では、不思議なことに、たしか‘教わらなかった’はずである。

どうしてなのだろうか?

北半球で、‘白夜’が進行中の場合、同時に南半球では‘一日中太陽が拝めない日’が続いている場所がある。その反対に‘南半球で‘白夜’が進行中の場合、北半球のある場所では、‘太陽が拝めない日’がある。

ここで、問題で~す!

Q:‘白夜’の反対語(対語・対義語)は、何でしょうか?

これ、小学校では教えてくれなかった!(質問すればよかった!)

A:‘極夜’といいます。

極夜
http://www.maptour.co.jp/atb/dept_ngo.php/area/ngo_mapstyle_iceland02_03/

極夜
アイスランドは北極圏のすぐそばに位置しているため、夏は白夜、冬の12~1月にかけては太陽が昇らない極夜の季節を迎えます。
夏、レイキャヴィークでの1日の日照時間は約21時間で、北部ではほとんど沈むことはありません。真夜中でも明るく、不思議な世界を体験することができるでしょう。
冬はオーロラが頻繁に現れる「オーロラ帯」の中心に位置しているため、空が晴れて暗くなりさえすれば毎晩のようにオーロラを見ることができます。
アイスランドでのオーロラ鑑賞は9月~4月の約8ヶ月間、一夜で2回程度出現し、様々に色を変え、煌きながら優雅に踊る光のカーテンが夜空を彩ります。
また、この時期は北部では太陽が地平線から50度以上昇ることはなく、レイキャヴィビークでも日照時間が4時間程度と、夏と比べて極端に短くなります。


極夜

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E5%A4%9C
極夜(きょくや、英: polar night)は、日中でも薄明か、太陽が沈んだ状態が続く現象のことをいい、厳密には太陽の光が当たる限界緯度である66.6度を超える南極圏や北極圏で起こる現象のことをいう。ただし、極圏に位置していなくともアラスカやカナダ、グリーンランド、アイスランド、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、ロシアの一部の地域では、正午前後の数時間だけしか太陽が昇らない季節があり、この地域で起こる現象のことも極夜と呼ぶ場合もある。[要出典]
対義語は白夜。 地球の自転軸は、公転軌道面に対して約23.4度傾いており、この傾きが季節によって一日中太陽の昇らない極夜を極圏に作り出している。
毎年、南極圏では夏至、北極圏では冬至前後に起り、南極圏では毎年5月末から約2か月、北極圏では毎年11月末から約2か月の間この現象に見舞われる。そのため特に暗い日として北極圏の英語圏では冬至のことをミッドウィンターと呼ぶ。また、極夜の時期はオーロラが最も綺麗に長く見ることのできる時期とされ、他にも極成層圏雲やダイヤモンドダストを観測することができる。[要出典]


因みに、‘極夜’は、英語では、上述引用にある如く、‘polar night’であるが、‘白夜’は、英語では、①‘white night’②‘arctic night’③‘short night’と翻訳されている(by google 翻訳機能)。

また、‘広辞苑’を載せているカシオの‘EX-word’には‘極夜’の単語は掲載されていない!

更に、‘白夜’については、

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%A4%9C白夜
NHK放送文化研究所によれば、本来の読みは「はくや」だったが、1970年(昭和45年)[1]に加藤登紀子がリリースした「知床旅情」(作詞・作曲 森繁久彌)のヒットが「びゃくや」の読みを広めるきっかけになったとみる向きが多いらしく、現在ではNHKでも「びゃくや」を標準読みとしている。なお、知床半島は北緯44度に位置しており、白夜になることはない。


とある。しかし、この表記は昔の小学校でどう教えていたかを知らない人の記述に違いない!我々は、昭和20年代に小学生だったが、その時の読みは「びゃくや」だった。恐らく‘森繁さん’も小学校でそう教わったに違いない。昭和45年頃から、というのは少々眉唾??

ノルウェ―に‘ロングイヤービエン’という都市がある。

私は‘長い年月鼻炎’に悩まされ続けている。この日本語「長年鼻炎」に、を直訳すると「long year bien」とはならないか?

そんな訳で、この都市の名前を聞かされて、直ぐに‘親しみ’を感じた!

ロングイヤービエン
http://tabisite.com/photo/14sj1.shtml

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%B3%E
3%82%B0%E3%82%A4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%AB%
3%83%93%E3%83%BC%E3%83%B3

ロングイェールビーン(ノルウェー語: Longyearbyen)は、ノルウェー領スヴァールバル諸島にある町。スピッツベルゲン島西部のイース・フィヨルド南岸に面している。人口は約2000人でスヴァールバル諸島人口の大半を占め、1000人以上の人口を有する町の中では、世界で最も北にある。かつては炭鉱町だったが、現在では観光・教育・研究にも重点が置かれている。長らくスヴァールバル総督府を通した政府直轄管理が行われていたが、2002年に基礎自治体に相当する地域行政府(lokalstyre)が成立した。

地理 [編集]

対岸ヒョルス山(Hiorthfjellet)から望むロングイェールビーン。手前はアドベント湾、奥はロングイェール谷。
ロングイェールビーンはスピッツベルゲン島の西から中央にかけて大きく入り込んだイース・フィヨルドの南側に位置している。イース・フィヨルドの中程南側、南西からアドベント湾に注ぐロングイェール川の両岸にまたがる形で町が広がっている。上流側からNybyen、Sverdrupbyen、Haugen、Lia、Gamle Longyearbyen、Skjæringaなどの地区がある。
イース・フィヨルド南岸を西に36km行ったところにロシア人による炭鉱町バレンツブルクがあるが、道路は通じていない。

地質 [編集]

典型的なU字谷であるロングイェール谷に位置している。谷の最奥部には氷河が残っており、両側は台地になっている。谷の崖面には砂岩や頁岩からなる第三紀の地層が露出しており、その下にわずかに傾いた石炭層がある。



‘白夜’とそして‘極夜’の町、考えようによっては‘世界一住みよい町’と言えるそうだ。

画像ー60 097-2
NHK・TV放映像をカメラで撮影

それは、‘なぜ、何故?

(つづく)














[2012/10/13 23:29] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
香取神宮と鹿島神宮(その1):事前調査ー3(香取神宮と鹿島神宮の概要)
香取神宮と鹿島神宮の概要

‘神宮’は、‘神社’より`位’が高い?

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1317957268

神社と神宮

1 神社と神宮、どう違うのでしょうか?

神社と神宮の区別はこう考えるとわかると思います。

神社=神様が降りてくるところ。用が済めばお帰りになる
神宮=神様が常駐しているところ

神社の「社」は「やしろ」と読みますが、屋代(やしろ)とも書き、これは結界を表します。結界とは神様が降りてくる場所で、紐などで囲った領域をいいます。家を建てるときに執り行う地鎮祭などで、竹を四隅に配し、紐をかけた光景を見ますが、これが社(結界)です。地鎮祭はここに神様をお呼びして、建物を建てる土地を浄化する行事です。

社は神様が降りてはきますが、用が済めば帰ってしまいます。できればいつもいて欲しいと思うのが人情。そこで、神社にお宮(御屋=おみや)を置くことになります。お宮とは神様の住居。家を提供することで神様に常駐していただくのです。

http://www.tamagoya.ne.jp/potechi/b/archives/2008/01/1155.php

2 神社の称号について教えてください

神社の称号には、「神社」といわれる他に「神宮」「宮(ぐう)」「大社(たいしゃ)」「社」などがあり、各々の神社の由緒に基づいて定められています。

「神宮」という称号は、明治神宮や熱田神宮、平安神宮のように、皇室と深いつながりをもつ神社であるとか、天皇を御祭神としてお祀(まつ)りしている神社に用いられます。ただし、単に「神宮」と称した場合は、伊勢神宮のことをさします(「伊勢神宮」は通称であり、正式な名称は「神宮」です)。

「宮」の称号は、八代宮や井伊谷宮(いいのや)のように、親王をお祀りしている神社に用いられます。 なお、東照宮や天満宮、八幡宮のように慣習的に称号を用いる例もあります。

「大社」の称号は、かつて官国幣社(かんこくへいしゃ)制度があったときには、出雲大社のことをさしました。しかし、戦後になってからは、春日(かすが)大社や住吉大社のようにこの称号を用いる神社が増えました。これらの神社は、いずれも旧社格が官幣(かんぺい)大社、国幣(こくへい)大社の神社です。

「社」の称号は、大きな神社から御祭神を勧請(かんじょう)した神社に用いられ、神明社や天神社などがあります

http://www5e.biglobe.ne.jp/~hikawa-j/situgi/zinjatosaizin/zinzyatos...


(1)香取神宮の概要

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http://www.katori-jingu.or.jp/goyuisyo.htm

香取神宮

香取神宮の御由緒ー2
http://hirohi.cocolog-nifty.com/hirohi1/2008/03/post_2b99.html

鎮座地

千葉県香取市香取1697
※平成18年3月27日佐原市・小見川町・栗源町・山田町が合併し、「香取市」が誕生。
(旧:千葉県佐原市香取1697)

御祭神

経津主大神(ふつぬしのおおかみ)
<又の御名伊波比主命(いはひぬしのみこと)>

例祭日

4月14日 勅祭

御祭神の神話

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左:鹿島祭神 右:香取祭神

皆さんは、出雲の国譲りの神話をご存じでしょうか?
  香取の御祭神経津主大神(ふつぬしのおおかみ)は、この神話に出てくる神様なのです。
 神話の内容は、はるか昔、天照大神(伊勢神宮・内宮の御祭神)が日本の国を治めようとしましたが、荒ぶる神々が争い、乱れていました。
 大御神は八百万神に相談すると、天穂日命(あめのほひのみこと)がすぐれた神であるということで遣わされましたが、  出雲国の大国主神(おおくにぬ しのかみ)に従ってしまったので、次に天稚彦(あめのわかひこ)が遣わされました。 天稚彦もまた忠誠の心なく、 顯國玉神(うつしくにたまのかみ)の娘の下照姫(したてるひめ)を妻として、自ずから国を乗っ取ろうとしましたが、亡くなってしまいました。
 このようなことが二度つづいたので、大御神が八百万神に慎重に相談させると、神々が口を揃えて、経津主神こそふさわしいと申し上げました。 そこへ武甕槌大神(たけみかづちのかみ・鹿島神宮の御祭神)が申し出られたので、 共に出雲に派遣されることになりました。
 経津主、武甕槌の二神は出雲国の稲佐の小汀(いなさのおはま)に着いて十握剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さに突き立て、武威を示されると 大国主神は大御神の御命令に全く異議はありませんということで、平国の広矛(くにむけのひろほこ)を受け取り、二神は日本の国を平定して、大御神の元へ復命されたのです。

御神徳

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古くから国家鎮護の神として皇室からの御崇敬が最も篤く。特に『神宮』の御称号(明治以前には伊勢・香取・鹿島のみ)を以て奉祀されており、中世以降は下総国の一宮、明治以後の社格制では官幣大社に列し、昭和17年、勅祭社に治定され今日に至っています。
 奈良の春日大社、宮城の鹽竈神社を始めとして、香取大神を御祭神とする神社は全国各地に及んでいて、広く尊崇をあつめています。
 一般からは家内安全、産業(農業・商工業)指導の神、海上守護、心願成就、縁結、安産の神として深く信仰されています。さらに、その武徳は平和・外交の祖神として、勝運、交通 安全、災難除けの神としても有名です。

式年神幸祭

神幸祭は毎年4月15日に行われておりますが、12年に一度の午年には15・16日の両日に掛けて盛大理に執り行われます。
元は式年遷宮大祭の名で20年に一度行われていたとされていますが、戦国時代以降、式年遷宮が行われなくなり、替わって12年に一度ずつ神幸祭を行うことになり今日に至ったとされています。
現在、15日は御神輿を中心として氏子数千余名の奉仕員が行列を組み神宮を出発し津宮へと進み、利根川沿いの鳥居河岸より御座船に移り船上祭、ついで鹿島神宮による御迎祭が行われた後、利根川を遡り佐原河口へ御上陸し御旅所に御駐泊。翌16日も同様に行列を組み、市内を巡幸し、陸路を神宮へ還御というかたちで斎行されています。

国宝『海獣葡萄鏡』

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 直径29.6cm、縁の高さ2cm、重量4560g、白銅質の円鏡で、葡萄唐草を地紋とし、唐獅子のつまみを中心に獅子・馬・鹿・麒麟などの獣類や孔雀・鴛鴦・鳳凰・鶏などの鳥類、さらには昆虫などを配しています。

 正倉院御物及び四国大山祇神社の神鏡とを合わせて『日本三銘鏡』と称され、昭和28年に国宝に指定、千葉県の工芸品で唯一の国宝です。

要 石(かなめいし)

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古くより、この地方は大変地震が多く、人々はとても恐がっていました─これは、地中に大きなナマズが住み着いて荒れ騒いでいるのだと。香取・鹿島両神宮の大神様等は、地中に深く石棒を差し込み、大ナマズの頭尾を刺し通されたといいます。当神宮は凸形、鹿島は凹形で、地上に一部を現し、深さ幾十尺と伝えられています。貞享元年(一六八四)水戸光圀公が当神宮参拝の折、これを掘らせましたが根元を見ることが出来なかったといわれています。



http://hirohi.cocolog-nifty.com/hirohi1/2008/03/post_2b99.html
香取神宮 ~ 豆知識編

香取神宮に祀られている神様は、「経津主大神(ふつぬしのおおかみ)」という神様です。

日本書紀によると、この神様は「国譲り」の話の中に出てくる神様です。
どんな話かというと...
はるか昔、天照大神(あまてらすおおかみ)が葦原中国(あしはらなかつくに:地上=日本のこと)を治めようとしましたが、地上では荒ぶる神々が争いをやめず非常に乱れていました。

そこで天照大神は八百万神を集め話し合いを行い、葦原中国の国造りを行った出雲国の大国主神(おおくにぬしのかみ)から地上の国を譲ってもらうため、まず天穂日命(あめのほひのみこと)、つづいて天稚彦(あめのわかひこ)を派遣しますが、いずれも大国主神に従ってしまい、失敗してしまいます。

事態を重くみた八百万神はもう一度慎重に話し合いを重ねた結果、経津主大神が最もふさわしいという結論に達しました。
そこへ武甕槌大神(たけみかづちのかみ・鹿島神宮の御祭神)が申し出で来たので、 二神で出雲に派遣されることになりました。

経津主大神は武甕槌大神と共に出雲国に降臨し、十握剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さに突き立て、国を譲るよう説得します。
結局、大国主神は大御神の命令に全く異議はありませんということで、二神に平国の広矛(くにむけのひろほこ)を差し出し、二神は日本の国を平定することができたとのことです。

その後、二神は国内を巡行し、荒ぶる地上の神々を平定して日本建国の基礎を築いたという、建国の大功神なのだそうです。
そういう神様を祀る香取神宮の御利益は、勝運、開運はもちろん家内安全、産業(農業・商工業)指導、海上守護、心願成就、縁結、安産、交通安全、災難除け等非常に多岐にわたります。

香取神宮の創建は定かではありませんが、言い伝えによると紀元前643年だそうです。
経津主大神は「香取大神」とも呼ばれたりするんですが、こういう古い歴史を持つことに由来するのでしょう。
今でこそ「神宮」と名のつく神社はたくさんありますが、平安時代から江戸時代までは「伊勢神宮」、「鹿島神宮」とこの「香取神宮」の3社のみだったそうです。
この3社をして「三大神宮」と呼ぶこともあります。

伊勢神宮は別格としても、香取神宮は由緒正しき神宮と言えるのではないでしょうか。

香取神宮では年間を通じて様々な祭事が行われていますが、特に大きな祭りは12年に1度行われる「式年神幸祭(しきねんじんこうさい)」でしょう。
毎年4月15日には神幸祭が行われるのですが、12年に1度の4月15日と16日の2日間にわたって行われる行事はかなり大がかりなものらしいです。
約3000人以上に上る人々が昔の装束をまとい、長蛇の行列が香取神宮を出発、佐原の街を練り歩き、船に乗り利根川を渡る。
佐原駅の近くで一夜を明かしたのち、2日目は佐原の諏訪神社、八坂神社を経由して香取神宮に戻ってくるというものらしいです。
前回は2002年に行われたそうなので、次の式年神幸祭は2014年4月、つまり6年後ということになります。



2)鹿島神宮の概要

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http://www.kashimajingu.jp/wp/jingu/jingu01
御由緒

鹿島神社御由緒
遙かな神代の昔、高天原(たかまのはら)の八百万神(やおよろずのかみ)達は、我が国を「天孫(すめみま)(天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御孫)の治める豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」とすることを決められ、これに先立ち、まず国中の荒ぶる神々や夜も昼も騒がしい世の中を言向(ことむ)け平定(やわ)することが先決であると衆議一決しました。

御祭神

鹿島神宮 御祭神
「古事記」「日本書紀」によりますと、武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)は、宇宙自然の創世に成りませる陰陽の神、イザナギ、イザナミの両神より生まれた火の神カグツチより誕生された、とされています。即ち原初の自然創世の頃に成りませる神であります。

宝 物 :直刀

直刀は、数ある鹿島神宮の宝物の中でも随一のものであり茨城県唯一の国宝であります。鹿島の大神が神武天皇に降ろされたふつのみたまのつるぎは、別名平国剣(ことむけのつるぎ)とも言われ、一振すればたちまち国中が平穏になるという霊剣で、この御剣の御力により神武天皇は日本の建国を果たされました。
この御剣は宮中に祀られ、崇神天皇(すじんてんのう)の御代に、大和の国石上神宮に祀られ、現在に至るまで国の鎮めとして崇拝されております。
神として祀られたふつのみたまのつるぎに擬して鹿島の大神の佩力(はいとう)として鍛えられたのが当宮に伝わる直刀であります。
奈良時代に鍛造(たんぞう)されたと推定される直刀のとっての長さは271センチの長大なものであり、鍛錬(たんれん)の完成度、高い技術力には驚嘆させられます。

直刀
ふつのみたまのつるぎ

重要文化財 梅竹蒔絵鞍
重要文化財 梅竹蒔絵鞍

要石(かなめいし)


要石が地震を起こす地底の大鯰(おおなまず)の頭を押さえているから、鹿島地方では、大きな地震がないと伝えられています。

●要石は見かけは小さいが、実は地中深くまで続いている巨岩です。地上の部分は氷山の一角です。
水戸の徳川光圀公(みつくに)が、要石の根本を確かめようと、七日七晩この石の周りを掘りました。でも、掘れども掘れども、掘った穴が翌日の朝には元に戻ってしまい、確かめることできませんでした。さらに、ケガ人が続出したために掘ることをあきらめた、という話が【黄門仁徳録】に伝えられています。
●現在は、要石の下には鯰(ナマズ)がいると言われていますが、始めごろまでは龍(りゅう)がいると言われていました。

鹿島神宮の要石

●万葉集(まんようしゅう)に、香島の大神おおかみ)がすわられたと言う、石の御座(みまし)とも古代における大神奉祭(おおかみほうさい)の岩座(いわくら)とも伝えられる霊石(れいせき)です。
●地震歌を一首
ゆるぐとも よもや抜けじの 要石
鹿島の神の あらんかぎりは



http://hirohi.cocolog-nifty.com/hirohi1/2008/05/post_087a.html
鹿島神宮 ~ 豆知識編

先日鹿島神宮へ行ってきました。
前回報告した訪問編に続き、今回は豆知識編をお送りします。
鹿島神宮に祭られている神様は「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」です。

鹿島神宮 大神

前回の香取神宮のときにも触れましたが、日本書紀に出てくる国譲りの話によると香取の神である「経津主大神(ふつぬしのおおかみ)」の副神として日本の国を平定したのだそうです。
参考 : http://hirohi.cocolog-nifty.com/hirohi1/2008/03/post_2b99.html

ところで、日本書紀と古事記ではこの「国譲り」の話が一部違っているのをご存知でしょうか?
日本書紀では武甕槌大神は経津主大神の副神として出雲の国に降りていきますが、古事記では経津主大神は出てきません。
古事記においては武甕槌大神がこの話の主役であり、天鳥船神(あめのとりふね)を従えて出雲の国に降りていき、大国主命(おおくにぬしのみこと)を説得し、葦原中つ国(地上の国=日本)を平定するのです。
日本書紀と違い、古事記の方では武甕槌大神は主役級の扱いですよね。
まあ、神話なのでそもそもどちらが正しいか論じてもしょうがない気もしますが、同じお話なのに登場人物が違うというのも興味深い話です。
どうしてこうなったのか知っている方いらっしゃったら教えてください。
こういうことから、ここの御利益についても香取神宮と似たようなものとなります。
すなわち、必勝成就、旅行安全、五穀豊穣、殖産、安産、事業の創造、新規開拓、開運等様々な御利益があるそうです。

鹿島神宮本殿とご神木
    ↑鹿島神宮本殿とご神木

鹿島神宮がいつできたかについても、香取神宮と同様定かではありませんが、社伝によると紀元前660年だそうです。

香取神宮が紀元前643年なので、それより17年前ということになります。

かなり眉唾ものですが、関東では最も古い神社ということになるらしいです。
もっともその頃の日本は弥生時代なので、少なくともこんな立派なお社は無い筈ですが...
鹿島神宮の年間行事も約90あるそうなんですが、最も大きなお祭りは12年に1度行われる「式年大祭御船祭」だそうです。
正式には「式年神幸祭」と言うのですが、これって香取神宮で行われるのと同じじゃないですか?
行われる年は午の年ということなので、次回は6年後の平成26年ということになるんですが、これも香取神宮と同じじゃないですか。
それもそのはず、前回は書きませんでしたが、このお祭りは鹿島の神と香取の神が12年に一度会うというイベントなのです。

ただ、ひとつだけ納得いかないのがそれぞれのお祭りが行われる日程。
平成14年の例で言うと、香取神宮が4月15日、16日の2日間だったのに対し、鹿島神宮は9月1日と2日の2日間だったのです。
お互い全く違う日にやっても意味ないじゃん。
わざわざ舟にまで乗って霞ヶ浦(北浦)の沖合で出会うはずなのに、5ヵ月も日程が違うなんてかなりボケボケじゃないの?
っていうか、誰もこのことに関して疑問を持たないのでしょうか?


これで、‘事前調査’は終了!

これだけの予備知識さえあれば、両神宮の重要ポイントは見逃すこともあり得まい。

両神宮の‘パワースポット’は、凸凹の‘要石’が中心かも知れない!

その場所での‘気’を本当に感じる執ることが出来るのだろうか?

(つづく)























[2012/10/11 22:45] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
香取神宮と鹿島神宮(その1):事前調査ー2(レイキとパワースポット)
昨日に引き続き、香取神宮と鹿島神宮(その1):事前調査ー2である。

事前調査なしで、その場に踏み込むという‘暴挙’は、時間の無駄である。意味も判らず‘要石’を見たって多分何の感動もないに違いない!

香取神宮で‘要石’を見せられて‘何これ?’で初めて知って、その後に鹿島神宮へ行って、また‘要石’があることに気付いて、‘ここにもあった~!’では、小学生以下である。

‘宇宙エネルギー’の活用の仕方で‘気功とレイキ’には、その手法に大きな違いがあることは昨日の弊ブログに述べた通りである。

さて、それではお約束通り‘レイキ’とは何か?について・・・。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AD
レイキ

レイキ(靈氣、霊氣、霊気などとも表される)とは、日本発祥の民間療法である臼井靈氣療法が日本国内外で発展し普及した代替医療であり、一種の手当て療法である。国外ではReiki(あるいはRay-Ki)と表され、国によっては[どこ?]医療補助の対象となる。日本国外に伝わった後に日本に逆輸入された系統を「西洋レイキ」と区別することもある。また、臼井靈氣療法が元になっていることを明示するため「臼井」または「ウスイ」を前に付加して表記することもある[1]。
「Reiki」は日本語発祥の言葉として、欧米を中心とする海外で認知度が高い。2001年に発行されたイギリスの辞書「Collins English Dictionary」の新版では、新たに収録する日本語の一つとして、「Ramen」「Bento」「Gaijin」などと共に「Reiki」が選ばれている[2]。
有効性を示唆する研究はあるが、その多くには対照群の設定が適切でないなどの欠陥がある。信頼できる研究の成果によれば、レイキが何らかの病気に有効だとする科学的根拠はない[3]。

概要 [編集]

「西洋レイキ」については臼井甕男の始めた臼井靈氣療法が海外で一部簡略化しつつ独自に発展したものである。臼井の弟子の一人であった林忠次郎からハワイ在住の日系人、高田ハワヨへと伝わったものが主だが、若干の別ルートから伝わったものもあることが判明している。
日本国内では実践者が少なくなっていたが、代替医療の受け入れに柔軟な海外の国々で流行し、1980年代のニューエイジブームと共に逆輸入される形で受け入れられ広まった。

効果としては生命の活性化をはかり、生体内のエネルギー・バランスを調整するとされている。ただし即効性のあるものではない。リラックス効果は高く、レイキを受けながら入眠すると熟睡しやすい。レイキは手のひらを通じてエネルギーが流れるというものである。西洋レイキにおける基本的な施術のやり方は、受け手が横になり施術者が全身の12ヶ所に順に手をあてていく。終了まで約30分から60分。しかしレイキは型にはまったものではないので応用をきかせる等、ある程度は自由なやり方で構わない。受け手側は施術中にもし不快感や尿意などを感じた場合は我慢してはならない。ストレスを感じては本末転倒だからである。レイキの習得に特別な修行は必要なく、誰でも身につけられる。

臼井が創設して今日も続いている臼井靈氣療法學會(臼井霊気療法学会)の内部伝承によると、新宗教の教祖の中には臼井靈氣療法を学んだことがある人が少なからずあるといい、生長の家の谷口雅春や世界救世教の岡田茂吉などの名が挙げられている。
最近の傾向として、民間療法としてだけではなく、実践者の自己啓発、能力開発の一環としても広まりつつある。レイキは宗教ではないが、レイキの教室では自己啓発セミナーのようになっている所がある。
また日本では途絶えていたとされる霊氣の伝授者だが、臼井霊気療法学会が現在も存続していることが判明した上に民間療法として石川県の山口家に残って伝わっていたものが近年になって発見された。山口家への伝授の系列は林忠次郎の直伝ということも資料などから証明され、心身改善臼井靈氣療法・直傳霊気として再度組織編制され広く知られるようになった。

歴史 [編集]

伝承によれば臼井甕男(1865年-1926年)が「wikt:安心立命」の境地を求めて1922年(大正11年)3月に鞍馬山にこもり21日間の絶食を行い、21日目の深夜に脳天を貫く雷のような衝撃を受けて失神し、目覚めた時には治癒能力を得ていたという。それを霊気(靈氣、霊氣)と名付け同年4月東京に「臼井霊気療法学会」を設立。翌年1923年には関東大震災が起きたが、その際には負傷者の手当てに活躍したとされる。1926年に死去。
臼井は霊気の伝授レベルを初伝、奥伝(前期・後期)、神秘伝に分けており、英語ではそれぞれファーストディグリー(レベル1)、セカンドディグリー(レベル2)、サードディグリー(レベル3)またはマスターズディグリー等と訳された。臼井が神秘伝まで伝授した(師範)のは21または20人とされるが、その中の1人海軍大佐、林忠次郎(1879年-1940年自死)は退役後1925年(昭和6年)に治療所を開設「林霊気研究会」を設立した。1935年にハワイ生まれの日系2世高田ハワヨ(1900年-1980年)が日本に帰国した際、重度の難病を林忠次郎のレイキにより完治したことから弟子入り。1938年にハワイを訪れた林忠次郎から神秘伝の伝授を受ける。高田は林から神秘伝を受けた13人のうちの最後の1人となる。
高田ハワヨは1970年まではセカンドディグリーまでしか伝授していなかったが、1970年以降サードディグリーの伝授を始め22人がマスターの伝授を受けた。高田ハワヨの孫、フィリス・レイ・フルモトを含めた21人の所属した「レイキ・アライアンス」、22人のうちの1人であった文化人類学者バーバラ・ウェーバー・レイは1982年に、アメリカン・インターナショナル・レイキアソシエーション(現ラディアンス・テクニーク)を設立してレイキの普及に貢献した。アメリカをはじめ、イギリス、カナダ、スペイン、ドイツ、オランダ、オーストラリア、インド、シンガポール、中南米、台湾、香港など世界各地に広まっている。
日本では一旦廃れるも、1980年代にニューエイジブームと共に「REIKI」として逆輸入の形で広まった。その当時は国内ではセカンドレベルまでの伝授にとどまっており、1990年初めにマスターレベルの伝授が行われるようになった。日本国内のみで続けられている霊気は臼井甕男によって創設され現在も存続している「臼井霊気療法学会」がある。


上記引用文には、‘信頼できる研究の成果によれば、レイキが何らかの病気に有効だとする科学的根拠はない[3]。’と書かれているが、もっと正確には‘科学的根拠はまだ見つかってはいない。’と書かれるべきであろう。

多分、‘レイキ’でも‘気功’でも、何らかの病気に‘直接作用して’その病気を完治させるといった種類のものでなないことは確かである。

‘心身の健康’こそ‘予防医学’であって、‘気功やレイキ’を‘対症療法’の分野で取り上げて‘価値が直接見出せない’という‘論法’は、的を得ていない!

ここに出て来る‘臼井甕男’という人は、以下に示す通り、数々の困難な経験をこなしてきた‘強烈な’人だった。
メジャーにはなっていないが、西洋に伝わって‘逆輸入’されるほどの‘技術’を一人で開発したというから、その修業は命懸けだったに違いない。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%BC%E4%BA%95%E7%94%95%E7%94%B7
臼井甕男

臼井 甕男

臼井 甕男(うすい みかお、1865年8月15日 - 1926年3月9日)は、現在レイキとして世界中に広まっている手当て療法を中心とした民間療法の一種「臼井靈氣療法」(臼井霊気療法)の創始者である。
生誕地は、岐阜県山県郡谷合村(現在の岐阜県山県市)である。
職業は、公務員、会社員、実業家、新聞記者、政治家秘書などさまざまに経験する。
その体験から「人生の目的とは何か」という大命題の探求から、禅の道に入り、真の悟りともいえる安心立命(あんじんりゅうめい)の境地を目指し修行するも、どうしても悟りを得られず、悩みぬいた末に禅の師に相談したところ、
「それなら一度死んでごらん」
と答えられ、「自分の人生も、もはやこれまで」という覚悟を決め、1922年春(3月または4月と、文献によって記載が異なる)に京都の鞍馬山にこもって断食を始める。修行のための断食と言うよりは、死を覚悟してのものだったらしい。

断食に入り3週間目の真夜中ごろ、脳の中心部あたりに落雷をうけたような激烈な衝撃を感じ、そのまま意識不明の状態に陥る。 数時間後、ふと気がつくと夜が明け始めた頃で、心身爽快な気分に満ちて目覚め、その衝撃のときに感じたエネルギーが心身を貫き、体内との共鳴、一体感を達成し、求めていた悟りの境地を完成したことを知る。

悟りが得られたことに喜び勇んで山を降りる途中、石につまづき足の指の爪がはがれ、思わず手を当てたところ痛みが去り、血が止まり即座に治癒してしまったという。そして、山のふもとまで降りてくると、小さな食堂があり、主人が止めるのも聞かず腹いっぱい食べた。主人の孫娘が顔が腫れるほどのひどい虫歯で、頬に手を当てるとたちどころに痛みが引いた。さらに、家族にも試したところ即効的な効果があり、「広く世の中の人にこの力の恩恵を与えたい」との思いから、工夫研究の結果、この能力を他人に伝授し、心身改善に活用する方法を見出す。これが臼井霊気療法という手当て療法の始まりとされる。

1922年4月に指導法などを定めた上で臼井霊気療法学会を設立する。
現在世界中に広まっているレイキは、臼井が養成した21または20人の師範(レイキを他人に伝授できる資格者)の一人林忠次郎がハワイ在住の日系人高田ハワヨに伝授したものが広まったもの。


伝えられるところが‘実話’かどうかは、今となっては調査のしようがないが、何の効果もないということであれば、人々は付いてこない。

まだまだ‘西洋医学’も当時はそれほど高度な技術ではなかったろうし、お薬だって今のように効き目のあるものはなくどんな病気にでも‘葛根湯’の時代であったろうから、‘心の安定’で相対的には‘効き目’のある治療法だったのだろう。

それが、今現在、‘宇宙のエネルギー’という観点から‘見直され始めている’という何と皮肉な現象であろうか!

‘薬を飲まなくなったら病気が癒えた’ともいわれる時代である。対症療法も緊急時には欠かせないが、‘根本療法’が脚光を浴び始めて、‘心の安定’が必要視される時代となった今、‘気功とレイキ’の果たす役目もかなりの重さを持ってきたと言えるのではないか・・・。

食わず嫌い程‘勿体ない’事は無い! 

ものの本によると、臼井 甕男が断食をした‘鞍馬山’は、勿論‘源義経’の訓練・修行の場であったことは夙に有名であるが、‘霊気’の気が立ち込める今で言う‘パワースポット’としても有名な場所らしい。

http://www.gainendesign.com/taizan/kurama/kurama.html
鞍馬・貴船奥の院

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寿命院前にある、護法魔王尊=サナトクマラが650万年前に地上に 降臨したときの様子を表した石庭。 サナトクマラは人類救済の使命を帯びて、金星から天降ったといわれる。
6.5million ys before Sanato Kumara(not Kurama) coming down to the earth from Venus, this tiny garden express so.

kurama12.gif
石灰岩の岩塊に溢れたこの一体に、昔いん石が落ちたとされる。 こうした岩海は非常に珍しい。 魔王殿の本殿がその岩海の真ん中に鎮座し、写真のように周囲は夥しい 石灰岩の巨岩で溢れている。 実際の鞍馬山頂上はさらにこの上にあるのだが、道がなく行けなかった。 おそらく鞍馬山頂上付近にはまた別の巨石があることだろう。
I've never seen such a strange rock garden. A gigantic meteorite, they say, once upon a time fell down to this point. These rocks are all limestone. A meteorite came down to this limestone sea.


さて、‘パワースポット’についての一般認識は次の通りである。博物学者の‘荒俣宏’氏も真剣に検討されているようである。

荒俣宏
http://japan.digitaldj-network.com/archives/51538705.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83
%AF%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%88

パワースポット

パワースポット(power spot)とは地球に点在する特別な“場”のこと。和製英語である為、海外では通用しない[1]。
エネルギースポット、気場とも言う。

概説 [編集]

『世界のパワースポット: 癒しと自分回復の旅ガイド』という本では、パワースポットには人を癒すとされる水があったり、人に語りかけるとされる岩があったり、あるいは磁力を発する断層があったりすると解説されている[2]。
欧米ではボルテックス、vortex、ヴォルテックス(渦巻き)の噴出する地、という概念が有る。セドナ (アリゾナ州)などが有名である。
荒俣宏は、「パワースポットは大地の力(気)がみなぎる場所と考えればよい」と述べ[3]、そもそもパワースポットという言葉こそは新しいが、昔から大地の力を得ようとする試みはあった、と指摘した[3]。荒俣は日本で言えば「熊野三山詣で」がとても古い事例であると説明した[3]。荒俣は、本来なら厳しい修験を行ってはじめて得られる力を、その場所に詣でるだけで得られる、身分性別を問わず得られる、という画期的なものであった[3]とし、ただし何の宣伝もなしに人を集められるわけではなかったので言い伝えが用いられた[3]、同様に伊勢神宮にお参りする「お伊勢参り」でも「修験者しか得られないパワーを性別身分を問わず得られる」と宣伝した、と説明した[3]。 All Aboutでは、パワースポットやスピリチュアルスポットなどと呼ばれるようにもなった場所も、本来は信仰の場であって自然崇拝が行われていた場であったところが多い、とされている[4]。 そういう場所は伝統的に霊場とか聖地sacred placeなどの呼称で呼ばれていた。
宗教学的な見地からは、ミルチア・エリアーデは、自然に対する信仰のうち、山、岩などは天上・地上・地下を結ぶ宇宙軸を、大地や水などは死と再生を象徴するもので世俗生活の根底にあり、それを支える世界観の重要な部分をなしていると分析した[5]。(→#歴史)
荒俣は「パワースポットでは自分なりに大地の気を感じることが大切だ」とした[3]。 ただし、パワースポットを巡って何かと批判も多い(後述)。 →#批判

歴史 [編集]

荒俣宏は、昔から大地の力を得ようとする試みはあった、と指摘している[3]。All aboutでもパワースポットやスピリチュアルスポットなどと呼ばれるようにもなった場所も、本来は信仰の場であって自然崇拝が行われていた場であった、と説明されている[6]。
自然崇拝においては風・雷・雲などのほかに、山・大地・川・湖なども崇拝の対象とされている[7]。地上の場に関しては特に農耕民族ではそうである[8]。山は神聖な場所と見なされ、神霊のすみかと見なされたり同時に死者の国と見なされることが少なくない[9]。日本では富士山、英彦山、白山などの形状が秀麗な山や、雨を降らせると見なされている山(雨降山)、特異な形状や温泉・池などが認められる山などが、古くからそして現在でも崇拝されている[10](山岳信仰)。川や湖の神聖視は特に北米のインディアンの諸族に見られ、水の精や水神が住むところだとされ伝説や神話が数多くある[11]。
日本では、1990年代始めには超能力者を称する清田益章が「大地のエネルギーを取り入れる場所」として「パワースポット」という語を使用した[12]。
2000年代に入ると、大衆向け風水やスピリチュアリズムに対する人々興味が高まった。また神社仏閣などを巡る聖地巡礼ブームが起きた。江原啓之は神社仏閣を「スピリチュアル・サンクチュアリ」呼んでいる。[13]。
2010年8月にはYOMIURI ONLINEで、「特別な力が得られる場所として、日本の全国各地で「パワースポット」と呼ばれる神社や山岳に人気が集まっている。」とされた[14] 2010年9月23日にはNHKハイビジョンで『くまもとの風、大地と天空のミステリー くまもとパワースポット大紀行』という番組が放送され、10月18日(NHKワールドプレミアム)などにも再放送された。 近年ではホットスポットと勘違いしやすい為、あまり使われなくなった。[要出典]

様々な説明 [編集]

パワースポットについての説明は様々である。

風水 [編集]

小林祥晃は、「大地のスーパー・パワー」を題材にしたテレビ番組において、初めて風水にパワースポットという語を使用した、と述べた[15]。 李家幽竹は、パワースポットは20年ごとに気の流れが変わり場所も変動するが神社仏閣は気を長期間留める特殊な建築法をしているのだ、とした[16]。また、パワースポットとみなされるのは神社が圧倒的に多く仏閣は少ないが、これについて若月佑輝郎は、仏閣は人々の悩みや悲しみが集まるためパワーが劣るのだと語った[17] 。小林祥晃は、繁華街もパワースポットであり、パワーに惹かれて人が集まった結果であるとした[18]。御堂龍児は、「(風水における龍穴は)"超能力者や気功をやっている人"が言うパワースポットは別物である」と述べた[19]。

科学風の用語を用いた説明 [編集]

地磁気が強い場所ほどパワーが強いとして、携帯型ガウスメーターでパワースポットの地磁気を計測することはしばしば行なわれる[20]。テレビ番組「奇跡体験!アンビリバボー」では、地磁気は「交流磁気」であり、強い地磁気を浴びること自体がパワーの原因だとした[21]。

佐々木茂美は、地磁気が打ち消しあう場所で「ゼロ磁場」なる状態が発生し、そこに「五次元宇宙」からのエネルギーがもたらされると主張した[22]。伊那市の公式ホームページでは「中国湖北省蓮花山のゼロ磁場を発見した有名な気功師 張志祥により、分杭峠のゼロ磁場が発見されました」としている。[23] 若月祐輝郎は、「断層がぶつかり合うと大気中に電磁波が放出され、それを浴びることにより「暗在系」なる世界からのエネルギーがもたらされる」とした[24]。

伊那市の公式ホームページの説明では、パワースポットでは気の力で放射性崩壊が引き起こされ、放射線が出るため、これが健康に良い、と主張する[25]。

また、楢崎皐月[26][27]が『静電三法』[28]で土壌中の電位差によって土地自体が持つパワーがあるとし、プラスのエネルギーを持つ「イヤシロチ(弥盛地)」とマイナスのエネルギーを持つ「ケガレチ(気枯地)」が存在するとし、ケガレチであっても土壌中に木炭を埋設すればイヤシロチに変えられると記述した[29]。これは後に船井幸雄らが継承し主張した[30]。船井幸雄は「イヤシロチ」にいると筋肉が柔らかくなるので、前屈をしてみればイヤシロチかどうかが分かると主張している[31]。この説はそのまま『水琴の音で、パワースポットをあなたの部屋に』という本のパワースポットの説明に取り入れられている[32]。


これ位の基礎知識があれば、香取神宮&鹿島神宮に赴いて、その場所での‘天からのパワー’と‘地からのパワー’を同時に感じることが出来るに違いない。

(つづく)

次回は、香取神宮と鹿島神宮の‘由来’について






















[2012/10/10 22:15] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
香取神宮と鹿島神宮(その1):事前調査ー1
気功は、‘宇宙のエネルギー’を心身健康のために存分に‘活用する技’である。

気の発見
http://www.amazon.co.jp/gp/product/images/43444069
66/ref=dp_image_text_0?ie=UTF8&n=465392&s=books


従って、当然訓練が必要である。

しかし、訓練の前にその‘宇宙のエネルギー’とは何かについて、きちんとした知識の学習が必要であると同時にそのエネルギーとはどんなものかを‘実体験’することもこれまた大変に重要な課題の一つである。

そんな‘宇宙のエネルギー’なんてものはあるはずがない、と思うのは浅学というものである。

昔から‘パワースポット’と呼ばれる場所がある。こういう‘表現’をすると‘もう付いていけない’という御仁も‘森林浴’といえば、‘そんものがある訳がない!’とは言わない。

森や海岸を散歩したりすれば、‘確実に’気分が違って来る事を‘宇宙のエネルギー’とは意識せずに‘自分自身で体験している’からである。

我々普通のサラリーマンで、30年も40年近くも頑張ってきた人間には、‘宇宙のエネルギー’について考えたり深く研究したりする時間的余裕などなかったのである。

さて、極めて遠い昔、古代ギリシャにおいて盛んだった‘哲学’や古代中国における‘陰陽’というものの考え方、つまり合理的なものの把握の仕方、すなわち‘学問’においては、その手掛かりは‘宇宙のエネルギー’だったことは明白な事実である。

そもそも‘学問’とは、物事、すなわち‘宇宙の成り立ち’や‘宇宙の法則’や‘宇宙&地球上の諸現象’を実際に現れていて確認出来る事実や‘計画された実験’によって知り得た事実をつじつまの合うように論理的に‘整理統一’することであると私は理解している。

‘陰陽’という学問は、「あらゆるものが‘陰’と‘陽’の‘対’からな成り立っている」という‘手法’を採用した。

また、‘哲学’という学問の基本の一つの手法は、「あらゆるものが‘五行’すなわち‘木、火、土、金、水’から成り立っている」という事であったように思われる。古代ギリシャにおいては、既に上記5つの星は発見されていたのである。しかも、これらの5つの星は、普通の恒星とは違う動きをしており、如何にも‘惑っているかのごとき’動きに感じられたから、‘惑星’として‘恒星’とは区別されていた。

http://www6.ocn.ne.jp/~seisan/634/634-36.pdf
21世紀のパラダイム・シフトはアジアから?

東洋では精神と物質は切り離されないものと
してとらえられてきました。中国の「陰陽五行説」
は古代ギリシャ哲学と同じように「水、火、木、金、
土」の五行からなる宇宙生成の理論
であり、かつ人
間道徳の原理でもあったわけです。話を簡単にする
ため、物心一体の概念である中国の「気」について
考えましょう。中国では古代より、気は万物(自然
と人)すべての根源
である
と考えられています。万
物を構成する最小の物質単位(質料)ですがもちろ
ん古代ギリシャの原子説とは異なります。宋学の集
大成である理気論によれば、天地の気は合わさって
一つで太虚(カオス)あり、分かれれば陰陽であり、
あるいは四季となり、五行となるということですか
ら、宇宙が時空方程式の境界条件であるゼロ(無)
から始まるという「ビッグバン理論」とは大きく異
なります。


太陽と月も‘恒星’とは違う動きをするので、やはり当時の学問的分類方法で考えれば‘惑星’という範疇に入れざるを得なかった。

従って、上記5つの惑星+巨大惑星の‘太陽と月’を組み合わせて、暦の‘七曜’が出来上ったのである。

そう言えば、‘地球様’も惑星なのに、何故暦の詳細を決定する際に‘地球’を入れて‘八曜’にしなかったのであろうか?

答えは簡単! ‘天動説’だったからである! 古代ギリシャの‘哲学者’といえども‘自分のこと=地球のこと’は、まさか‘惑星’とは思わなかったという訳である。

現代のこれほど物が判っている時代においても‘己自身のこと’に気がつかない‘偉い人’が多いのは皮肉である!(また、一寸余計なことを!)

さて、またしても‘前置き’が長くなってしまったが、これも‘落語’で言う所の‘まくら’であるのでご勘弁を!

そんな‘和気清麻呂’で、気功を習い始めた連中で、‘宇宙のエネルギー’= ‘気 or 霊気’を体験してみようということに相成ったという次第。

いわゆる‘パワースポット’といわれる場所で、千葉県・茂原市に近い場所は一体どこだろうか?
何度も行って‘宇宙のエネルギー’パワーの存在に気付いておられる我ら気功の先生が‘香取神宮&鹿島神宮’と指定された。誰も不満に思う御仁はいない。

私自身も、そんな意味付けで‘香取神宮と鹿島神宮’を意識したことは無かったので、賛成である。

香取神宮
http://hirohi.cocolog-nifty.com/hirohi1/2008/03/post_2b99.html
香取神宮

鹿島神宮
http://hirohi.cocolog-nifty.com/hirohi1/2008/05/post_087a.html
鹿島神宮


海外旅行の達人と言われる人達も‘事前調査’を疎かにする人が多い。‘名所・旧跡’と言われる観光地は、それなりの深い深い歴史を持つ場所であって、その歴史的意義は、現地でガイドさんがほんの数分で説明する内容で理解出来るものではない。ましてやガイドさんなしでも行けるという‘自称海外旅行の達人’を気取る人達は、‘歴史的感動’よりも‘羨ましがられる’ことを快感に思う‘病気’に罹ってしまった人が多い。

そんな‘揶揄’に負けてないけない!そんなことから‘下調べ’と相成った、という訳である。

‘天のパワー’と‘地のパワー’を陰陽では、前者を‘陽’、後者を‘陰’とする。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD
陰陽(いんよう)とは、古代中国の思想に端を発し、森羅万象、宇宙のありとあらゆる事物をさまざまな観点から陰(いん)と陽(よう)の二つのカテゴリに分類する思想。陰と陽とは互いに対立する属性を持った二つの気であり、万物の生成消滅と言った変化はこの二気によって起こるとされる[1][2][3][4][5][6] 。
このような陰陽に基づいた思想や学説を陰陽思想、陰陽論、陰陽説などと言い、五行思想とともに陰陽五行説を構成した。

原初は混沌(カオス)の状態であると考え、この混沌の中から光に満ちた明るい澄んだ気、すなわち陽の気が上昇して天となり、重く濁った暗黒の気、すなわち陰の気が下降して地となった。この二気の働きによって万物の事象を理解し、また将来までも予測しようというのが陰陽思想である。

重要な事は陰陽二元論が、この世のものを、善一元化のために善と悪に分ける善悪二元論とは異なると言う事である。陽は善ではなく、陰は悪ではない。陽は陰が、陰は陽があってはじめて一つの要素となりえる。あくまで森羅万象を構成する要素に過ぎない。戦国時代末期に五行思想と一体で扱われるようになり、陰陽五行説となった。


西洋の思想にも‘陰陽’の影は残っている。ドイツ語やロシア語では、名詞を‘男女’に分けている。

気功とレイキの違いは何か?

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/quest
ion_detail/q1126779181

気功とレイキの違いを言えば、宇宙エネルギー(と言われるもの)を使わせて頂くのは一緒なのですが、気功の場合、宇宙エネルギーを自らに取り込んで集めて対象物に送るという感じになります。“内気”療法とも呼ばれ、集中力と修練が必要です。

レイキ(霊気)の場合は宇宙エネルギーを通すパイプ役に徹し、対象物に流す感じになります。“外気”療法とも呼ばれ集中力が不要です。
なぜ治るのか?は宇宙エネルギーにより、自己治癒力が高まり、癒しや病気の改善がもたらされるからだと思います。
(私達は、宇宙エネルギーの恩恵を普通の状態でも受けているといえます。療法により、更に受けられるように…という考えです)



霊気とは何か?

日本語WordNet(類語)によれば、以下のように説明されている。

http://thesaurus.weblio.jp/content/%E9%9C%8A%E6%B0%97
霊気

意義素:人や物を包む高まった価値、興味、意味のある雰囲気
類語 :神秘性 ・ 神秘的雰囲気



(つづく)

次回は‘レイキ’についての調査結果を報告する予定。


















[2012/10/09 23:21] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
‘貯蔵栗’と‘あおし柿’
‘貯蔵栗’という栗があるという。つい最近の話だそうだ。

http://www.yomiuri.co.jp/otona/naturallife/03/iba
raki/20120702-OYT8T00452.htm

笠間の「貯蔵栗」を全国ブランドに

低温貯蔵することで数倍に甘みを増した笠間市の特産「貯蔵栗」を全国ブランドとして売り出そうと、茨城県と笠間市、JA茨城中央が、流通大手「イオンリテール」(千葉市)と提携し、「笠間貯蔵栗研究会」を結成した。同社の産地応援企画の一環で、県内では、大子町の花豆「常陸大黒」に次いで2例目。

 茨城の栗の生産量は全国1位。笠間市は代表的産地で知られる。笠間の栗農家は2009年、海外産に負けないよう、高い付加価値のある商品をと、厳選した大粒の栗を零度で1か月間貯蔵して甘みを増す貯蔵栗の生産を始めた。3%前後の糖度は12%に高まり、粉っぽさが消えてねっとりとした食感になった。

 これにイオンリテールが目をつけた。同社は伝統的な食文化を守ろうと産地と組んで農作物のブランド化や加工食品の開発を手がける「フードアルチザン(食の匠)」を展開しており、笠間の栗は10番目となる。

 同社はまず、11~12月、県内14のスーパー・イオンで販売、お歳暮やネット販売のリストにも掲載する予定。販売量は計約2000キロを見込んでいる。

笠間の貯蔵栗
丹精をこめて作った笠間の貯蔵栗をPRする金子さん

江戸時代末期から7代続く笠間市の栗農家でJA茨城中央栗部会長の金子祥一さん(60)は「手塩にかけて育てた自慢の栗。多くの人に食べてもらいたい」と話している。

(2012年7月2日 読売新聞)


価格が気になるところだが、最高級品‘極み’というブランド物で、

‘内容量:1.5kg 価格 3,990円(税込み)’(http://www.ja-ibarakichuou.jp/kiwami-gift%20package.htm

というから、0℃で貯蔵をしない普通の高級栗よりも高い値段である。高級でない普通の栗は、およそ1,000円/kgらしい。ご参考までに。

従来、「栗は新鮮な内に食べないと‘虫’がついてしまう」という常識があった。

開発された切っ掛けについては情報が無い。想像するところでは、新鮮さを失わないようにとどなたかが冷蔵庫 or 冷凍庫にしまわれていて、一ヶ月ほど後に取り出してみたら極めて甘い栗に変身していた、というところだろうか?

‘発明とか発見’というものは往々にしてそんなもんだったりすることが多い。

渋柿についても同様な偶然があったように思われる。「あおし柿」がそうである。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa
/question_detail/q109943850

「あおし柿」の作り方は,渋柿のヘタに焼酎を浸し,袋に20個ほどをいれて完全に密封します。これを3~4日ほど日なたに置いておくと,渋が抜けて甘い柿をいただくことができます。

南九州では、渋を抜いた渋柿のことを「あおし柿」といいます。中国地方や関西では、「あわし柿」と呼んでいるようです。一般に、渋柿の渋抜きには炭酸ガスやアルコールなどが用いられ、これらを加えて密封すると、柿が酸素不足のため正常な呼吸ができなくなり、この際発生するアルデヒドなどの影響で、可溶性タンニンが不溶性に変わって渋く感じなくなるのだそうです。著者の住む町の山あいにある紫尾(しび)温泉では、温泉に浸けて渋を抜く方法が名物になっています。専用の露天浴槽に夕方5時半から翌朝7時半まで、一晩ゆっくりとつかった「あおし柿」は、ほのかな硫黄の香りと独特の甘みがあって人気です。最盛期には、県外から送られてきて入浴する柿もあって、一晩に、1トン(100袋)近くが入浴する日もあります。


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http://www.maff.go.jp/kyusyu/kagoshima/phot/kaki/aoshikaki.html
夕方から翌朝まで、38℃のややぬるめの温泉におよそ15時間かけてつかり、「渋」を抜きます。
入浴料は「柿10kg」400円、「人(紫尾区以外の人)」200円です。(料金は平成19年11月現在)

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http://www.maff.go.jp/kyusyu/kagoshima/phot/kaki/aoshikaki.html

‘温泉に入浴させる’と言えば聞こえがいいが、多分この‘発見 or 発明’の切っ掛けは‘自宅のお風呂’だったのだろう。

‘渋柿’は、干し柿にすると甘くて美味しくなるという‘大発見’とは別に、渋柿の‘しぶ’がひょっとして体にいいのかもしれない、と思ったご仁が、お風呂に入れてみて、翌朝食えるもんではないだろうとは思ったが、食して見たら‘甘く’なっていた。こりゃあ、‘大騒動’だったに違いない。

干し柿ほどの手間はかからないし、考えようによっては、干し柿とはもっと違った独特の風情がある。変なもんで、やはり手間がかからず誰がやっても上手く行くものは‘値段’が安い。したがって、商売にはならない。よって、余り流行らない。

渋柿が手に入れば、この‘あおし柿’の味をもう一度味わってみたい。勿論自宅の風呂に一晩漬けておいて・・。

柿が呼吸する時の‘酸素不足’状態を実現させねばならないとしたら、採れたての渋柿でないと無理なのだろうか?















[2012/10/04 22:45] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
巨大‘きのこ’?
2012年9月24日(月)朝、千葉県・茂原市・千沢の我が家の植え込みで、不思議な‘ボール’状の物体をカミサンが発見した。

画像ー54 001-2

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何でもない普通の植え込みの中である。

ただ単に‘根っこ’もなければ、何の抵抗も感じなかったから、最初見た時には‘発泡スチロール’の‘玉’かと思った。風に吹かれて何処からか飛んできたのだろうと思った。

この市の異常気象には困ったものである。降雨量なしの猛暑が一ヶ月以上も続いたかと思えば、今度は一週間‘豪雨’も含めて長雨である。この一週間~10日間は、10分降れば一時間日照りを繰り返した。

そして、今度は10月の終わりころの気候となって、夜は長袖のパジャマに布団を着ないと寒い位の最低気温が20℃を切ってしまうという‘荒れ模様’である。

植え込みの中から取り出してきて見ると、どうやら‘きのこ’のようである。

‘上面’、‘下面’及び‘横面’を撮影して見た。一見、巨大な‘かぶ’

画像ー54 007-2
上面

直径は約=‘15cm’である。

画像ー54 008-2
下面

画像ー54 011-2
横面

全くの満丸ではないがために、それぞれ形状は異なるものの、それぞれに特徴的なものは見つからない。

‘きのこ’だったら‘根っこ’が有ってもよさそう(?)だが、下面にはそれも見つからない。

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半分に割ってみた。中は一様に真っ白で、‘きのこ’の風体をしている。内部に複雑な‘組織’があるのかも?と予測していたが、全くなし。

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重さを測ってみた。

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入れ物を載せて、‘0g’に設定。

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画像ー54 038-2

大凡、‘300g’である。

直径は約‘15cm’であったから、‘全くの球形’だと仮定すると、体積(V)は、半径(r)と直径(h)とで次の公式で表される事は小学校か中学校で教わった。

V=(4/3)πr³=(1/6)πh³

∴ V(cm³)=(1/6)×(3.14)×(15cm)³=(1/6)×(3.14)×3,375cm³

        =1,766.25 cm³

従って、比重ρ(重さ/体積)は、

ρ = 300g/1、766.25cm³ ≒ 0.1699(g/cm³) ≒ 0.17(g/cm³)

と言う事になって、水の比重の 17% しかなく、おおよそ、水の(1/6)の比重しかないので、完全に水にに浮く。

測定結果のまとめ:

① 重さ:約300g

② 体積:約1,766 cm³

③ 比重(密度):0.17(g/cm³)

④ 香り:きのこの香りがする。強烈な‘臭い’はしない。


さ~て、この‘きのこ’(?)の正体は? ということで、‘ web 'で調べてみた。

あった、あった!2010年の6月、北海道での出来事だそうだ。

巨大きのこ
http://ameblo.jp/angel-loman/entry-10573407969.html
<筆者註)何だか、‘火星の白人’の頭部のようでもある?>

直径約40センチの巨大キノコが、北斗市茂辺地の山下豊一さん宅の庭先に生えた。白く、ぶよぶよして軟らかい。

庭は製材所跡地で、木くずが敷き詰められた状態。妻の光子さんは「しゃれこうべかとびっくりした」が、隣家の久保田スミ子さんが「キノコだべさ」と取り上げた。

函館キノコの会の石垣充一会長によると、ホコリタケ科のオニフスベ。道南での確認例は少なく、「食べられるが、あまりおいしくないと思います」



● ホコリタケ科オ二フスべ

http://www.kinocoya.jp/illust/edible/onifusube.html
onifusube.jpg

名称:オニフスベ
説明:通常球形で、巨大になるとややつぶれた形になります。はじめ白色、柔軟でやや粘性をおびています。肉は充実、弾力のある柔軟な肉質、味、においとも温和。成熟するとにおいが悪く、黄色から黄褐色になり、茶色い水溶液を吐き出し、崩壊していきます。写真は高畠町役場の敷地内で発見したものです。
科目:ホコリタケ科オニフスベ属
学名:Lanopila nipponica
発生:夏から秋、竹やぶ、広葉樹林、草地、ツツジの下などに発生。
見分け方:きのこは巨大なボール状で、白色ですが、のちに成熟して外皮がはがれると茶褐色になります。直径は20~40cmです。
料理:表皮をむいて調理します。はんぺんのような口あたりなので汁物、炒め物などに。ただ、あまりお勧めはしません。



http://www.geocities.jp/kurihara
naoki333/2010.10-1

埼玉県オ二フスべ
畑に生えたオニフスベ・埼玉県本庄市児玉町秋山

職場に、何やら入ったスーパーのレジ袋を持って彼はやってきた。
 意味ありげにちょっとニヤニヤした顔は、その袋の中に何か変わったものが入っていることを物語っている。
 数日前には、昔同僚だったMさんから「畑に妙なソフトボールくらいの白い丸いものがある」という電話をもらったばかりだった。それは大きなホコリタケの仲間の「オニフスベ」ということで片付いたのだが、図鑑には「食える」と書いてあるので、オリーブオイルをしいた鉄板の上で焼いて食ってみたのだった。(Mさんはなじみの日本料理のお店に持ち込み調理してもらって食したという)ところが、これが採ってからずいぶんと時間が経ってしまったためか、とても“美味しい”というものではなかった。それでも、“これは食べ方が悪いのかもしれない”と思い直して、さらにおでんの汁の中に入れて、はんぺんのように食ってみようと試みた。「オニフスベははんぺんのようである」と書かれているのを複数見たり聞いたりしたので、ならばはんぺんのように食ってやろうと思ったのだ。ところが、これは焼いた以上に不味かった。キノコのいやな臭いが増幅された上にオニフスベ自体はゴムのようになって、一口噛んで呑みこむのがやっとだった。確かにどの図鑑を見ても「食える」とは書いてあっても、「美味しい」とは書いていない。体を持って実感である。はたして、プロに調理してもらったMさんのオニフスベはどんな味だったのだろうか。



http://www.a8k.jp/hanagasa/kinoko/076.html
76-4.jpg

ホコリタケ科オニフスベ属Lanopila nipponica (Kawam.) Y. Kobayasi.
 不思議な不思議なキノコ‥名前も不思議だ【どうしてこのような名前になったのかな?】大型のものならカボチャの新種かとでも思うかもしれない。ホコリタケの超大型としてあつかいましょう!といってもやはりピンと来ませんね~しかしこんな目立って、すぐ正体がわかるキノコもそうそうないでしょう!なにしろ見つけたらまず色を見る事。白から茶褐色に変色して行くが、割って中味が白色なら食べ頃ですよ黒ずんできはじめたら不食,イヤー,オニフスベだとわかってしまえばこんなわかりやすく、また料理しやすいキノコもないでしょう!夏から秋、雑木林、タケ林、田畑のあぜみちや庭園と神出鬼没!単生か散生する。径20~50センチ、表面はなめし皮っぽく白色。のちに褐色を帯びてゆくが、食用は白色時。スライスしてゆがいてかわをむき、すき焼.バター炒め.鉄板焼き.とうふ汁.酢の物と、なかなかレパートリーは広く、珍味ですよ


締め括りとしては、ちゃんとしたお堅い情報を!


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A
A%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%B9%E3%83%99

オニフスベ

分類
界 : Fungi
門 : Basidiomycota
綱 : Basidiomycetes
目 : ハラタケ目 Agaricales
科 : ハラタケ科 Agaricaceae
属 : ノウタケ属 Calvatia
種 : オニフスベ C. nipponica
学名
Calvatia nipponica
オニフスベ(鬼燻、鬼瘤、学名:Calvatia nipponica Kawam. ex Kasuya & Katum.)とは担子菌門ハラタケ目ハラタケ科のキノコ。別名:薮玉(ヤブダマ)、他にヤブタマゴ、キツネノヘダマ、テングノヘダマ、ホコリダケなど。江戸時代は、他のホコリタケ類とあわせ馬勃(バボツ)とも呼ばれた。
なお、従来はホコリタケ科オニフスベ属(Lanopila、後にLangermannia)とされていたが、分子系統学に基づく分析の結果、オニフスベ属は廃名とされてノウタケ属に組み込まれ[1]、現在の分類に変更された。

特徴 [編集]

Calvatia nipponicaは日本特産で夏から秋、庭先や畑、雑木林、竹林などの地上に大型の子実体を生じる。一夜にして発生するので驚かれるが珍しいものではない
子実体は白色の球状で、直径は20~50cmにも達し、あたかもバレーボールが転がっているように見える。幼菌の内部は白色で弾力があるが、次第に褐色の液を出して紫褐色の古綿状になる。これはグレバと呼ばれる乾燥した菌糸組織(弾糸)と担子胞子から成る胞子塊である。成熟すると外皮がはがれて中の胞子塊があらわれ異様なにおいを発生する。胞子塊が風に吹かれると次第に弾糸がほぐれて胞子を飛ばし、跡形もなく消滅する。胞子は球状で突起がある。

肉が白い幼菌は皮をむいて調理し、はんぺんのような食感で食用になる。味はうまくもないがまずくもない。
今まで長らく、一夜にして急に発生する特徴からオニフスベの成長を捉えた映像が存在しなかったが、日本テレビの番組『ザ!鉄腕!DASH!!』の企画「DASH村」において、シイタケ栽培記録用に24時間体制で回していた観察カメラが脇にたまたま生えたオニフスベをとらえ、偶然にもその成長の様子を記録することとなった[2]。

近縁種 [編集]

近縁種は地球上に広く分布するが、地域によって別の種に分かれる。
オセアニア、ヨーロッパ、北米、中国に広く分布する種 C. giganteaは、ジャイアント・パフボール("Giant puffball"、「巨大なほこり玉」)と呼ばれる。実際、日本のCalvatia nipponicaは同種と当初は混同されていた。
Calvatia nipponicaはアフリカ、インドに分布する Lanopila wahlbergii Fr. に近縁との説もあったが[1]、lanopilaがノウタケ属に編入された現在では、同属になると思われる。 



さ~て、食べるかどうかは??

とうとう食べてみることとした!


初めての‘オ二フスべ料理である。

まず、オリーブオイルで炒めた後、塩コショウ(クレイジーソルト)での味付けのみ。見るからに美味しそう!

画像ー54 040-2

画像ー54 045-2

食べてみての感想:

① きのこには普通にある‘シャキシャキ感’がない。

② ほのかに‘きのこの香り’のする‘はんぺん’というところ。勿論このオ二フスべ自身には味がないので、味付け調味料次第で、その評価は変わるだろうと思われる。

③ 天ぷらにして、カレー味のお塩で食すれば、きっと合うに違いない!

④ ビールのつまみにピッタリ! 焼酎にも合うに違いない!

そんな訳で、まだ半分は残してある。時間が経つと‘白色’→‘褐色’に変化するそうで、そうなったらもう食べられたものではないそうだから、近々に・・・・。



















[2012/09/24 22:00] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
‘かわせみ’について
我が家の境界線に‘小川’がある。

昨年あたりから、‘かわせみ’が姿を見せ始めた。本当のところは、もう何年も前から‘かわせみ’はこの川っ淵に住み着いていたのだろうが、当の私が昨年ごろから段々仕事に出る回数が減って、‘日中’と言っても日本と中国のことではなく‘ひなか’と言う意味だが、その日中にこの小川付近に‘私が出没する’回数が一段と増えたことによるのかもしれない。

川蝉ー1
http://wasyu.exblog.jp/13328894

この写真は他人様の引用である。

兎に角、2,3日に一度は‘かわせみ’様を拝むことが出来るのである。多い日には2度も3度も出くわすことがある。

いつもカメラを持ち歩いている訳でもないので、まだ私のカメラには収めることが出来ていないのが残念である。
携帯電話では、腰の携帯入れから出そうとする‘その物音’で、一瞬の内に逃げ去ってしまう!

画像ー53 079-2

この小川に‘かわせみ’が出没するのである。

画像ー53 126-2

そして、‘かわせみ’様が‘お止まり’遊ばすのが、二つ上の写真の中央に何故か存在する‘鉄の棒’。これを大写ししたのが上の写真で、その先端には今は‘かわせみ’ならぬ‘赤とんぼ’が止まっている。

この一週間で7,8回は‘面会’している。

画像ー53 099-2

一番上の写真は、何台かある私のPCの一台の待ち受け画面に‘採用’しているくらいの写真で、その‘美しさ’には目を見張っていて、ず~と見ていても見飽きない。

それなのに、‘かわせみ’については何にも知らない! 何故‘かわせみ’と言うのかさえ。

こんな時には、やはり‘ web ' が役に立つ。

いつもの‘ wikipedia ’には次のように解説してある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A
B%E3%83%AF%E3%82%BB%E3%83%9F

カワセミ(翡翠、翡翆、魚狗、川蟬、学名:Alcedo atthis)は、ブッポウソウ目カワセミ科に分類される鳥。水辺に生息する小鳥で、鮮やかな水色の体色と長いくちばしが特徴で、古くはソニドリ(鴗〈「立」偏に「鳥」〉)、ヒスイ、青い宝石と呼ばれることもある。


色々な漢字の書き方があるようだ。‘川蝉’だけは誰でも読めるが、他は読めない! クイズ番組‘タイムショック’にこの漢字が出れば‘宮崎美子さん’辺りは読めるに違いないが・・・。

kawasemi
http://blog.goo.ne.jp/nori_pee/e/52529178dc4553254975aa390ecf2dbe

名前の由来については、

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A
B%E3%83%AF%E3%82%BB%E3%83%9F

名称

カワセミは「川に棲むセミ」の意で、この「セミ」は古名の「ソニ」が「ソビ」に変化し、それが転じて「セミ」となった。その「ソニ」の「ニ」は土の意味で、ソニ(青土)からきた。また、近縁の「アカショウビン」などのショウビンもこの「ソニ」から来た。
カワセミは、それを表す(読む)漢字が沢山ある。川蝉、翡翠、魚狗、水狗、魚虎、魚師、鴗などがあり、川蝉はセミとは関係がなく、「カワセミ」の音を当てた漢字。魚狗、水狗、魚虎、魚師などの漢字はカワセミが巧みに魚を捕らえる様子から来た。



要約すれば、「川に棲む青い土」 が語源ということになる。

更に、書き方が沢山あるらしく、‘鴗’(立扁に鳥)とも書くらしいが、これは流石の‘宮崎美子さん’でも読めないのかもしれない!(でも、やはり彼女は読めるかも?)

‘鴗’と書くところを見ると、川で獲物を取った場合にも‘川を濁さない’のだろうか? ‘立つ鳥は跡を濁さず’というから・・・。

かわせみー2
http://photozou.jp/photo/show/165247/7315839

かわせみ
http://photozou.jp/photo/show/165247/7326398

上記の写真もこれら二枚の写真も‘引用’であるが、実に素晴らしい! こんな写真は恐らく少なくとも‘一週間’は現地で粘らないと撮影出来るものではない!(感謝!)

‘形態’、‘分布’、‘生態’や‘保護’については次のように述べられている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A
B%E3%83%AF%E3%82%BB%E3%83%9F

形態

全長は17cmほどで[4]、スズメよりも大きいが[5]、長いくちばし(嘴峰長3.3-4.3cm[6])のため体はスズメほどの大きさ[7]。日本のカワセミ科のなかでは最小種となる[4]。くちばしが長くて、頭が大きく[4]、頸、尾、足は短い。オスのくちばしは黒いが、メスは下のくちばしが赤いのでオスと区別できる[8]。また、若干メスよりオスの方が色鮮やかである[5][9]。頭、頬、背中は青く、頭は鱗のような模様がある。喉と耳の辺りが白く、胸と腹と眼の前後は橙色。足は赤い[4]。
カワセミは本来は青くなく、光の加減で青く見える。これを構造色といい[10]、シャボン玉がさまざまな色に見えるのと同じ原理。この美しい外見から「渓流の宝石」などと呼ばれる。特に両翼の間からのぞく背中の水色は鮮やかで、光の当たり方によっては緑色にも見える。漢字表記がヒスイと同じなのはこのためである。

分布

ヨーロッパとインド、東南アジアにかけて分布し、広い分布域の中でいくつかの亜種に分かれている。暖かい地方では定住するが、高緯度地方のものは冬には暖かい地域に移動する。日本では亜種カワセミ A. a. bengalensis が生息し、北海道で夏鳥だが、ほかの地域では1年中見ることができる。

生態

海岸や川、湖、池などの水辺に生息し、公園の池など都市部にもあらわれる。飛ぶときは水面近くを速く直線的に飛び、このときに「チッツー!」「チー!」と鳴き声(古い自転車のブレーキ音とも形容される)を挙げることが多い。
採餌するときは水辺の石や枝の上から水中に飛び込んで、魚類や水生昆虫をくちばしでとらえる。ときには空中でホバリング(滞空飛行)しながら飛び込むこともある。水中に潜るときは目からゴーグル状のもの(瞬膜)を出し水中でも的確に獲物を捕らえることが出来る。また、水中に深く潜るときはいったん高く飛び上がってから潜る個体も存在する。捕獲後は再び石や枝に戻ってえものをくわえ直し、頭から呑みこむ。大きな獲物は足場に数回叩きつけ、殺してから呑みこむ。消化出来なかったものはペリットとして口から吐き出す。足場は特定の石や枝を使う事が多く、周囲が糞で白くなっていることが多い。ゴーグル状のものは地上にいるときでも時々見ることが出来る。
繁殖期にはオスがメスへ獲物をプレゼントする「求愛給餌」がみられる。つがいになると親鳥は垂直な土手に巣穴をつくる。最初は垂直の土手に向かって突撃し、足場ができた所でくちばしと足を使って50cm - 90cmほどもある横穴を掘る。穴の一番奥はふくらんでおり、ここに3個 - 4個の卵を産む。 
卵からかえったヒナは親鳥から給餌をうけながら成長し、羽毛が生え揃うと巣立ちする。せまい巣穴の中は当然ヒナの糞で汚れるが、ヒナに生えてくる羽毛は鞘をかぶっており、巣立ちのときまで羽毛が汚れないようになっている。若鳥は胸の橙色と足に褐色味がある。
非繁殖期は縄張り意識が強く、1羽で行動する。水上を飛んだり、えさ場が見渡せる枝や石の上で休む姿がみられる。

保護

日本のカワセミは河川の護岸が進むと巣にできる場所を失い20世紀に著しく減少した。
1992年度(平成4年度)から北海道旭川市で石狩川にかかる秋月橋付近に、カワセミが巣穴を掘り進むための入り口の穴をあけた護岸ブロックが設置され、効果があった[11]。以後、カワセミ営巣ブロックが日本の各地に設けられた。


かわせみー3
http://photozou.jp/photo/show/165247/7326392

こんな凄~い光景には中々出会えない。

勿論、この小川で上の写真のような光景に出会えることは無いが、この小川には、何度も弊ブログで紹介した通り、カニさんが住んでおり、また巨大なオタマジャクシも存在したが、そのオタマジャクシも今は蛙になったようである。

画像ー53 105-2

画像ー53 106-2

そんな訳で、この小川には‘食べ物’は豊富である。

どうか、一日も早く、あの‘止まり木’ならぬ‘止まり鉄棒’に‘かわせみ’様がお止まり戴けますように・・・。
そして、一瞬のシャッターチャンスをお与え頂きますように・・。
















[2012/09/22 12:01] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
「卒意」の真の意味(その2)
「卒意」の書は、通常‘自覚’されているものではない。王羲之の‘蘭亭叙’を除いては。

ここでいう「卒意」とは、「用意」の対語のそれではなく、「作意」の対語のそれである。

全く‘他人を意識する’ことなく、自分自身の世界に‘入り浸っている’状態を指す。

「棟方志功」の、あの‘異常’とも思える‘創作意欲’と‘その行動’をTV動画で一度や二度は皆見たことがあるに違いがいない。

munakata5.jpg
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/munakata.html
『この道より我を生かす道なし、この道をゆく(武者小路実篤)』…この言葉が棟方の座右の銘となった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%9
F%E6%96%B9%E5%BF%97%E5%8A%9F

棟方 志功(むなかた しこう、1903年(明治36年)9月5日 - 1975年(昭和50年)9月13日)は日本人の板画家。青森県出身。20世紀の美術を代表する世界的巨匠の一人。
1942年(昭和17年)以降、彼は版画を「板画」と称し、木版の特徴を生かした作品を一貫して作り続けた。



‘道’と名のつく‘修行’においては、この「卒意」が重要であることを弊ブログで何度も強調した。

何故なら、‘道の修行’においては、‘他人の目’は不要だからである。もっと言えは‘不要’というより‘邪魔’なのである。

一見、‘社会生活・社会通念’からの‘逃避’の様であるが、そうではない。

不思議なことに、その境地に達した人の‘作品’(これはスポーツの場合では、その‘行動’を指す)にしか、人間を感動させる要素がない!

前回、前々回は、王羲之の‘蘭亭叙’が、‘雑念’のない「卒意」状態での‘作品’であると強調させて貰った。

ところが、色々調査して見ると知らないことだらけ。前回の‘卒意の書’の中に出て来た‘本人は意識していなかった’のだが、他人様が‘これこそ「卒意」の書だ!’という書があるらしい。

凄~いブログが見つかった!

keisetulogo.gif
http://www.geocities.jp/suisisu/sotui.htm
書道家・國分溪雪さんのブログである。

‘卒意の書’の第一に挙げられているのは、やはり王羲之の‘蘭亭叙’。

http://www.geocities.jp/suisisu/sotui.htm

率意の書<その1>王羲之の『蘭亭序』・・言葉の陰影
<4世紀六朝時代の人、生没年?東晋という王朝の名門王一族の一員>

rantei.jpg
八柱第三本 (故宮博物院)

この書を見てどんな感じがしますか・・・
『蘭亭序』梗概 
 永和九年癸丑、禊のため群賢が蘭亭に集まった。流暢曲水、一杯の酒一編の詩があれば充分ではないか・・・仰げば宇宙は大、見下ろせば万物が盛んであり、思いを馳せれば視聴の娯しみを極むるに足りる。 そもそも生涯を送るに、胸中を静かにしまう者もあれば、自由奔放に振舞う者もある。人の生き方は無限に異なり静動も同じではないとはいえ、境遇が喜ばしく得意の時は誰しも自分に老いや死が迫っていることなど気づかない。やがて倦怠が訪れ感情は対象とともに移ろい、やるせない感慨が支配する。すべては束の間に過去のものとなるのに、それでもなお気持ちを動かさずにはいられない。まして、生命はついに尽きる・・・ 
 死生はひとつ,7百年生きた人生も,生まれてすぐ死んだ子どもの人生も同じ・・・そんな哲学はもとより偽りに過ぎない。後世の人が我々を見るのも、我らが晋の人々を見るのと同じこと。ここに今日集まった者たちの名を列挙しその作品を収録する。世が異なり変わっても感動の泉は同じ、きっと心を動かしてくれることだろう。
 
 羲之の行書の名品『蘭亭序』、宴後、幾度となく書き直したがこれ以上のものは書けなかったという所謂率意(忽卒)の書として有名だ。彼は、351年地方官への転出を願い出て、右軍将軍会稽内史となり中央を去った。この会稽は現在の紹興市で、彼は40歳半ばでこの地方一帯の長官となったのである。蘭亭は会稽の西南14キロほどの景勝地で、この曲水の宴は永和九年(353年)3月3日に開かれた。この宴の趣向は多くの文人墨客が、流水れに浮かんだ觴(盃)がゆき過ぎる前に詩を作るというもの、この日は42人中15人が罰盃を飲むことになったようだが、残り27人が作った38首が『蘭亭集』として一冊にまとめられた。その序文をその場で書いたのが羲之のこの『序』なのである。彼は中央の役職のチャンスを蹴っている。客観視できる眼を持つといえば良い言い方だが、彼の政治家としての弱さ、陰でもある。早くに父親を亡くしたという生い立ちもあるが、彼の書つまり手紙、文章を読むとある種の屈折(陰)がある。言葉そのものというより言葉の陰り、言葉にならない翳りが書に反映している。つまり、書はその人間の陰影・・・。政治の場面での彼のふるまいの中に、理想やビジョンを持ちながらも成し遂げられない脆弱さが生い立ちと共に書に陰影をおとしている。


率意の書<その2>顔真卿の『争座位稿』・・・剛直という人生の筆致
<中唐の政治家・景竜3年(709年)生、貞元元年(785年)伝没>

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  この書きぶり如何ですか?
『争座位稿』梗概(765年)

・・・ま昼間に人の金を掠め盗るのとなんら変わりはないではありませんか。まったくどおりに合わないことです。君子は礼を以って人に対するのであってその場しのぎで対するなどということは聞いたことがありません。よくよく考えてみて下さい。軍容は仏道を修行し深く仏法を信じていると聞き及んでいます。まして洛陽を回復して逆賊を滅ぼし、天子を戴いた功績があるではないですか。これは官民共に尊敬するところであり、どうしてあなたと相違がありましょうか。その上名利には恬淡、些細なことで一喜一憂することもないあなたが、わずかばかりの地位のことでその志を乱すことがありましょうか。
そもそも年長者を尊び、宗廟では爵位を尊び朝廷では位階を尊びます。人の守るべき道、礼・幼長の序というものがあるのです。・・・・の席次は古来からこういうものでこれまで乱れたことはないのです・・・・

 剛直さゆえに官界生活は順調ではなく、左遷の連続であった顔真卿、その彼が腐敗しきった官吏に抗議した文稿『争座位稿』。56歳の作、官僚の会議での席次を乱した郭英ガイを弾劾する書簡の草稿である。その叩きつけるような書きぶりは、<屋漏痕><蚕頭燕尾>などの言葉でその書の特徴が語られるのだが、まさに政敵を怒鳴りつけている場面が見えるようで力の入った生々しい筆致は、書道史上初めて登場したとも言われる・・・書き手の姿が見えてしまうところが彼の新しさでもあり、醜怪さでもあるところ・・いい意味でも悪い意味でも書は人なり・・・の表現は彼から始まったのである。
 安禄山の挙兵を察知した彼が「文人としての自分は、兵器を以って戦えるものか・・・」と連日呆けてみせていたが、結局、腐りきった権力に截然と立ち向かったのは顔家のみであった。兄と慕う顔杲卿は捕らえられ、舌を抜かれ、手足を切断されても毅然としていたという。これら親族への追悼文である『祭姪稿』は彼の無念を訴えるようにちぢに乱れ、墨で消し書き直した箇所が沢山ある。『争座位稿』『祭姪稿』『祭伯稿』三稿といわれるこれらは、率意の書である故に性情がよく出ているのである。
正義・・・・は必ず負ける。。。世の常?
 既に戦う力のない唐王朝は、玄宗を蜀の国へ逃したが、近衛兵の造反によりさらに悲劇的な最期を迎え、907年唐は滅亡する。国破在山河・・・杜甫は長安をこう詠んだ。王朝の衰退と共に官吏の荒廃夥しく、その中で如何に自分の正義を表現でき得るか、強く憂国の念を抱いていた彼は、単に識者で忠節の人物ではなく、筋金入りの正義の人である。
 最期は徳宗の命を受け、反将の説得に赴きついに賊手に命を落とした。この忠烈悲壮の生涯が、書人としての地位を高く格付けしたのは否めないのも・・・アイロニカル!
    ★空海の『風信帖』はこの顔真卿の影響を明らかにみることが出来る。
次回は率意の書<その3>として『風信帖』を取り上げる予定♪


率意の書<その3> 空海の『風信帖』訣別の予兆?・・・Disparity
<平安時代の思想家・774年生835年高野山にて没>

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<京都護国寺>
宇宙の謎解きのヒント?
「五大(地、水、火、風、空)に韻(ひびき)あり」

風信帖は空海が最澄に贈った尺牘(今は3通)を集め1卷としたもの、最初の尺牘の冒頭「風信」とあるところからこう称ぶ。
<帰朝後の立場の逆転・親密は亀裂の萌芽>
空海と最澄は平安初期の2大高僧で、最澄の方が8歳年嵩だが、初めは極めて密接な交流があった。空海が807年に帰朝すると最澄は、弟子を遣わし唐からの経典を借用したいと申し出たり、812年真言の伝授を請うなど繰り返し願い出をしている。この依頼に対する空海の返書のひとつがこの風信帖であるのだが、しかしその後ふたりには訣別が・・・816年、最澄の申し出拒否の手紙を最後に・・・
さて深い溝とは?(佛教用語が飛び交うような論となり難しすぎ!で、言及できないので抽象論を)
 両者が相入れない訳は、同時代の偉大な宗教家が、絶対に両立し得ない思想を抱いていた点に求められねばならないだろう。共通項がありながら、大乗仏教の真髄を何に求めるかというもっとも困難な究極の課題・・・
 空海の積極的な独創(密教思想の厳しい追求)に対し、新たな形を作り出す方向にではなく、既存の形を壊す方向性という意味で「負の独創」というような、消極的なそれと・・・この負の独創性のあり方に、日本文化の特質を見出すという背景があるためだろうか、空海が孤立して見えたりさえする・・・とまれ、ふたつの独創がぶつかり合った結果といえるのかもしれない・・・・・・

『風信帖』梗概 (812年頃)
うれしいお手紙をいただきました。風に乗り雲に乗り、天から届いたようあります。これを拝読しましたが、まさに雲や霧が晴れ、日の光が射し込むように晴れ晴れとしたものでありました。あわせて天台宗の法文まで頂戴いたし、恐れ多くまた嬉しくて手で触れることこともできぬほどでありました。
寒くなってまいりました。私め、お求めに応じて比叡山の御山に登りたいものだと思ってはおりましたが、その時間がなくてかないませんでした。今にして思うと残念で私とあなたと私の弟子・室山3人が会談して仏法について話し合い、共に仏法の教えを宣べ伝え仏の恩徳に報いたいものと存じております。
できますれば、ご足労ですが、私どもの寺の方へお出かけくださいませんでしょうか。ぜひともぜひとも。不具。空海より。
九月十一日 比叡山におられます最澄様へ


平安初期の能書家嵯峨天皇・空海・橘逸勢を三筆と竝称するが、中でも傑出しているのは、嵯峨天皇の師でもあった空海である。空海が天性の腕を磨いたのは31歳で入唐してからのこと。留学すること2年、唐の都長安で筆法や書論を勉励。空海みずからも「少年時、しばしば古人の遺跡を臨せり」と述べているように、中国の筆跡を臨摸し手習いの稽古をしたようだ。当時の書法の実情から察するに、二王(羲之・献之)のものであったと思われる。しかし、この留学にて当時興りつつあった顔真卿一派の新しい書法を学んで帰国しているのである。二王の風神を得、天衣無縫の妙あり・・・と評され本人もサゾカシ得意の作であろう・・・?(ちなみに弘法は筆を選んでいまーす・・・)



この「卒意」の書に関する‘評価’は、通常の御仁では出来ない。

書の裏にある歴史と諸々の思惑が、必然的にその書に現れるという御指摘である。正に「書は人なり!」

でも、それを‘紐とくことが出来る’実力は、どこから来るのだろうか?

精進の足りなさが、ひしひしと・・・。

まだまだ、沢山の‘「卒意」の書’があるらしい。

(つづく)














[2012/09/18 11:51] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
「卒意」の真の意味(その1)
通常、「卒意」は、「用意」の対語として使われる。

たとえば、次のように‘プレゼンテーション’の‘極意’として「用意」とは違った‘その場の雰囲気に応じての咄嗟の判断での行動に結びつく‘意’である、として‘活用’される‘概念’である。

次の例を見れば、その使われ方が理解出来る。

http://www.fujixerox.co.jp/support/xdirect
/special/future_c/report/re11011.html


さて、最後に菊地氏から紹介していただいた言葉、「用意」と「卒意」をご紹介して本稿を閉じたいと思います。卒意とは、演芸、文芸などで用いられる概念で、用意との対語です。ここでいう用意するとは、客を迎える準備を行ない、空間を演出し、客の登場を待つというように、あらかじめ行なう行為であり、主人が主体となり客を意識するものです

一方、卒意とはその場の雰囲気に応じてとっさに判断・行動することであり、「主人」だけが主体ではありません。「主客一体」になって、相互行為として達成される、というところが最大のポイントであるといいます。

噺家が、膨大な演目を暗記しながら(用意)、何を話すのかは当日の客層を見て判断し、即興的に演目を決めて語り始める(卒意)様子は、用意と卒意の典型といえます。

フューチャーセンターの記憶や記録を残すとという仕事にも、事前の用意とともに、場の中で即興的に生み出されたものや、関係性の中で生まれたものを記録する、卒意の書も重要であることを、菊地氏の言葉は物語っているように思います。

用意と卒意の精神で、みなさんのフューチャーセンターの記憶をとどめる方法論をぜひ発見してみてください。


さらに、次のようにもやはり、ビジネスマンにとって「卒意」が大事だと強調されている。

http://mba.globis.ac.jp/blog/osaka-staff/57.html

プレゼンテーションの名手に学ぶ! ~落語家の「用意」と「卒意」~

落語家が高座に上がるときに大事にすることがあります。
「用意」と「卒意」というものですが、ご存知でしょうか?

茶の湯の「おもてなし」の精神をあらわす言葉なのですが、
「用意」は、お客さまを迎える主催者が事前に行う準備。
「卒意」は、主客一体となって、場をつくりあげること。


この「用意」と「卒意」が落語では極めて重要なのです。

寄席以外の落語会などでは予め演目を開示している場合もありますが、
寄席では通常、どの噺を喋るかは高座で決めます。

なぜなら、寄席の高座に上がって、客層や「まくら」で話す話題の
反応などを見て、その日その時のお客の年齢層や興味、落語の知識レベルに
合った噺を選ぶためです。

客席を見渡す為に、コンサートや芝居などと違って、
寄席や落語会の客席は明るくなっています。
それほどまでに落語家は「用意」と「卒意」を常に意識しています。

この「用意」と「卒意」は我々ビジネスパーソンが
プレゼンテーションを行う際にも極めて参考になりますね。


プレゼンテーションにおける「用意」とは、
 -中身の作り込みをしっかり行い、確認をしておく。
 -プレゼンする相手がどんな人で、どんなプレゼンが求められるか
  イメージし、反論に備えたり、詳細を求められたりした場合に
  対応できるよう準備をしておく、など。

「卒意」とは
 -専門用語を並べ立てたりせず、聴き手のレベルや聴きやすさを意識する。
 -早口にならないようにし、随所に理解しやすいような“間”を作る、など。



一方、「卒意」が「作意」の対語として用いられる場合がある。

‘書道’の場合にこの語が存在することに‘意義’がある。

‘書道’の場合に何故意義があるかというと、それは‘道’を極めようとする場合の‘究極の意識’を示唆しているからである。

この場合の「卒意」こそ、およそ‘道’という名のつく‘修行’には欠かせないもののように思われる。

‘剣道’、‘柔道’然り、‘華道’、‘茶道’これまた然り。

そして、スポーツにおいても然り、と思っている。

この弊ブログで何度も取り上げさせて貰った‘勝つと思うな’の気持ちこそ「卒意」なのである。

この場合の‘卒’は、‘卒業’の意味での‘卒’である。

つまり、「卒意」とは、‘意を卒業した状態’、すなわち、‘見られる、思われると意識しそうな相手’から卒業してしまった状態’を指すのである。

そうすれば、正に‘己の真の姿’が実現する。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B8%E9%
81%93%E7%94%A8%E8%AA%9E%E4%B8%80
%E8%A6%A7#.E4.BD.9C.E6.84.8F

書道用語一覧

率意(そつい、卒意とも)とは、手紙や草稿など書作品としての制作意図を持たずに、自己の欲するまま自由に特色を発揮して書くことをいう。作意に対する語。

作意(さくい)とは、作品の制作意図。率意に対する語。




http://heimatlos.tea-nifty.com/heimatlos/2007/12/post_2062.html
卒意と言うこと

藤原行成について先日の記事で、「かな文字よりも漢文のほうが出来が良く見えたりします。なぜだろう。」と触れた後に

ふと思い立って調べた所、現存する彼の作品の内、明らかな真跡は漢字のもののみだとかで、

やはりなあ、と思った。

彼の手になるとされる作品のうち仮名文字は、

例えば、「上手に見せたい」という気負いや「どうです?私の字は巧いでしょう」という気取りの漂うキザな筆跡だったり、

或いは、

まるでウラナリの坊さんか尼さんが、諸行無常を託ちながらも憂き世の見栄に囚われつつ筆写したような、生気もなければ覇気もない、鬱々とした筆跡だったりする。

あれらが仮名文字の鑑として人口に膾炙していると聞いても、これまで私には、どこがどう良いのか判らなかった。

今般彼の漢字をじっくり眺める機会を持って、あの品の良い豪放さや、健康な精神性がありありと伝わる筆致は確かに稀有だと思ったし、この人物と、あの仮名文字の退屈そうな御仁が同一とは、やはり思えない。

要は、「彼の」仮名に漂うキザな暗さが、漢字には全く無いのだ。

習字を始めた頃の書道の先生や、小学校一・二年の担任の先生から教えられて以来、私も重々自戒していることだけれど、

書に限らず全てにおいて、

卒意とは、極めて難しいが、不可欠の要素だと思わされる。



この作者も「書に限らず全てにおいて」と明言しておられる。流石である!

また、次の引用文献「卒意の書」には、この弊ブログで取り上げた‘蘭亭叙’こそ、この‘卒意’が実践されていると解説しておられる。

書に道を求めて0008-2
小山天舟著 「書に道をもとめて」より

http://members3.jcom.home.ne.jp/sancotei/sancotei/zu_yino_shu.html

卒意の書

 私たちが筆を手にするとき、必ずと言っていいほど、誰かに見せる見られるということを前提に書くものです。書道展や展示会、あるいは競書に出品する作品はもちろんのこと、日常の手紙や署名にしてもそうです。
 人の目に、少しでも上手そうに、きれいに、達筆そうにみられたい。これは誰もが抱くごく自然な心情です。ましてや、「書は人なり」とか「書は心画なり」などと言われれば、なおさら人目を気にしないわけにはいきません。当然、人目を意識して書かれるものは、練習を積み、多くの枚数を費やすことになります。だから、そこには力作が生まれます。
 こうやって書かれた書は、本人の努力のかいあって、字形は整い、線は練れて立派なものでしょう。どこにもスキがなく、失敗もない洗練された書には、確かに感心させられるものです。でもこれは、あくまでもよそ行きの書の姿です。本当の意味での「書は人なり」の書でしょうか。正装し、背筋を伸ばし、行儀を整えるのは、他者に対する姿勢です。それが、平素の自分自身の姿でしょうか。人は絶えず緊張ばかりはしてられません。リラックスして、心を解き放った心身こそ、その人の本来の姿ではないでしょうか。そういう心持ちで書かれた書とは、どういうものなのでしょう。
 かの書聖王羲之は、のどかな春の日に、一族知人を招いて宴遊会を催しました。豊かな自然の中で、酒を飲み、興が乗っては詩を作る。宴は人々を楽しませました。多くの詩ができ、寄せれたところで、王羲之は序文蘭亭序をしたためることにしました。楽しく心地よい酔いにまとわれた筆は、全くの即興で紙面に墨跡を残していきました。書き上げたなら、すぐに見せようという気は無く、後で清書するつもりだったのでしょう。ですから、行間に脱字を書き加えたり、字を消して書き直したりしている部分があります。作品作りという計算などない、自然体の書です。にもかかわらず、同じ文字はすべて字形を変えて表現するという変化の妙を示している所などは、さすが書聖と言われるゆえんでしょう。後日、あらためて清書した王羲之ですが、何枚書いてもうまくいかなかったそうです。あの時の、あの雰囲気の中で、自然に書かされた筆致には及ばなかったのです。きちんと書き上げようという緊張感が、書聖の筆にもプレッシャーを与えたのでしょう。あきらめた王羲之は、ミスのあるのは承知で、我が最良の作として伝え残すことにしました。体裁良く作られた完成品より、失敗は有れども筆勢豊かな作を上としたのです。この王羲之の書に対する姿勢の中に、自然体の書(卒意の書)の価値を見出すことが出来ます。

 このように、作意的意識を持たず、その時の自然な気持ちで書かれた卒意の書なる名品は他にもあります。
 まずは顔真卿。戦争で亡くなった甥の霊を祭った時の祭文の草稿である『祭姪文稿』や、集会で席次を乱した者に対する抗議文の草稿『争坐位稿』が卒位の書です。『祭姪文稿』は、かわいがっていた兄の子に対する悲しみの思いで、『争坐位稿』は、無礼者に対する怒りの気持ちで書かれています。共に、深い感慨を込めて書いたものとはいえ、草稿ですから、王羲之の『蘭亭序』同様、書き加えたり、書き直したりしている部分が見受けられます。両者とも、しかるべき人に渡す書状ですから、きちんと清書したものがあったはずですけれど、それらは残っていません。後世に残る石碑を数多く書いた顔真卿でが、まさか下書きが古典となって伝えられようとは、夢にも思わなかったことでしょう。
 日本の書人のものでは、小野道風の『屏風土代』がそうです。これは、醍醐天皇の宮廷に新調された屏風の色紙形に揮毫を頼まれた道風が、作品の構想を練った際の下書きです。随所に文字の訂正や書き込みなどが見られ、字形を工夫した様子が伺えるものです。その筆致は、実にのびのびとしており、変化にも富んでいます。やはり、本番ではないという気楽さが、筆をここまで走らせたのでしょう。
 以上のように、作意に専念せず、その時折りの素直な気持ちの中で書かれた書は、その人の本質、ありのままの姿を表出させるものです。現実の私たちの世界でも、そんな書には、まずお目にかかることはありません。今という時代にあっては、尚のことでしょう。それだけに、こういった卒意の書を目にすると、筆者の誠の真意をかいま見たようで、嬉しくなると同時に、書人の平素からの技量の高さを知ることができ、感服させられます。あえて、卒意の書を意識的に残した王羲之は別として、顔真卿や小野道風にしてみれば、やや面はゆい気持ちかもしれませんが。
 私たち自身も、何かに出品する場合だけ鍛練するのではなく、日々の日常書でも自ずと実力が発揮できるよう、普段から腕を磨いておく必要があるのではないでしょうか。いつ何時、誰かに卒意の書を見られるかもしれないのですから。その時、軽率の書と思われないためにも。



果たして自分の練習書の中に‘卒意の書’と言えるかもしれないものがあるだろうかと探してみた。

有田紀史雄の卒意の書0001-2

これまでの‘作品’は、やはり‘余所行き’のもの。しかし、この練習書は、‘練習’と思って書いているから‘心構え’が違う! 悪い方(?良い方にかも?)にである。 墨の濃さも違えば、字の途中の‘止め’の部分もきちんとしていない!

しかし、全体の気分は、伸び伸びとしていて書き手が‘硬直’していないことを窺わせる。

昔から、

「練習は、本番のように」 「本番は、練習のように」

と言われていることは、誰でも百も承知である。でもそれが出来ない!やはり、他人を意識しているからなのだろう。

この‘創作日記’にしても自分自身の‘日記’だと認識してはいるが、いざ書き始めると‘誰かに見られるから、もう少し体裁を整えよう!’などという‘雑念’が入り込む。

なかなか‘意図’と‘現実’はマッチングしないものである。

では、「卒意」を心掛けて、例えば、書を書いたり、テニスの試合をしたり、ゴルフをしたりする場合、これホントに「卒意」になっているのだろうか?

そんな意味合いでは、‘家庭の中での言動’は、或る意味では‘裃(かみしも)’を脱いでしまっているから案外「卒意」の状態かもしない。

‘パンツ一つ’、これが「卒意」実践の極意なのかもしれない。


(つづく)















[2012/09/17 22:16] | 学習と文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
王羲之の蘭亭叙について
王羲之の最高傑作は、何と言っても‘蘭亭叙’である。

王羲之・蘭亭叙’472px-Lanting_P3rd
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%
A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Lanting_P3rd.jpg

『蘭亭序』(神龍半印本、部分) (‘序’なのか‘叙’なのかについては、以下の引用文献に詳しい)

我々のようなお習字の段階から中々脱出出来ない程度でも、当然名前は知っているし、臨書の一回ぐらいは行なった事がある。

それはそれでいいのだが、書道の先生からは、この‘蘭亭叙’には‘何らかの経緯’があることも聞いてはいた。そして、肝心なことは、この‘蘭亭叙’を王羲之が書いたのは、彼が‘少々酒に酔っていた’らしい、というのである。

まあ、少しは書道の‘道’に近づきたいと思っている輩にとってはかなりの‘重大事件’である。

そして、もう一つの‘事件’。それは‘蘭亭叙’と言われている書等が、実は‘王羲之の真筆ではない!’という事である。

それに、この‘謎めいた事件’の‘首謀者’が、唐の太宗というから、恐らく事件は複雑に違いない。時の最大の権力者が首謀者であれば、そして国が中国であれば、権謀術策蠢く‘こころ踊る’物語があったに違いない!

だからこそ謎は謎を呼んで、それだけに一層‘王羲之’の名声を高めることにも繋がっているようにも思われる。

こうなればもう web に頼るしかない!

いやいや、素晴しいホームページを発見!ここに王羲之・蘭亭叙の謎めいた物語の全貌が記されている!

書のさんぽ タイトル sanpo
http://members3.jcom.home.ne.jp/syono-sanpo/rantei/kaisetu/kaisetu.htm

蘭亭叙の解説

1 蘭亭叙とは
2 蘭亭叙の評価
3 蘭亭叙の読み
4 蘭亭叙現代語訳
5 蘭亭序か叙か?
6 蘭亭叙の種類
7 蘭亭叙の分類
・ 双鉤填墨について
・ 模本の名品
・ 刻本の名品
8 八柱ってなんだろう
9 蘭亭の真跡は実在?
10 会稽山はどこ
11 王家と蘭亭叙
12 蘭亭叙だましとられる

という‘目次’つきである。

この著者のホームページを開いて頂ければ一目瞭然なのであるが、このオーナーのプロフィールを御紹介しておきたい。40年弱も書道に邁進されている。一つ一つ文献の裏付けがあり、いい加減な情報ではない。

http://members3.jcom.home.ne.jp/syono-
sanpo/jibun/jibun.htm

★ ようこそ ★ m(._.)m
                                        
「書のさんぽ道」にお出かけいただきありがとうございます。
管理人の近藤莊岳です。
 
****年に永年勤めた職を定年退職し、このページを開設したシルバー世代です。

タイトルの「書のさんぽ道」は、書という道を楽しみながら散歩気分で歩いている
けれども時々(しょっちゅう)あちこち寄り道をするとの意で付けてます。

住まいは、武蔵野の面影が残る東京の東久留米市で、市内には黒目川と
落合川という2つの清流が流れる自然豊かな町です。人口は約11万人、

都心から北西へ約24Km。北東は埼玉県新座市、西は東村山市、南は
西東京と小平の2市、北は清瀬市に接しています。(一部市広報より)

趣味は?
以前は、アウトドアー派で、釣り・ゴルフ・スキー等朝早くから遊び歩いてましたが
最近は、今流行のデジタル一眼を肩にあちこち・・・。いずれにせよ遊び大好き人間!

書は?
何気なく始めて、いつしか40年弱。その間各種展覧会の審査員等歴任。
最近は、遊び心で書く小作品と、書いた書を自分で表装し楽しむ。(自己勝手流)      

平成元年 有志を募り書を楽しむ「游墨会」を結成。 毎年池袋で展覧会を開催。
平成21年には、20回記念展を計画中。 
 
H20.8 記   

?? モットー ??
・これを知る者は、これを好む者に如(し)かず。
これを好む者は、これを楽しむ者に如(し)かず。



・物事を知っているだけの人は、その物事の好きな人にはかなわない。
物事の好きな人も、その物事を楽しんでやっている人にはかなわない

結論
何でもいいから楽しんでやりましょう。それが一番!
   
「知之者不如好之者  好之者不如楽之者」      論語より



このプロフィールを拝見して驚いたこと二つ。

①‘モットー’が、昨日弊ブログでご紹介した‘小山天舟先生’のものと同じ! やっぱり達人は同じなのだ!

② お住まいが、‘東久留米市’だそうである。私が日頃から感心・尊敬している書道の達人先生も、実は東久留米市に在住されておられる。何でも門下生は、30名以上だとか。東久留米市には書道の達人がそんなに沢山住んでおられるのだろうか?



さて、王羲之の‘蘭亭叙’について、当面知りたいのは、次の二つの項目である。

<1> 王羲之が、‘ほろ酔い気分で’書いたのは本当か?そうなら、何故それが彼の最高傑作なのか?

<2> 何故、‘真筆’がないのか? ‘太宗の陰謀’とは?

この疑問に答えて頂くためには、時代背景の説明が必要である。特に、関連する人達の生きた年代とプロフィール


(1)王羲之 : (303年~361年)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8
E%8B%E7%BE%B2%E4%B9%8B

王 羲之(おう ぎし、Wáng Xīzhī、303年 - 361年[1])は、中国東晋の政治家・書家。字は逸少。右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれる。本籍は琅邪郡臨沂(現在の山東省臨沂市)。魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の出身である。
曾祖父は王覧(王祥の弟)、祖父は王正、父は王曠(東晋の淮南太守)。子に王玄之(長男)、王凝之(次男)、王渙之(三男)、王粛之(四男)、王徽之(五男)、王操之(六男)、王献之(七男)がいる。子孫に王楨之(徽之の子)、智永らがいる[2]。

業績

王羲之は、書の芸術性を確固たらしめた普遍的存在として、書聖と称される。末子の王献之も書を能くし、併せて二王(羲之が大王、献之が小王)の称をもって伝統派の基礎を形成し、後世の書人に及ぼした影響は絶大なものがある[3]。その書は日本においても奈良時代から手本とされており、現在もその余波をとどめている。
王羲之の書の名声を高めたのは、唐の太宗の強い支持と宋の太宗により編纂された『淳化閣帖』の影響が大きい。王羲之の作品としては、行書の『蘭亭序』が最も高名であるが、王羲之は各体を能くし、『書断』では楷書・行書・草書・章草・飛白の5体を神品としている。中国では多芸を重んじる傾向があり、王羲之の書が尊ばれる要因はここにある。『古今書人優劣評』に、「王羲之の書の筆勢は、ひときは威勢がよく、竜が天門を跳ねるが如く、虎が鳳闕に臥すが如し」[4]と形容されている。
他の作品には、『楽毅論』・『十七帖』・『集王聖教序』・『黄庭経』・『喪乱帖』・『孔侍中帖』・『興福寺断碑』などが見られる。

略歴

王羲之は魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の家に生まれ、東晋建国の元勲であった同族の王導や王敦らから一族期待の若者として将来を嘱望されていた[8]。東晋の有力者である郗鑒の目にとまりその女婿となり、またもう一人の有力者であった征西将軍・庾亮からは、彼の幕僚に請われて就任し、その人格と識見を称えられた。その後も羲之は朝廷の高官から高く評価され、たびたび中央の要職に任命されたが、羲之はそのたびに就任を固辞した。友人の揚州刺史・殷浩による懇願を受け、ようやく護軍将軍に就任するも、しばらくして地方転出を請い、右軍将軍・会稽内史(会稽郡の長官、現在の浙江省紹興市付近)となった。
羲之は会稽に赴任すると、山水に恵まれた土地柄を気に入り、次第に詩、酒、音楽にふける清談の風に染まっていき、ここを終焉の地と定め、当地に隠棲中の謝安や孫綽・許詢・支遁ら名士たちとの交遊を楽しんだ。一方で会稽一帯が飢饉に見舞われた時は、中央への租税の減免を要請するなど、地方行政にも力を注いでいる。
354年、かねてより羲之と不仲であった王述(琅邪王氏とは別系統の太原王氏の出身)が会稽内史を管轄する揚州刺史となる[9]。王羲之は王述の下になることを恥じ、会稽郡を揚州の行政機構からはずすよう要請したが却下された。王述が会稽郡にさまざまな圧力をかけてくると、これに嫌気が差した王羲之は、翌355年、病気を理由に官を辞して隠遁する。官を辞した王羲之はその後も会稽の地にとどまり続け、当地の人士と山水を巡り、仙道の修行に励むなど悠々自適の生活を過ごしたという。



(2)褚遂良: (596年~658年)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A7%E9%81%82%E8%89%AF
褚遂良(ちょ すいりょう、596年 - 658年)は唐代の政治家、書家。初唐の三大家の一人。字は登善。河南県公から河南郡公に封ぜられたため褚河南と呼ばれることもある。太宗に仕えて諫言をよくし、後の高宗の教育にもあたった。しかし武則天を皇后に立てることに反対したために左遷された。

経歴

褚亮の子として生まれた。本貫は杭州銭塘県。617年、薛挙が自立すると、その下で通事舎人をつとめた。618年、父とともに唐に降り、秦王府(太宗即位前の幕府)の鎧曹参軍(武器の管理役)となった。636年、秘書郎から起居郎となり、また虞世南が死去したことで魏徴の推薦により書道顧問となった。644年、諫議大夫から黄門侍郎へと進み、太宗に深く信頼された。太宗の後継問題に際しては李治(後の高宗)を推薦して、皇太子となった李治の傅役を任された。
649年、太宗が死去するに際しては高宗を補弼するよう遺詔を賜り、どのような事があっても死刑は免ずると言う権利を得た。高宗即位後、高宗の信頼も受けて中書令から尚書右僕射へと累進し、長孫無忌・李勣・于志寧と共に重鎮となっていた。しかし、655年に高宗が武照(武則天)を皇后に立てることを建議し、褚遂良は強硬に反対したが、武則天と高宗により押し切られた。このことにより武則天の恨みを買い、死刑に処されかけたが、遺詔により死刑は免ぜられた。その代わりとして潭州都督、桂州都督と左遷され、最終的に愛州(現在のヴェトナム中部)にまで流され、そこで死去した。
子に褚彦甫・褚彦沖がいたが、ともに愛州に流されて殺された。705年に褚遂良の一家は名誉回復されて、爵位を戻された。

書風(「褚法」)

褚遂良・拓本 Chu_Suiliang_Sheng_Jiao_Xu0
『雁塔聖教序』(部分、拓本)

六朝期から発展しつつあった楷書を高度に完成させた南派の虞世南・北派の欧陽詢の書風の特徴を吸収・融合しながら、それを乗り越えて独自の書風(「褚法」)を確立した。特に晩年の『雁塔聖教序』は楷書における最高傑作の一つとされ、後の痩金体につながるなど後世に多大な影響を与えた。一般に力強さが特徴的な北派に属するといわれるが、結体は扁平で安定感のある南派の性質を併せ持っており、従来からの帰属論争はあまり重要性を持たないように思われる。また王羲之の真書鑑定職務についており、その書をよく学んだと思われる。40代における『伊闕仏龕碑』や『孟法師碑』には隷書の運筆法が見られ、そして線は細いながらも勁嶮・剛強と評される一方で、50代における『房玄齢碑』や『雁塔聖教序』では躍動的で流麗な作風に一変した。
遂良の書は結体閑雅で悠揚迫らず、変化の多様と情趣の豊かな点では初唐の三大家の中でも最も優れている。



(3)唐の太宗: (599年~649年)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A
4%AA%E5%AE%97_(%E5%94%90)


太宗170px-TangTaizong

太宗(たいそう)は、唐朝の第2代皇帝(在位:626年9月4日 - 649年7月10日)。兄の李建成を殺害し皇帝に即位した。唐王朝の基礎を固める善政を行い、中国史上最高の名君の一人と称えられる。

経歴

即位前

4歳の頃、父・李淵をある書生が訪れた際に李世民を見て「龍鳳之姿、天日之表、其年几冠必能済世安民」(「龍や鳳凰の姿を有し、成人後は世の中を治めて民衆を安心させるだろう」(『新唐書』本紀第二による)と言った。そのため世民という諱がついたというエピソードが伝えられている。16歳のとき、隋の煬帝が雁門において突厥に包囲されると、李世民は雲定興の下で従軍し、煬帝救出に尽力した。また李淵が歴山飛の包囲下に置かれたときは、軽騎を率いて救援した。
617年(大業13年)、李淵が太原で起兵すると、李世民は右領軍大都督・敦煌郡公となって長安に向けて進軍した。宋老生を撃破し、長安を平定すると、秦国公に封ぜられた。618年(義寧2年)1月、右元帥となり、3月には趙国公に改封された。
同618年(武徳元年)5月、唐が建国されると、6月に李世民は秦王に封ぜられ、尚書令に任じられている。唐