博多の印象印象(その11):東公園の日蓮さん
昨年の終わり近くに博多へ行った・・・。

この地は、私の青春時代約8年間を暮らした懐かしい場所である!
指折り数えてみれば、昭和34年から8年間だから、およそ50数年も昔である・・・。
その間に何度も訪ねてはいるが、仕事でトンボ返りの繰り返しだったから、落ち着いて懐かしい場所を訪ねることはなかった!

と言う事は、今日ご紹介しようと思っている‘東公園の日蓮さん’にも50数年振りに会う事だったのである。

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE
日蓮(にちれん、貞応元年(1222年)2月16日[1][注釈 1] - 弘安5年(1282年)10月13日)[注釈 2]は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗[注釈 3]・法華宗の宗祖。滅後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈された。

生涯[編集]

年譜形式の経歴は推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2015年9月)
1222年(貞応元年)2月16日 (旧暦)(3月30日/4月6日)安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市)の小湊で誕生[2][3]。幼名は「善日麿」であったと伝えられている。父は三国大夫(貫名次郎(現静岡県袋井市貫名一族出自)重忠)、母は梅菊とされている[注釈 4]。日蓮は『本尊問答抄』で「海人が子なり」、『佐渡御勘気抄』に「海辺の施陀羅が子なり」、『善無畏三蔵抄』に「片海の石中の賎民が子なり」、『種種御振舞御書』に「日蓮貧道の身と生まれて」等と述べている。
1233年(天福元年)清澄寺の道善房に入門。
1238年(暦仁元年)出家し「是生房蓮長」の名を与えられた(是聖房とも)。
1245年(寛元3年)比叡山・定光院に住し、俊範法印に就学した。
1246年(寛元4年)三井寺へ遊学。
1248年(宝治2年)薬師寺、仁和寺へ遊学。
1248年(宝治2年)高野山・五坊寂静院へ遊学[注釈 5]。
1250年(建長2年)天王寺、東寺へ遊学。
1253年(建長5年)清澄寺に帰山。
1253年(建長5年)4月28日(5月26日/6月2日)朝、日の出に向かい「南無妙法蓮華経」と題目を唱える(立教開宗)。この日の正午には清澄寺持仏堂で初説法を行ったという。名を日蓮と改める。中院・尊海僧正より恵心流の伝法灌頂を受ける[注釈 6]。
1254年(建長6年)清澄寺を退出。鎌倉にて辻説法を開始。
1257年(正嘉元年)富士山興法寺大鏡坊に妙法蓮華経(法華経)を奉納[5]。
1258年(正嘉2年)所伝によれば、この年実相寺にて一切経を閲読[6]。この頃、請われて門下とした弟子に日興との名を授け、伯耆房とする[7][8]。
1260年(文応元年)7月16日(8月24日/8月31日)立正安国論を著わし、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送る[注釈 7]。安国論建白の40日後、他宗の僧ら数千人により松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされるも難を逃れる。
詳細は「松葉ヶ谷#松葉ヶ谷法難」を参照
その後、ふたたび布教をおこなう。
1261年(弘長元年)5月12日、幕府によって伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)へ配流(伊豆法難)。
詳細は「蓮着寺」を参照
1264年(文永元年)安房国小松原(現在の千葉県鴨川市)で念仏信仰者の地頭東条景信に襲われ、左腕と額を負傷、門下の工藤吉隆と鏡忍房日暁を失う。
詳細は「小松原法難」を参照
1268年(文永5年)蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となる。日蓮は執権北条時宗、平頼綱、建長寺蘭渓道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫る。
1269年(文永6年)富士山に経塚を築く[9]。

佐渡へ向かう前に滞在した地に建つ日蓮聖人獅子吼の銅像(新潟県長岡市寺泊・法福寺)[10]
1271年(文永8年) 7月 極楽寺良観の祈雨対決の敗北を指摘。 9月 良観・念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴える。 平頼綱により幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越龍ノ口刑場(現在の神奈川県藤沢市片瀬、龍口寺)にて処刑されかけるが、処刑を免れる[注釈 8]。このとき四条金吾がお供をし、刑が執行されたならば自害する覚悟であったと記録されている。
詳細は「龍口#歴史」および「龍口寺#縁起」を参照
10月 評定の結果佐渡へ流罪。流罪中の3年間に『開目抄』、『観心本尊抄』などを著述。また法華曼荼羅を完成させた。日蓮の教学や人生はこれ以前(佐前)と以後(佐後)で大きく変わることから、日蓮の研究者はこの佐渡流罪を重要な契機としてその人生を二分して考えることが一般的である[11]。
1274年(文永11年)春に赦免となり、幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれるが、日蓮は「よも今年はすごし候はじ」(「撰時抄」)と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する3度目の諌暁をおこなう。「富木殿御書」「日蓮聖人註画讃」によれば、5月7日には身延一帯の地頭である南部(波木井)実長の招きに応じて波木井郷(身延入)へ配流。身延山を寄進され身延山久遠寺を開山。
1274年(文永11年)、蒙古襲来(文永の役)。予言してから5か月後にあたる。
1277年(建治3年)9月、身延山山頂からの下山中、日蓮がお弟子一同に説法をしていた。それを聞いていた七面天女がその場の皆に自己紹介をし、さらに龍の姿となって隣の七面山山頂へと飛んで行き一同を驚かし、感激させたという伝承が残される。
1279年(弘安2年)9月21日、駿河熱原の神四郎等20人が滝泉寺行智等に讒せられ鎌倉に送らる。
1281年(弘安4年)蒙古軍再襲来(弘安の役)。
1282年(弘安5年)
9月8日(10月10日/10月17日)、「日蓮聖人註画讃」によれば、日蓮は病を得て地頭・波木井実長の勧めで実長の領地である常陸国へ湯治に向かうため身延を下山。10日後の弘安5年9月18日、武蔵国池上宗仲邸(現在の本行寺)へ到着。池上氏が館のある谷の背後の山上に建立した一宇を開堂供養し長栄山本門寺と命名。
10月8日(11月9日/11月16日)、死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定める。この弟子達は、六老僧と呼ばれるようになる[注釈 9]。
10月13日(11月14日/11月21日)辰の刻(午前8時頃)、池上宗仲邸にて入滅。現在、大本山池上本門寺となっている。享年61(満60歳)[注釈 10]。
 10月25日、「日蓮聖人註画讃」によれば、日蓮の遺骨が身延山に送られる。

思想[編集]

遺文[編集]
日蓮は大量の書簡を自筆して弟子や信徒たちに発送し、日興と日目と日常と日頂などの信徒や弟子達もこれを書写し大切に保管したため、現在でも真筆とみなし得る著作や書簡、断片は600点を越える[12] 。

守護国家論(しゅごこっかろん)1259年
災難興起由来(さいなんこうきゆらい)1260年
災難対治抄(さいなんたいじしょう)1260年
立正安国論(りっしょうあんこくろん)[13]、1260年
顕謗法抄(けんほうぼうしょう)1262年
法華浄土問答抄(ほっけじょうどもんどうしょう)1272年
八宗違目抄、1272年
開目抄(かいもくしょう)1272年
真言諸宗違目1272年
祈祷抄(きとうしょう)1272年
如来滅後五五百歳始観心本尊抄(にょらいのめつご、ごごひゃくさいにはじむ、かんじんのほんぞんしょう)1273年
顕仏未来記(けんぶつみらいき)1273年
小乗大乗分別抄、1273年
木絵二像開眼事、1273年
法華取要抄(ほっけしゅようしょう)1274年
神王国御書、1275年
種種御振舞御書、1275年
撰時抄(せんじしょう)1275年
報恩抄(ほうおんしょう)1276年
四信五品抄(ししんごほんしょう)1277年
諫暁八幡抄(かんぎょうはちまんしょう)1280年
三大秘法禀承事[14][15](さんだいひほうほんしょうじ[16]、さんだいひほうぼんじょうのこと[17])1282年(但し、真偽両説あり[18][19]。)
唱法華題目抄(しょうほっけだいもくしょう)
本尊問答抄(ほんぞんもんどうしょう)
兄弟抄
下山御消息(しもやまごしょうそく)
他四百余篇。

立正安国論[編集]
詳細は「立正安国論」を参照
日蓮が文応元年(1260年)7月16日[注釈 11]に得宗(元執権)北条時頼に提出した文書が立正安国論である。日蓮は、相次ぐ災害の原因は人々が正法である法華経を信じずに浄土宗などの邪法を信じていることにあるとして対立宗派を非難し、このまま浄土宗などを放置すれば国内では内乱が起こり外国からは侵略を受けると唱え、逆に正法である法華経を中心とすれば(「立正」)国家も国民も安泰となる(「安国」)と主張した。

その内容に激昂した浄土宗の宗徒による日蓮襲撃事件を招いた上に、禅宗を信じていた時頼からも「政治批判」と見なされて、翌年には日蓮が伊豆国に流罪となった。この事は「教えを広める者は、難に遭う」という『法華経』の言葉に合う為、「法華経の行者」としての自覚を深める事になった。

しかし、時頼没後の文永5年(1268年)にはモンゴル帝国から臣従を要求する国書が届けられて元寇に至り、国内では時頼の遺児である執権北条時宗が異母兄時輔を殺害し、朝廷では後深草上皇と亀山天皇が対立の様相を見せ始めた。

日蓮とその信者は『立正安国論』をこの事態の到来を予知した予言書であると考えるようになった。日蓮はこれに自信を深め、弘安元年(1278年)に改訂を行い(「広本」)、さらに2回『立正安国論』を提出し、合わせて生涯に3回の「国家諫暁」(弾圧や迫害を恐れず権力者に対して率直に意見すること)を行った。

一谷入道御書[編集]
「元寇」を参照
文永の役の際の元・高麗連合軍による対馬侵攻について、現在伝世されている日蓮の書簡のうち、建治元年五月八日付のいわゆる「一谷入道御書」に、日蓮が接した当時の伝聞が伝えられている[20] 。

(前略)去文永十一年(太歳甲戌)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者カタメテ有シ、総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)
この「一谷入道御書」は日蓮が佐渡配流中に世話になっていた一谷入道の女房に宛てて文永の役の翌々年に書かれたもので、その後段部分に文永の役における対馬の被害について触れたものである。これによると蒙古軍は上陸後、宗資国(総馬尉)以下の守護勢を撃退し、島内の民衆を殺戮、あるいは生捕りにしたりしたうえ、さらには捕虜としたこれらの住民の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、紐か縄などによってか不明だがこれを貫き通して船壁に並べ立てた、という話を伝えている。ただし、後段にもあるように、日蓮のこの書簡にのみ現れ、「手ヲトヲシテ」云々が実際に行われたことかどうかは詳らかではない。

その他の書簡における蒙古襲来についての記載[編集]
日蓮自身、「一谷入道御書」以降の書簡において何度か文永の役での被害について触れており、その度に掠奪や人々の連行、殺戮など「壱岐対馬」の惨状について述べており、朝廷や幕府が日蓮の教説の通り従わず人々も南無妙法蓮華経の題目を唱えなければ「壱岐対馬」のように京都や鎌倉も蒙古の殺戮や掠奪の犠牲になり国は滅びてしまうとも警告している。

例えば、建治二年閏三月五日に妙密に宛てた「妙密上人御消息」には、「日本国の人人は、法華経は尊とけれとも、日蓮房が悪ければ南無妙法蓮華経とは唱えましとことはり給ふとも、今一度も二度も、大蒙古国より押し寄せて、壹岐対馬の様に、男をは打ち死し、女をは押し取り、京鎌倉に打入りて、国主並びに大臣百官等を搦め取、牛馬の前にけたてつよく責めん時は、争か南無妙法蓮華経と唱へさるへき、法華経の第五の巻をもて、日蓮が面を数箇度打ちたりしは、日蓮は何とも思はす、うれしくそ侍りし、不軽品の如く身を責め、勧持品の如く身に当て貴し貴し」と記している[21]。

しかしながら、近年の研究によると、「一谷入道御書」以降の書簡では文永の役における壱岐・対馬などでの被害や惨状について幾度も触れられているものの、「捕虜の手に穴を開けて連行する」という記述は「一谷入道御書」以降の日蓮の書簡において類する言及は見られないため、文永の役での情報が錯綜していた時期に、あまり根拠のない風聞も書簡中に書かれたのではないかという推測がされている[22]。

四箇格言[編集]
詳細は「四箇格言」を参照
日蓮は鎌倉に現れ辻説法と「諌暁八幡抄」などで他の仏教宗派を批判した際、四箇格言(しかかくげん)を述べた。真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊の四つを謂う。ただし、自身はこれを四箇格言とは命名していない[23]。

立宗感[編集]
自身は法華宗の僧と称していた[24]が、一宗派を立てたという自覚に関しては有無両説ある。すなわち、有は「〔佐渡流罪時代に〕自身の純正法華宗を組織すべくも決意された」とする(勝呂信静 1967, p. 53)、無は「然るに日蓮は何の宗の元祖にもあらず」(『妙密上人御消息』[25])を根拠とした(宮崎英修 2013, p. 30)、もしくは「法華宗は〔略〕久遠実成の本仏たる釈尊によって立てられた〔と日蓮は主張した〕」とする(金岡秀友 1979, p. 230)である。


http://www.bekkoame.ne.jp/~gensei/ten/toukou.html
日蓮上人像
福岡市東公園の元寇記念館のすぐ前に日蓮上人像がある。 日蓮上人像が完成したのは1904年11月日露戦争がはじまった年である。 日蓮は1286年正月、国難到来の予言が的中したことを述べ禅宗を批判した。さらに執権になったばかりの北条時宗に「立正安国論」を上進した。
日蓮上人像の高さは台座を含めて約23メートルあり、台座には八面の元寇パノラマが銅版に鋳出されている。これを製作したのは横浜生まれの矢田一嘯で、彼は1893年ごろに福岡に定住し、元寇パノラマ画の製作活動を行なった。博多人形師・白水六三郎を育てたことでも知られている。


(つづく)
[2018/01/10 23:52] | 想い出 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
梅一輪・・・!
‘梅一輪’と言うと、やはり下の俳句を想い出す。

https://blogs.yahoo.co.jp/sakuramitih26/63407585.html
**************** 名歌鑑賞 ****************

梅一輪 一輪ほどの 暖かさ   
                 服部嵐雪

(うめいちりん いちりんほどの あたたかさ)

意味・・梅が一輪だけ咲いた。まだ冬だけれども、どこか
    にほんの少し暖かさが感じられるようで、春の訪
    れがま近いと思われる。

    寒中にわずかながら春のいぶきを感じとって、梅
    の一輪に春への期待を詠んでいます。

    この句は「梅一輪。一輪ほどの・・」と切られて
    いるのだが、「一輪一輪ほどの・・」と続けて読
    んで「一輪つづ開くに連れて次第に暖かさを増し
    てくる」と解釈も出来ます。


作者・・服部嵐雪 =はっとりらんせつ。1654~ 1707。
    芭蕉に師事。

出典・・句集「庭の巻」(笠間書院「俳句の解釈鑑賞事典」)


残念ながら、私はこの句を学校で教わっていながら、

「梅一輪 一輪ごとの 暖かさ」

と覚えていた!

私が勘違いで覚えていた、上記の通り「一輪ごとの」と詠めば、時間経過が詠まれていることになる。

と言う訳で、全く別の句になって‘優劣’をつけるとすると、さて「俳句の才能査定ランキング」で有名な‘夏井いつき’先生の判定は?

さて、冬のど真ん中の今日、2018年1月9日の朝、房総半島・茂原市付近は異常な気温に見舞われた!?

①Screenshot_20180109-154342-2

以下の写真を撮ったのは、12時過ぎだったので、気温は既に18℃くらいにはなっていたに違いない!

これが、我が家の借景の‘Kさん家’の梅の樹である。

②DSCN5714-2
③DSCN5715-2
④DSCN5740-2

見たところ、一輪の花も咲いていない!
下の写真の通り、梅の樹の幹には独特の‘花’のように見える‘うめのきごけ (梅の木苔)’が・・・。

https://www.weblio.jp/content/%E6%A2%85%E3%81%AE%E6%9C%A8%E8%8B%94
●わが国の本州、岩手県以南の主に太平洋側から四国、九州に広く分布しています。低山地の木の幹や岩などに着生し、灰緑色の紙のようなかたちです。必要な水分や養分は空気中から取り入れています。「うめのきごけ」はとくに二酸化硫黄濃度に敏感で、大気汚染が進むと生育できません。そのため大気汚染の指標植物にもされています。また着生した枝は、お正月の生け花にも利用されます。


と言う事は、我が家の付近は、大気汚染がない、と思っても良いことになる・・・。

⑤DSCN5743-2
⑥DSCN5745-2
⑦DSCN5745-3
⑦DSCN5745-4

誠に見事な‘うめのきごけ (梅の木苔)’である!

さて、肝心な‘梅一輪’は?

⑧DSCN5738-2
⑨DSCN5738-3
⑩DSCN5738-4

蕾は、もう相当大きくなっているのだが・・・。

あった!あった!たった一輪だけ!

⑪DSCN5724-1
⑫DSCN5724-2

別の角度から・・・。

⑬DSCN5730-2
⑭DSCN5730-3
⑮DSCN5730-4

今年、2018年最初の我が家の借景梅の‘一輪’である!
さて、さて、満開はいつ頃?

(つづく)
[2018/01/09 17:18] | 季節の変り目 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
枯れすすき・・・。
この歳(78歳)になると‘枯れ’とつくものに‘親しみ’さえ感じ始めた!

自分とどこかで重なるからだろうか?

これまでは、‘枯れすすき’等には興味のなかったが、最近は「ご苦労様!」と言いたくなるから不思議である!
そして「この先、この‘枯れすすき’の行き先・消え方は?」と思ったりする。

2018年1月7日の夕刻である。場所は、房総半島・千葉県は、茂原市の北西部である・・・。

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この川は、「赤目川」である。川の周辺には‘すすき’が沢山・・・。

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この辺は、結構風が強いのだが、ススキの穂はまだ沢山残っていて、‘枯れすすき’となっている。

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何だか今にも穂が風に煽られて‘種’が飛んで行きそうなのだが・・・。
‘エンジン’はもう掛っている!

 さて、さて、この‘すすき’も直ぐ傍に在って、いつだって見られるので、よ~く知っているようで、そんなに良くは知らない・・?

‘すすき’とは?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B9%E3%82%AD
ススキ(芒、薄、Miscanthus sinensis)とは、イネ科ススキ属の植物。尾花ともいい秋の七草の一つ。また茅(かや。「萱」とも書く)と呼ばれる有用植物の主要な一種。 野原に生息し、ごく普通に見られる多年生草本である。

特徴[編集]

高さは1から2m。地下には短いがしっかりした地下茎がある。そこから多数の花茎を立てる。葉は細長く、根出葉と稈からの葉が多数つく。また、ケイ酸を多く含むため堅く、縁は鋭い鉤状になっているため、皮膚が傷つくことがある。

夏から秋にかけて茎の先端に長さ20から30cm程度の十数本に分かれた花穂をつける。花穂は赤っぽい色をしているが、種子(正しくは穎果・えいか)には白い毛が生えて、穂全体が白っぽくなる。種子は風によって飛ぶことができる。

日本には全国に分布し、日当たりの良い山野に生息している。

夏緑性で、地上部は冬には枯れるのが普通であるが、沖縄などでは常緑になり、高さは5mに達する。その形ゆえに、たまにサトウキビと勘違いする観光客がいる。国外では朝鮮半島・中国・台湾に分布するほか、北米では侵略的外来種として猛威をふるっている(日本にセイタカアワダチソウが侵入したのと逆の経路で伝播)。

遷移上の位置づけ[編集]
植物遷移の上から見れば、ススキ草原は草原としてはほぼ最後の段階に当たる。ススキは株が大きくなるには時間がかかるので、初期の草原では姿が見られないが、次第に背が高くなり、全体を覆うようになる。ススキ草原を放置すれば、アカマツなどの先駆者(パイオニア)的な樹木が侵入して、次第に森林へと変化していく。後述の茅場の場合、草刈りや火入れを定期的に行うことで、ススキ草原の状態を維持していたものである。

分類[編集]
本州南部以南の海岸線には、葉の幅が広く、ざらつきの少ないものがあり、これをハチジョウススキ(M. condensatus Hack.)という。変種と見なす立場もある。

同属の別種もいくつかある。やや華奢な植物で、水辺に生えて、綿毛が純白のものにオギ(荻、M. sacchariforus (Maxim.) Benth.)がある。ススキよりさらに大きく、堤防などに大きな株を作るものにトキワススキ(M. floridulus (Labill.) Warb.)がある。他にもカリヤス(苅安、M. tinctorius Hack.)、カリヤスモドキ(M. oligostachyus)など数種が知られるが、多くない。

ススキはイネ科の代表のひとつと見なされているから、ススキの名を持つ植物は多く、たとえば以下のようなものはさほどススキに似ておらず、分類上も近くはないがその名を持っている。

アブラススキ、コメススキ、ヒメアブラススキ、ススキメヒシバ など

利用[編集]
かつては「茅」(かや)と呼ばれ、農家で茅葺(かやぶき)屋根の材料に用いたり、家畜の餌として利用することが多かった。そのため集落の近くに定期的に刈り入れをするススキ草原があり、これを茅場(かやば)と呼んでいた。現在では、そのような利用がされないので、その多くは遷移が進んで、雑木林となっている。そのため、ススキ草原に生育していた植物には、かつて普通種であったが、現在は稀少になっているものがある。また、カヤネズミなども同様に見かけにくくなっている。

また、未成熟の穂を食用とする地域もある。

東京・雑司ヶ谷鬼子母神では、ススキの穂をミミズクの姿に作った「すすきみみずく」が有名。

文化[編集]
[icon] この節の加筆が望まれています。

日本文化とススキ[編集]
十五夜の月見には、ハギ(萩)とともにススキを飾ることが多い。 花札では、八月、すなわち旧暦8月、新暦の感覚で秋に相当する時節に用いられている。 沖縄地方には、ススキの葉を環のように結んで魔除けとする風習がある。

日本語では、ススキの穂は、それを動物の尾に見立てて尾花(おばな)と呼ぶことがあり、ススキ自体もそのように呼ばれることがある。この「尾花」はススキおよびススキの穂を意味する古名であり、奈良時代初期の歌人・山上憶良が『万葉集』(巻八 1538)にて「萩の花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花 また 藤袴 朝顔の花」と詠んだように、古来、秋の七草の一つに数えられている。 また、馬の毛色で尾花栗毛(おばなくりげ)というのは、栗毛馬や栃栗毛馬であることに加えて鬣(たてがみ)や尾の長毛が白色のものを指す。この白毛は遠目には金色に輝いて見えるため、その特徴を秋のススキの穂になぞられて呼ばれたものである。

枯れすすき(枯薄、花も穂も枯れたススキ)には枯れ尾花/枯尾花(かれおばな)という呼称(古名)もあり、現代でも「幽霊の正体見たり枯尾花」という諺はよく知られている。これは江戸時代中期の国学者で俳人の横井也有が俳文集『鶉衣』の中で「一年松木淡々己れ高ぶり 人を慢(あなど)ると伝へ聞き 初めて対面して化物(ばけもの)の正躰見たり枯れ尾花 其(そ)の誠心なること大概この類なり」と述べたうちの「化物の正躰見たり枯尾花」が世に広まりつつ変化したものであるが、これは「疑心暗鬼に陥った心境下では風になびく枯れ尾花のような何でもないものも怪しげに思え、幽霊のようなただならないものと見間違えてしまう」ということから、「恐怖心や猜疑心があると、何でもないものでも、怖ろしげなもの、怪しげなものに思えてしまう」ということを意味する譬えとなっている。さらには、やはりススキの穂にまつわる類義語として「落武者は薄の穂にも怖(お)ず」 (cf. wikt) があるが、こちらは「落武者は捕まることを警戒し、怯えているためススキの穂にも恐怖する」ということから転じて先の諺と同じ意味で用いられる。 また、江戸時代中期の俳人・与謝蕪村は「狐火の 燃えつくばかり 枯尾花」と詠んでいるが、こちらは、夜の野原にて風に揺らめく枯尾花の情景を、怪しく燃え盛るこの世のものならぬ狐火に譬えた俳句である。


「幽霊の正体見たり枯尾花」は有名であるが、ここでも

  「枯れ尾花(=枯れすすき)  幽霊」

である。

人間も‘枯れ尾花’状態では、‘幽霊’なのだろう!

(つづく)
[2018/01/08 19:45] | 季節のど真ん中 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
もう、春はそこまで!(その2)
今年、2018年1月7日は、関東地方は穏やかな晴天になった!
茂原市では、気温は12℃まで上がり、風速はこのところすうじつは、7~8m/秒だったが、今日は1~2m/秒と風を余り感じなかった!

夕刻散歩に出かけたが、遂に‘桜の少し開いた蕾’を見つけた!

驚いたことに、いつもの散歩道の田んぼでは、既に‘田植え’前の事前準備が終わっており、あぜ道の枯れ草焼きが進んでいた。

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さあて、その桜の蕾だが、何十本もの‘河津桜’(ここ白子町では、‘白子桜’と名付けられているらしい)の並木通りを通って、万が一にも、‘開き始めた蕾’を期待していたが、その通りとなった!

①DSC_4761-2
②DSC_4759-2
⑤DSC_4760-2
③DSC_4759-3
④DSC_4759-4

以上の通り、蕾がもう大きくなっているが、見つけた‘開き始めた蕾’は以下の写真の通り、二つだけだった!

<開き始めた蕾ー1>
⑥DSC_4762-2
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<開き始めた蕾ー2>
⑦DSC_4766-2
⑧DSC_4766-3

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AF%E3%83%85
%E3%82%B6%E3%82%AF%E3%83%A9

カワヅザクラ(河津桜)は、日本にあるサクラの一種である。オオシマザクラ (Cerasus speciosa (Koidz.) H.Ohba, 1992) とカンヒザクラ (Cerasus campanulata (Maxim.) A.N. Vassiljeva, 1957)の自然交雑種であると推定されている。
カワヅザクラの学名は 『Cerasus lannesiana Carrière, 1872 ‘Kawazu-zakura’』

特徴[ソースを編集]
1月下旬から2月にかけて開花する早咲き桜である。花は桃色ないし淡紅色で、ソメイヨシノよりも桃色が濃い。また花期が1ヶ月と長い。

由来[ソースを編集]
1955年に静岡県賀茂郡河津町田中の飯田勝美が河津川沿いの雑草の中で1mほどの原木を偶然発見し、庭先に植えたことが由来である[1][2]。1966年から開花し、当初、発見者の飯田家の屋号から「小峰桜」と地元で言われてきたが[1]、その後の学術調査で今までに無かった雑種起源の園芸(つづく)品種であると判明し、1974年に「カワヅザクラ(河津桜)」と命名され[1]、1975年に河津町の木に指定された[1]。現在も原木はこの地に存在し、2007年現在で樹齢50〜60年である。また、1968年頃からこのサクラが増殖されるようになった。町の木指定に伴い、町民有志らによる植栽が河津川河口などから町内全域に広がったが、樹勢劣化や病虫害による病斑や、植栽間隔が短く枝が接触することによる生育障害も見つかるようになった[3]。また、堤防の樹木は根元から水が入り、土壌が緩んで決壊しやすくなり、流木による堤防の損壊や水位上昇につながる恐れもあることから、1898年施行の改正河川法により河川区域での植樹は禁止された[3]。


(つづく)
[2018/01/07 23:53] | 季節の変り目 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
雀(すずめ)について
我々は、極く普通に身近にあるものについては、何ら疑問を感じない傾向にある。
しかし、その‘もの’について、初歩的な事も知らないで、平気でいる・・・。

例えば、‘水’という毎日出会って毎日飲んでいる‘奇跡の液体’について、ほとんど科学的な知識を持ち合わせていない!

また、‘電気’という‘摩訶不思議な’存在について、確かな知識を持ち合わせている人は、なかなかいない!

そんな訳で、おいおい、ぼちぼち気付いた時に、一寸深く注意して考察してみたいとかねがね思っていた・・。

今日は、‘水’や‘電気’と言った正確を期すためにはなかなか難しい対象は後回しにして、先ずは身近な‘雀(すずめ)’から・・・。

先ずは、自分で撮影したその写真を・・・。
今年の元旦、2018年1月1日の朝、近所で清々しい雀を撮影することが出来た!

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 この雀もちょこちょこと目を動かしている!警戒心が強いことが判る!

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自分で撮影した、この写真をPCで拡大してみて「おや?ウグイスかも?」と思った次第!

さて、さて、雀とは?

例えば、「雀の平均寿命は?」と聞かれて答えられる人はほとんどいない。それは、雀の寿命を知っていても自分の生活に何の役にも立たないから、と言う事もあろうが、研究者が少ないからほとんど判っていないからだという。結局研究者が少ないのは、研究をしても余り生活に役立たないからなのだろうか!?

つまり、「役立たない情報は価値がない!」と言う事に尽きる、という誠に情けない結果となる!
しかし、しかし、‘Wikipedia’で雀を見てみて驚いた。研究は進んでいるではないかっ!

スズメ(雀、すずめ、学名 Passer montanus )は、スズメ目スズメ科スズメ属に分類される鳥類の1種。人家の近くに生息する小鳥である。

目次 [非表示]
1 分布
2 分類
2.1 分類体系上の位置の変化
2.2 亜種
2.3 近縁種
3 形態
4 生態
4.1 食性
4.2 繁殖
4.3 営巣場所
4.4 群れ
4.5 寿命
4.6 捕食者
5 日本におけるスズメ
5.1 分布
5.2 個体数の変化
5.3 日本人との関係
5.3.1 稲の食害
5.3.2 狩猟と飼育
5.3.3 親しみ
5.3.4 神聖視
5.4 日本文化
5.4.1 俳句
5.4.2 物語
5.4.3 童謡
5.4.4 芸能
5.4.5 家紋
5.5 日本語彙・日本語句
5.5.1 語源・表記・意味
5.5.2 スズメという名のつく別種
5.5.3 日本語の慣用句
5.6 栄養
5.7 その他
6 中国におけるスズメ
7 関連画像
8 脚注
9 参考文献
10 関連項目
11 外部リンク

分布[編集]

繁殖地 周年生息地 越冬地
西はポルトガルから東は日本までユーラシア大陸の広い範囲に分布する[1]。ただし北はあまり寒い地方にはおらず、北緯で言えば60数度が北限である。またインドにはほとんどいない。ボルネオ島、スマトラ島、ジャワ島などの熱帯または亜熱帯の地域にも分布域がある。

アメリカ合衆国では、19世紀半ばにミズーリ州セントルイス市に移入された。広範囲に分布するイエスズメとは対照的に、現在では同市と隣接するイリノイ州の一部にのみ生息し、スズメの分布域は広がっていない。

ヨーロッパでは英名の Tree sparrow からも分かるように、主に農耕地帯でみられ都市部にはほとんどいない。都市部にはイエスズメなど別のスズメがいる。一方、東アジアでは農耕地から都市部などのヒトの生活の傍で見られる。

分類[編集]

分類体系上の位置の変化[編集]
シブリー・アールキスト鳥類分類では、スズメ目・スズメ科・スズメ亜科に分類されていた。 日本鳥類目録では以下のように変わってきた。

改訂3版(1942年) スズメ科(現在のアトリ科)
改訂4版(1958年) キンパラ科
改訂第5版(1975年) ハタオリドリ科
改訂第6版(2000年) ハタオリドリ科
改訂第7版(2012年) スズメ科
亜種[編集]
P. montanus. montanus (Linnaeus, 1758) 基亜種 - ヨーロッパからアフリカ北部、モンゴル北部、満州、オホーツク海。[3]
P. montanus. transcaucasicus (Buturlin, 1906) - コーカサス南部(グルジアの黒海沿岸からイラン北部)。[3]
P. montanus. dilutus (Richmond, 1896) - トランスカスピアからパキスタン西部、ゴビ砂漠、中国西部(新疆)。[3]
P. montanus. dybowskii (Domaniewski, 1915) - アジア東部(アムール川下流から満州、朝鮮北部)。[3]
P. montanus. kansuensis (Stresemann, 1932) - 中国西部(ツァイダム盆地、甘粛)。[3]
P. montanus. iubilaeus (Anton Reichenow, 1907) - 中国東部(遼寧から長江下流、陝西)。[3]
P. montanus. obscuratus (Jacobi, 1923) - ネパールからインド北東部、ミャンマー、中国西・中部(四川から湖北)。[3]
P. montanus. saturatus (Stejneger, 1885) 亜種スズメ - 千島列島、日本、韓国、琉球諸島、台湾、中国南東部。[3]
P. montanus. malaccensis (Dubois, 1885) - ミャンマー中部、マラヤ、海南島、ベトナム、インドネシア西部。[3]
近縁種[編集]
ニュウナイスズメ
カシラダカ


形態[編集]

スズメの喉元の黒い部分。

巣立ったばかりの雛の喉元はまだ黒くない。
全長は約14-15cmで、体重は18-27g[4]。ホオジロより小さく、シジュウカラぐらいの大きさ[5]。日本では鳥の大きさ等を比較する場合の基準となる「ものさし鳥」と呼ばれる基本種となる(他に ムクドリ、キジバト、ハシブトガラスなど)。翼長6.7-7.4cm、尾長4.3-4.9cm[6]。

雌雄同色[7]。成鳥は頭部が赤茶色、背中は褐色で縦に黒斑があり、翼に2本の細い白帯がある。頬から後頸、腹にかけては白色をしている。耳羽および目先から喉は黒い。くちばしの色は黒色であるが、幼鳥の時は淡黄色。ただし成鳥でも、繁殖期の終わりごろにはくちばしの根元が黄色になる個体が観察される[8]。全ての成鳥のくちばしの根元が黄色くなるかどうかは分からないが、若い個体と区別が付きにくいので注意が必要である。成鳥の頬にある大きな黒い斑は遠くからも目立ち、これが他の類似種との区別点でもある。幼鳥は全体に色が淡く、頬の黒斑や喉の黒斑がはっきりしない。

くちばしは短くて太い円錐形で、小さな餌をついばむために都合がよい構造となっている。嘴峰長は0.9-1.2cm[6]。足は淡褐色で、跗蹠長は1.65-1.8cm[6]。

ヨーロッパなどユーラシアに広く分布し、アメリカ大陸やオセアニアなどにも移入種として生息する別種イエスズメは、やや大きくて、雄の頭部に灰色の太いラインが入る[9]。

生態[編集]
地上では両足で飛び跳ねて(ホッピング、英: hopping)素早く移動する。飛翔は直線的であるが、急に飛ぶ方向を変えたりすることもできる。

鳴き声は一般的に「ちゅんちゅん」と表される。「チュン」という声を基調に、変化のある鳴き声を続けて発したりするが、ときに「ジュクジュクジュク」と胸を反らせながら尾を上げて激しく鳴くことがある。それは、縄張りを守る威嚇行動と考えられる[10]。また、交尾の際に下の雌が、少し広げた翼を小刻みに震わせながら「ヒヨヒヨヒヨ」と細い声を発する[10]。


草の若葉を啄ばむスズメ。背中の斑模様と羽の白帯が確認できる。
一般に留鳥とされているが、日本で1920年代から1940年代に行われた移動性を調べる調査[11]によれば、移動距離が25km以内(特に5km以内)の真の留鳥集団と100km以上を移動する移動性の高い集団が存在していることが明らかとなった。この調査に於いて、新潟県で標識放鳥された約5700個体のうち7個体が岡山県で、3個体が高知県で標識回収された事が記録されている[11]。

食性[編集]
食性は雑食性で、イネ科を中心とした植物の種子や虫を食べる。また、都市部に生息するスズメはサクラの花の蜜、パン屑・菓子屑や生ゴミまで、何でも食料にする。このような雑食性が、都市部での繁殖を可能にした理由の1つと考えられている。繁殖期には子育てのために虫を好んで捕獲する。夏から秋にかけては稲に対する食害も起こすが、稲の害虫も食べることでも知られる。

親鳥の死亡など緊急な保護を目的などとして飼育する場合、ヒナ鳥は、和鳥用の練り餌のみならず、パンをぬるま湯で柔らかくしたものや植物性の練り餌[12]でも育雛が可能であるが、充分な知識がないと成長せずに死亡するケースも多い。

ヒナ鳥は通常充分に飛べない状態で巣立ちをするため、親鳥は近隣で見守っているもので、持ち帰って飼育していると親鳥が餌を運んでくる事例も確認されている。ヒナ鳥は拾い上げて持ち帰らず、そばの植え込み等に放っておけば親鳥が声で見付け出し育雛を続ける。

繁殖[編集]
繁殖は春から夏頃(主に3-8月[13])にかけて行われる。1年に2回程度繁殖すると考えられている。人に対する警戒心は強いが、人の生活の傍で繁殖を行う。そうすることで天敵などから身を守る効果があると推測されている。一方、集団で繁殖する習性があり、20つがい以上がいないと繁殖しないという報告もある[10]。

巣の材料として、イネ科の植物などの繊維状のものを用いるので、営巣時期にはそれらをくわえて飛ぶ様が見られる。巣の大きさや形状は営巣場所の穴の形や隙間によって変わる[14]。巣に人間などの外敵が近付くと「ヂヂヂヂヂヂ」と短く高い声で警告されるが、この場合、卵の有無は問わず、ある程度完成した巣であると警告を行うとされる。毎日1個の卵を産み[13]、1つの巣に産む卵の数は4-8個とされ[6]、5-6卵が75%を占める[15]。2010年には、秋田県大潟村で、9卵が産みこまれていた例が報告されている[16]。卵は灰白色で、紫褐色や灰色、黒褐色の斑があり鈍端側に多い[6]。卵の大きさは1.7-2.25cm × 1.3-1.55cm[6]。雌雄が抱卵し10-12日で孵化する(抱卵日数は10-14日)。ヒナは晩成性で14-18日で巣立つ。

営巣場所[編集]

犬や猫などの毛も巣材として利用する。
巣は地面近くには作らず、人の身長よりも高い位置に作ることが多い。見た目には無理と思われるような隙間でも擦り抜けられるので、スズメの巣そのものは普段目に付かないが、巣の真下付近には枯草などの巣材の残骸が散らかっていることが多いので、それを頼りに見付け出すことができる。また、雛が餌をねだる高い周波数のチリチリという鳴き声で巣の存在に気付くこともある。

日本では人間の生活に密着しているので、多くは瓦の下や雨樋と屋根の隙間などの屋根の軒の隙間や、この他にも人の住んでいない家や集合住宅の換気扇カバーの中や煙突、プレハブの鉄骨の隙間や穴など直径 3センチメートル または 2.5 cm × 4 cm ほどの隙間さえあれば入り込んで営巣することがある。人間が設置した巣箱も利用するが、この際は出入口の位置まで巣材を積み上げる習性がある。他に、電話線の分配ボックス、電柱トランス下のスペース、交通標識の横に伸びたパイプ等でも営巣する。

自然にあるもので営巣する場合、木の洞(きのうろ)や、さらに樹木の枝の茂みに球形の巣を作ることもある[14]。ツバメなど他の鳥の古巣を利用することもあり、造巣中のコシアカツバメの巣を奪って使った観察記録もある[14]。まれにスズメバチの古巣を利用した例も報告されている[17]。また、トビやクマタカなど猛禽類の巣の下部裏側に営巣することもあり[14]、これは猛禽類の近くに外敵が来ないことを利用していると考えられる。

群れ[編集]

群れで採餌中のスズメ
夏から秋にかけて、街路樹などに数十から数百羽が集まってねぐらを形成する。その年生まれの若鳥が多いとされるが[18]、若い個体だけでなく成鳥もまざっている。集まることで、体温の維持、翌日の餌場の探しやすさ、睡眠時の安全性の向上などの効果があると考えられている[19]。一方で、群れのねぐらに入らず個々の場所に定住する個体は成鳥が多いとされる[18]。

近縁で主にヨーロッパに分布するイエスズメでは、喉元の黒い部分の大きさが、その個体のコンディションの良さを表しており、黒い部分が大きいほど、または黒さが強いほど群れの中で優位な個体であるという研究がある[20]。一方、スズメの頬および喉の黒い部分と社会的なランクについては、それほどはっきりした関係がないことが示されている[21]。ただし、イエスズメについても否定的な研究もあり、スズメについてもまだ十分調べられているわけではない。

寿命[編集]
スズメの寿命はよく分かっていない。理由は、そのための調査があまり行われていないせいもあるが、巣立ち後に分散するので個体の寿命を把握しづらいためである。ヨーロッパの標識調査からのある推定[22]では、秋頃に捕獲された雛が、翌年の春を迎えるまでの生存率は0.49、その後の生存率は年あたり0.32となっている。これらの値が日本でも成り立つとすると、秋頃の当年生まれの個体の期待余命は1.4カ月ほど、1年目の春を迎えた個体の期待余命は1年ほどということになる。卵の段階から巣立つまで、そして巣立った直後から秋にかけては、かなり高い死亡率を持つと思われるので、産卵された直後のスズメの期待余命、つまり寿命は半年以下になるかもしれない[要出典]。

日本における自然条件下の最長寿命は、2,293日である[23]。これは初めて捕獲されて標識されてから、次に捕獲されたまでの日数なので、少なくともこれ以上生きたことは間違いがない。飼育下では、一般に自然条件下よりも長く生き(生理的寿命)、最長15年という記録がある[24]。


捕食者[編集]
都市部では、猫、カラスおよび小型の猛禽類(例えばチョウゲンボウ[25])などが捕食者になっている。農村部ではこれらに加え、中型以上の猛禽類(例えばノスリ、オオタカ、ハヤブサ、フクロウ)も捕食者になる。かつては、ヒトも影響力の大きな捕食者であった。

日本におけるスズメ[編集]

分布[編集]
北海道から沖縄まで見られる。北海道、南千島、本州、粟島、佐渡、隠岐、見島、四国、九州、対馬、五島列島、屋久島、伊豆諸島、奄美大島、琉球諸島、大東諸島では留鳥であり、舳倉島、男女群島、種子島には旅鳥として、またトカラ列島にもまれに認められる[2]。ただし、いくつかの離島には分布していない。例えば、本州から1,000 kmほどある小笠原諸島には生息していないが[26]、これは分散の機会がないからだと思われる。本州から最も距離があるのに分布しているのは、沖縄本島から400 kmほどの南大東島、北大東島である。一方で、舳倉島など能登半島から50 kmほどだが留鳥として分布していない所もあるので、分布は単純に本州からの距離だけで決まるわけではないようである。

生息地は、都市、農村、里などの人の居住域付近であり、一年中見られる留鳥または漂鳥である[26][7]。典型的なシナントロープで、人間が住み始めた集落にはスズメも居着き、逆に人間が離れ集落が無人になるとスズメも見られなくなるという傾向がある。

個体数の変化[編集]
2008年における日本本土のスズメの成鳥個体数は、約1800万羽と推定されている。ただしこの推定には誤差があるため、数千万羽の桁と考えるのが妥当と思われる[27]。この数千万羽は成鳥個体数の推定値なので、秋冬にはこの数倍になると思われる。

日本におけるスズメの個体数は減少傾向にあると言われている。鳥類の行動や生態を研究している三上修らの推定によると、2007年のスズメの個体数は1990年ごろに比べて少なくとも半減、減少率を高く見積もると5分の1になったと考えられている[28]。50年前の10分の1とも推定されている[29]。しかし減少原因についてはよくわかっていないが、気密性の高い住宅の普及によって営巣場所が減少したこと[30][31]、農村部でコンバインの普及によって落ち籾(もみ)が減少しそれによる冬季の餌が不足したこと[32]などが可能性として挙げられている。また農村部と比べて都市部において巣立っているヒナの数が少ない傾向が見られており、都市化に伴う餌不足も、減少原因の候補として挙げられている[33]。このように減少はしているが絶対的な個体数はまだ多く、現在の減少スピードであれば数十年後に絶滅してしまうことはないと言われている[34]。

日本人との関係[編集]

稲の食害[編集]
夏から秋にかけては稲に対する食害も起こす。しかし、農村地帯で繁殖するスズメは、稲にとっての害虫も食べるため、コメ農家にとっては総合的に益鳥の面が大きいともされる[35]。

一方ニュウナイスズメという別種のスズメは、繁殖期には森林または北方で繁殖し、夏の終わりから秋にかけて農村地帯に現れる。益鳥としての働きをしないので害鳥としての面が強いといわれている。この稲を食害するニュウナイスズメとスズメが、スズメとして一緒にくくられることで、スズメが必要以上に害鳥扱いされた可能性もある(ただし、理由はわかっていないが、ニュウナイスズメが大規模に農村地帯に出現することは現在ではほとんどなくなった)。

狩猟と飼育[編集]

人に懐いたスズメ。道に落ちていた弱った幼鳥を保護・育成したもの
スズメは鳥獣保護法で狩猟鳥に指定されており[29]、焼き鳥等に食用もされてきた。特に京都伏見稲荷では門前の名物になっている。しかし、現在は需要の低下、狩猟者の高齢化により、およびスズメの個体数減少により捕獲されるスズメの数は減ってきている[36]。一時、中国、韓国から食用のスズメが日本に輸入されていたが、鳥インフルエンザ対策のために現在ではほとんど輸入されていない。日本での狩猟期間は11月15日から2月15日の間とされ銃や罠を使用しない方法であれば誰でも捕獲できる[37]。また狩猟期間に関わらず飼育することも自由とされている[37]。

スズメの捕獲法はいくつかあるが、古くはねぐらになっている藪の周囲に大型の網(袋網という)を張り、勢子とよばれる役割のものが、音を立てたり藪を棒などで叩いて網に追い込む猟法も行われていた。この猟法は大量捕獲が可能なので地獄網とも呼ばれる。現在ではこのような猟法は禁止されており、スズメの捕獲は、スズメが集まるところに網を立てておいてスズメが来たら網を倒して採るむそう網という方法で行われている。

4月前後には巣立ちに失敗したり弱ったりした幼鳥が人間に保護されることも多く[38][39]、保護ボランティアが募集される自治体もある[40][41]。日本野鳥の会などでは、弱ったりしていない場合は安易に保護せず2-3時間ほど、その場所で親が来ないか離れて観察するように指導しており[42]、衰弱している場合や親鳥が現れない場合は保護して専門家に預けるようにとしている[42]。

古くから身近な鳥なのに他の鳥のようにペット化されない理由としては、飛翔力が強くカゴ内で激突して傷付き易いことや、餌を大量に食べるので糞も他の飼い鳥と比べ量が多いこと、砂浴び好きな習性のためカゴ内で餌や新聞紙に身体を激しくこすりつけ周囲に大量の餌や糞を跳ね飛ばすことが挙げられる。 しかし飼ったことのある人の証言では、非常に人懐こく賢いことがしばしば言及される。芸に使われることのある鳥の種類として、タカ、スズメ、ジュウシマツ、ヤマガラを挙げている資料[43]があり、同資料においてこの中でスズメはもっとも利口だが飼育が困難、ヤマガラの方が飼育に適し、また調教が楽なので非常に流行ったとの記述がある。


目次の項をご覧戴ければお判りの通り、まだまだ続きがあるのだが・・・。これ以上は、‘Wikipedia’をご参照あれ!

(つづく)
[2018/01/06 23:55] | サイエンス | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
真冬の‘セイタカアワダチソウ’と‘雪柳’は、今!
昨日、2018年1月4日の朝8時頃、まだ気温は5~6℃である。

セイタカアワダチソウは、秋には黄色い花(?)が咲き誇っていたが、真冬の今は寒さに震えているように見える!

<秋のセイタカアワダチソウ>

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<昨日(2018年1月4日)の朝のセイタカアワダチソウ>

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春の備えは始まっているのだろうか?


<昨日(2018年1月4日)の朝の雪柳>

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一輪だけ「春がもう来た!」勘違いしている!? それとも「他より先に!」と意気込んでいる!?

(つづく)
[2018/01/05 10:48] | 季節のど真ん中 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
新年の月と富士山
今朝、2018年1月4日の朝は快晴で、十六夜の朝月と富士山が関東地方から見えた!

下の画像は、我が家から70m位のところから見た‘月’と‘富士山’であるが、さて、何処に月と富士山が?

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<月>

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月
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<富士山>

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富士山
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富士山の冠雪程度は、例年にない少なさのような気がする!

さて、雪が少ないとか気温が云々という時には、必ず‘地球温暖化’議論が出るのだが、今はその議論はない!
これも不思議である!

(つづく)
[2018/01/04 12:54] | 富士山 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top
春一番?
今日、2018年1月3日は、朝から夕方まで‘10m/sec’位の風が吹いた!
場所は、ここ房総半島・千葉県は茂原市付近である。

「これって、春一番?」

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「いや、いや、春一番は、まだ、大分あ~と!」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E4%B8%80%E7%95%AA
春一番(はるいちばん)は、北日本(北海道・東北)と沖縄を除く地域で例年2月から3月の半ば、立春から春分の間に、その年に初めて吹く南寄り(東南東から西南西)の強い風。春一番が吹いた日は気温が上昇し、翌日などは寒さが戻ることが多い。これを「寒の戻り」と言う。

発生条件[編集]
春一番の発生条件及び認定基準は、地域・気象台により、多少異なる。おおむね、立春から春分までの間に、日本海を進む低気圧に向かって、南側の高気圧から10分間平均で風速8m/s以上の風が吹き込み、前日に比べて気温が上昇することを発生条件とする。ただし、「日本海を進む低気圧に向かって」という条件は比較的幅広く解釈されることもある。たとえば、2006年3月6日には、北海道の北に低気圧があったものの、この低気圧に向かって吹いた南寄りの強風が春一番と認定された。また、春一番は必ずしも毎年発生する訳ではなく、風が春分の日までに気象台の認定基準にあてはまらず「春一番の観測なし」とされる年もある。春一番が観測されたとき以降、同じ年に同様の南風が複数回発生した場合には、俗に「春二番」「春三番」と呼ぶことがある。2013年2月2日には、南方の暖かい風が吹き込み全国的に気温が上昇したが、立春の前であったために、定義上、気象庁はこの風を「春一番」と認めなかった。(後述参照)

語源[編集]
気象庁は「春一番」の語源について、石川県能登地方や三重県志摩地方以西で昔から用いられたという例を挙げ、諸説があるとしつつ、安政6年2月13日(1859年3月17日)、長崎県壱岐郡郷ノ浦町(現・壱岐市)の漁師が出漁中、おりからの強風によって船が転覆し、53人の死者を出して以降、漁師らがこの強い南風を「春一」または「春一番」と呼ぶようになったと紹介している[1]。一方、長崎県では、この事件以前から郷ノ浦町で「春一」と呼ばれていたものが、事件をきっかけに広く知られるようになったとしている[2]。この故事により、1987年に郷ノ浦港近くの元居公園内に「春一番の塔」が建てられている。

民俗学者の宮本常一は研究のため郷ノ浦町を訪れてこの「春一番」をいう語を採集し、1959年に壱岐で用いられている語として『俳句歳時記』で紹介した。これをきっかけに、「春一番」は新聞などで使われるようになり、一般に広まったとされる。つまり、郷ノ浦町で使われていた「春一」または「春一番」は、この語の初出であるかどうかはともかく、現在広く用いられている「春一番」という語の直接の源であるということになる。なお、「春一番」という語の新聞での初出は、1963年2月15日の朝日新聞朝刊での「春の突風」という記事であるとされ、このため2月15日は「春一番名付けの日」とされている[3]。

一方、「春一番」という語の初出については、『池田市史 史料編』に収録された『稲束家日記』の天保2年1月11日(1831年2月23日)の記事には「晴天午ノ刻より雨、春一番東風」との記載が見られ、前記の転覆事件以前から長崎県外でも「春一番」という語が用いられていたことが確認されている[4]。さらに、前出の宮本常一も1775年に刊行された越谷吾山の『物類称呼』に「ハルイチ」が掲載されていると指摘している[5]。



ここ茂原市では、本当の春一番まで、何度もこんな状態になる!
こんな日は勿論洗濯物は外に干せない!

(つづく)
[2018/01/03 23:56] | 気象 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
2018年1月2日の満月
今年、2018年1月の最初の満月は、今日1月2日である!

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出典:http://koyomi.vis.ne.jp/moonage.htm

今日1月2日の23:25 に撮影した!

カメラに工夫しないでバカチョン方式で撮ると直ぐ下の画像になってしまう!

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これでは、‘月の表情’が見えない!

従って、カメラのある機能だけを一寸触ると、バカチョン方式で三脚も使わず、‘月の表情’を捕えることが可能である!

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この画像を確保すれば、後はPCでどんなにでもなる・・。

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(つづく)
[2018/01/02 23:57] | | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
謹賀新年!
今日は、2018年1月1日である。

少し昔、年賀状に「金が信念」と書いて‘顰蹙(ひんしゅく)’を買ったことがある・・・。
年賀状も昨年早々に書き上げていたので、今年の元旦は悠々たる気分であった。

天気も良いし、子供達孫達も帰省していたので、例年通り、千葉県では一寸は有名な茂原市の‘橘樹神社’へ初詣に行った!
8人でおみくじを引いたが、5人が大吉、1人が中吉、2人が末吉という結果だった!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E6%A8%B9%E7%A5%9E
%E7%A4%BE_(%E8%8C%82%E5%8E%9F%E5%B8%82)

橘樹神社(たちばなじんじゃ)は、千葉県茂原市本納にある神社。式内社、上総国二宮で、旧社格は県社。神紋は「橘」。

古くは「橘神社」・「橘木神社」とも記された。現在は「橘樹」の2字で「たちばな」と読む。

祭神[編集]
主祭神

弟橘比売命 (おとたちばなひめのみこと)
相殿神

日本武尊 (やまとたけるのみこと) - 弟橘比売命の夫。
忍山宿禰 (おしやまのすくね) - 弟橘比売命の父。

歴史[編集]

概史[編集]
社伝では、日本武尊が東征した際、相模から上総へ渡ろうとした時に海上で暴風に遭った。弟橘媛が海に身を投じて日本武尊の難を救ったことから、日本武尊が弟橘媛の御陵を作り、弟橘媛の櫛を納めて、橘の木を植えて祀ったのに始まると伝える。『古事記』には「七日の後、その后の櫛海辺に依りき。すなはちその櫛を取りて御陵を作り治め置きき。」[1]とあり、これが当社のことであるという。また『日本書紀』では、「さらに相模においでになって、上総に渡ろうとされた。海を望まれて大言壮語して、こんな小さい海、飛び上ってでも渡ることができよう、と言われた。(中略) こうして、日本武尊は上総より転じて陸奥国に入られた。そのとき大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦(鴨川市吉浦)を廻り玉浦(九十九里浜)を横切って蝦夷の支配地に入られた。」[2]とあり、この時祀られたのが由来とされる。

国史の初見は、『日本三代実録』元慶元年(877年)5月17日条、従五位勲五等の橘樹神に正五位下の神階を授けるという記述である。元慶8年(884年)7月15日、正五位上の神階が授けられ、日本武尊・忍山宿禰が合祀された。『延喜式』神名帳には上総国長柄郡に「橘神社」と記載され、式内社に列している。

中世には当社周辺に社領・橘木荘(のち二宮荘)を有した。延宝8年(1681年)には正一位が授けられたという。

明治6年(1873年)近代社格制度において県社に列した。


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この樹が橘、そして下の写真のみかんが橘みかん・・・。

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これが、橘の家紋・・。

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この‘大吉’のおみくじの文句に、「・・・神信すれば 龍の風や雲を得て天に昇るように・・・」とある。
実は、昨年の12月26日に、以下の写真の‘龍の雲’を見ていた。この時何かの因果関係を感じていたのだが・・・。

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さあ、2018年の始まりである!

(つづく)
[2018/01/01 23:23] | 伝統文化 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
大晦日に都心に初雪!
2017年も本日で終わる!大晦日である!

その大晦日に、東京都心で初雪という。(以下の画像は、NHKのTV画面をカメラで撮影したものである)

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さて、改めて大晦日とは?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%99%A6%E6%97%A5
大晦日(おおみそか)は、1年の最後の日。天保暦(旧暦)など日本の太陰太陽暦では12月30日、または12月29日である。現在のグレゴリオ暦(新暦)では12月31日。翌日は新年(1月1日)である。大つごもりともいう。日本では、年神を迎えることにちなむ行事が行われる。

由来[編集]

名称[編集]
旧暦では毎月の最終日を晦日(みそか)といった。晦日のうち、年内で最後の晦日、つまり12月(または閏12月)の晦日を大晦日といった。元々“みそ”は“三十”であり、“みそか”は30日の意味だった。ただし、月の大小が年によって変動するので、実際には29日のこともあった。後の新暦の12月31日を指すようになった。

大晦日を大つごもりともいった[1]。「つごもり」は、晦日の別名であり、「月隠り(つきごもり)」が転じたものである。

文化[編集]
日本における大晦日という慣習は、日本文化に古くからある「歳神様」(としがみさま)、または「歳徳様」(としとくさま)への信仰に基づく儀礼から生じており、これらは歳徳神などとも呼ばれるその年一年間を司る神様である。年の初めから来られるため、「正月様」(しょうがつさま)とも呼ばれ、各年によって来られる方向が異なり、その方角は「恵方」と呼ばれる。この神様は神社のような宗教施設ではなく各家々に訪れると昔から信じられていたため、神様をお迎えし食事を共にしたりするために大晦日から「年籠り」(としごもり)をして(元旦に恵方にある近所の神社へ参拝する恵方詣りをすることもあるが)元旦も家で過ごすことが一般的であった。後に歳神様が家に来られるという観念がほとんど無くなり、一般庶民が正月三が日などに神様に願いを伝えるためにこちらから神社へ参賀する「初詣」を行うようになっているが、そのきっかけは、明治20年代に官公庁から始まった元旦に御真影を拝む「新年拝賀式」と、1891年(明治24年)の「小学校祝日大祭日儀式規定」により元旦に小学校へ登校する「元旦節」などを経て、関西の鉄道会社が正月三が日に(恵方とは無関係な方角の)神社へ初詣を行うというレジャー的な要素を含んだ行事を沿線住民に宣伝しこれが全国にまで広まったことで、年籠りという習慣は次第に失われたとされる[2]。

日本の平安時代に行われていた大晦日の宮廷儀礼の1つに「鬼やらい」とも呼ばれる「追儺」(ついな)がある。年の変わり目という最大の節分において、「鬼」で表現される良くない何かを追い払うために方相氏(ほうそうし)と呼ばれる恐ろしい扮装・いでたちの導士によって執り行われる古い行事であるが、これが後の節分行事に変化したとされる[3]。恐ろしい姿の演者としては、日本の郷土文化として大晦日や旧正月などに「なまはげ」などが行われている。

大晦日の行事[編集]
大晦日には、様々な年越しの行事が行われる。年越しの夜のことを除夜(じょや)とも言う。かつては、除夜は年神を迎えるために一晩中起きている習わしがあり、この夜に早く寝ると白髪になる、皺が寄るとかいった俗信があった[1]。また、

大晦日の伝統的な風習には以下のようなものがある。

年越し蕎麦(地方によっては他の食事)
除夜の鐘(108つの煩悩を祓う)
二年参り(初詣)
雑煮(古くは、大晦日の夜から一日が始まるため既に新年であり、正月の食事をとる家庭もある)
お年取り(長野県などで行われるごちそうなどを食べる行事)[4]
神社仏閣や各地方では伝統的な行事が行われ、その他にも年越しを祝うイベントが行われる。また、そういった行事やイベント、初日の出など元旦のイベントの為に移動する人が多いため、鉄道などの交通機関が日常は営業時間外となっている深夜に営業する事もある[5]。

[2017/12/31 13:14] | 気象 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
不思議な‘リンゴ’?
或る有名な方から‘不思議なリンゴ’を頂戴した!
何でも、まだ販売されていないリンゴだそうだ・・。

有名な方というのは、こんなルートがあるのだろうか?

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「お味はどうですか?」
「酸味もあって、十分美味しいですね!」

「一寸調べてみましたが、本当にまだ売り出されていないみたいですねえ」
「えっ、えっ!? なぜ?」

http://www.iijan.or.jp/oishii/products/fruit/post-2432.php
衝撃の赤!りんごの果肉の色にびっくり 2016.11.09.

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りんごの色は何色?

信州特産のりんごは、早くはつがるから始まり、続いて秋映、シナノスイート、シナノゴールド、シナノドルチェなど次々に登場してきました。 そして今、サンふじの収穫が始まったとの便りも届いています。
さて、「りんごは何色?」と聞かれると、その答えは代表的なところで「赤色」、少数で「黄色」「緑色」でしょうか。でもこれはりんごの外観(皮)の話。りんごの実(果肉)の色はと言えばだれに聞いても「白」または「黄色」と答えるに違いありません。
ところがびっくり、どうやら「赤い果肉のりんご」が現われたようなのです。

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長野県の北部に位置するJA中野市のりんご・もも部会で、赤肉系りんごの栽培に取り組んでいると聞き、中野市の吉家果樹園で行われた「赤肉りんご現地検討会」におじゃましてお話を伺いました。
このりんご畑で栽培されていた赤い果肉のりんごは、「なかの真紅」「ムーンルージュ」「炎舞(えんぶ)」「いろどり」「なかののきらめき」の5品種。赤色の果肉と言っても、桃色から濃紅色と品種によってさまざまです。

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なかの真紅
外観は濃赤。果肉は桃色~赤色。酸味は弱いので甘く感じます。

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ムーンルージュ
外観は黄色。果肉は桃色~赤色。酸味は弱く糖度が高い。シャリとして食味が良い。

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炎舞
外観は濃赤。果肉は桃色。酸味は弱いので甘く感じます。

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いろどり
外観は濃赤。果肉は濃紅色。酸味は弱いので甘く感じます。

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なかののきらめき
外観は黄色。果肉は赤色。果肉が赤くなると外観はオレンジ色になる。5品種の中でいちばん酸味が強い。

果肉が赤くなるのはなぜ?
りんごは様々な品種がありますが、果肉の色は白や黄色と決まっていました。いったいどうすれば果肉が赤くなるのでしょう?皮の色が作用しているの?
そんな疑問を、赤い果肉のりんごの育種をした吉家一雄さんにぶつけてみました。
「りんごにはもともと赤色の遺伝子があり、他のりんごとの交配で赤果肉のりんごが出来たのです」
というのが吉家さんの答え。遺伝子が関係しているんですね・・でもちょっと難しい。

さて、これら赤い果肉のりんごたちは、実をいうとまだ販売をされていません。(ざんね~ん、早く食べたいですよね)

JA中野市では、2~3年後に販売を開始するべく栽培に取り組んでいますので「しばしお待ちください」とのことでした。


ただし、この記事が掛かれたのは、上述の通り、「2016.11.09.」である。
しかし、販売開始は、2~3年後とあるから、今年2017年にはまだ発売させていないらしい!

(つづく)
[2017/12/31 11:59] | 仰天! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
UFO出現?!
今年、2017年も終わりに近づいた12月30日の夕刻、ところは房総半島・千葉県は茂原市の我が家付近の東側の空に、怪しき‘UFO'’が出現した!

以下の画像が、その証拠写真である!

「ホント?」
「まあ、見て下さい!」

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「おや、おや、‘UFO’らしいねえ!」
「そうでしょ、ね、そうでしょ!」

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「電線に停まった?」
「こいつ電線好きかも?」

「拡大、拡大!」

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「こりゃあ、ほんまもんだっ!」
「ね、ねっ!」

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「今度は、こっちの電線に、‘瞬間移動’? さっさと、拡大!」

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「電線のこっち側だぜっ!」
「今度は、電線から離れたっ!」

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「おい、おい、何処へ行っちゃうのよ?」
「車ら降りて、撮ってみますか?スマホでなくて、カメラで・・・」

<撮影時刻:2017年12月30日16:53>
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「やっぱり、‘UFO’かも?」
「ば~か!‘月’じゃろうが、このアホ!」

と言う訳で、‘瞬間移動’したのは、‘UFO’(=月)ではなく、撮影者の車だったという、お粗末!

「‘UFO’騒ぎは、大体こんなものでしょうか?」
「そ、そっ!‘UFO’が‘瞬間移動’しているのではなくて、撮影者が移動している、ってこと!」

「それを、‘相対性原理’という、ってことでしょうか?」
「あの有名な物理学者の‘一石’さんがそう言っていた!」

「‘一石’さんって、誰?」
「バ~カ、‘アインシュタイン’さんだろうがっ!」

と言う訳で、‘UFO’の月を、つまり明るい月をバカチョン方式で撮るという「特殊撮影‘偽’術」で撮影した!

<撮影時刻:2017年12月30日16:54>
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明日の大晦日の天気は、関東地方では曇りか雨という天気予報だから、今年の見納めかも知れない!

(つづく)
[2017/12/30 23:23] | 仰天! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
今年、2017年今季の氷
今年、2017年の暮れの気温は、案外温かい!
例年なら、ここ房総半島のような温かいところでも、10日間位は小川に氷が張る・・。

しかし、今期は氷を見たのは立った二日だけ!

2017年12月28日に、やっと(?)本格的な氷となった!上述の通り、今季二回目である。

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氷の模様はお気づきの通り、同じものはないからじっと見ていて飽きることはない!
金属の結晶を顕微鏡で嫌というほど見て来たが、氷の結晶の方が面白い・・。

氷の結晶の寿命が短いというのも魅力である!

この氷を研究している学者も多い!

http://www.lowtem.hokudai.ac.jp/ptdice/basis.html
氷の結晶成長機構及び成長に伴うパターン形成機構の研究
雪の結晶は、その精緻な構造と整った六回対称性から自然の作り出す 最も美しい結晶です。結晶のパターンは、結晶が成長するときの温度と過飽和度によって千差万別に変化することが古くから知られています(Fig.1)。

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Fig.1:温度と過飽和度による結晶パターン変化

また、過冷却水中で成長する氷の結晶も雪の結晶と同様 に美しい樹枝状パターンを作ります。このような結晶パターンの変化は、どのような仕組みで起こるのでしょうか?

これを理解するには、 結晶の成長機構を解明することが必要です。私たちの研究グループでは、実験、計算機シミュレーション、さらに理論モデルなどのさまざまな方法でこの問題の研究を行っています。


(つづく)
[2017/12/29 22:14] | 気象 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top
サンタが橇(そり)で飛んできた!
「サンタが橇(そり)で飛んできた!だと?寝言を言うなっ!このば~か!」
「いや、いや、ホントなんですよっ!」

「えっ、えっ!?」
「下の写真を、篤と御覧じろ、って、ね!」

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「どうですかっ?サンタさんの橇が少しづつ動いて来ているのが、お判りですか?」
「俺のような老人には、少なくともそうは見えるが・・・」

「やっぱり、騙されましたか??」
「う~ん、どうなってるの、これって?」

「額縁の保護ガラスに、トイメンのサンタさんが写っているのを、角度を変えて撮影しただけ!」
「ほ、ほっ~、面白いじゃん!」

「ねっ、ねっ!」
「それで、トイメンのサンタさんは?」

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「これが、そうなんです! 最初の画像は、ガラスに映っている‘虚像’ですから、左右が逆にっ!」
「今度は、少しづつ角度を変えて‘連続移動’の写真を、お願いっ!」

「‘このば~か!’は何処へ行ったのです?」
「ご免!」

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「まだまだ、あるの?」
「この真下の画像も‘虚像’の部分が・・・」

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「実像が、こちら!」

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(つづく)
[2017/12/25 13:08] | 仰天! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
冬を彩る!
今年2017年は、明日が冬至だから、本格的な冬である!

我が家の玄関先にも、‘冬何するものぞ’とばかり咲き誇っている花がある!
花は、遠くからの眺めもよろしいが、細かいところまで、つまりミクロな部分でも、よ~く見てみると神秘的な美しもある!

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拡大してミクロの世界を見てみると想像もつかない映像に出くわすことがある!

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出典:http://blog.livedoor.jp/loveai0221/archives/32106498.html
ラズベリーの葉の上にあるチョウの卵

こんなミクロの世界を覗きたいものである!

(つづく)
[2017/12/21 23:31] | 季節のど真ん中 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
霜の様子
2017年12月の中旬以降、めっきり冬が身に沁みる気候になった!

ここ房総半島、千葉県は茂原市の我が家の近辺もここの所、毎朝‘霜’が降りている!
昨日、2017年12月19日の朝の風景と霜の様子をカメラが捕えた!

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霜とは一体何?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%9C
(しも, 英: frost[1])とは、0℃以下に冷えた物体の表面に、空気中の水蒸気が昇華(固体化)し、氷の結晶として堆積したものである。地中の水分が凍ってできる霜柱(しもばしら)とは異なる。

概要[編集]

空気と接触している物体の表面の温度が霜点(温度が0℃以下のときの露点のこと)よりも低くなると、空気中の水蒸気が昇華し、物体の表面に微細な結晶構造を持つ氷が成長する。この結晶のこと、あるいはこの現象自体を霜と言う[2]。着氷現象の一種である。

日本語では、霜が発生することを「霜が降りる(おりる)」「霜が降る(ふる)」と表現することがある。「霜」という言葉は冬の季語である[3]。

地域的には、寒帯、冷帯のほか、温帯や乾燥帯、あるいは標高が高い場所などの冬の寒さが厳しい地域でみられる。緯度や標高が同程度ならば、内陸部の方が放射冷却が起こりやすく、最低気温が低いので多く見られる。冬を含む寒い時期に、風も弱く穏やかに晴れて放射冷却が発生し、気温がおよそ5℃以下まで下がった朝、地面付近の温度は気温よりも数℃低い0℃以下となり、霜が降りることがある。気温がさらに低い場合は昼間でも発生し、一日中霜が融けないことがある。なお、風が強いとき、雨や雪が降っているときは地表の冷却が進まなかったり霜の成長が阻害されたりするため、気温が低くても霜が降りないことがある[4]。

周囲より少し窪んだ地形の場所や、谷底などでは、冷気が溜まりやすいため霜も降りやすい。こういう地域は霜道や霜穴などと呼ばれている[2]。

霜は、植物の葉や茎、地面、建物や車の窓などに付着したものが良く目立つが、空気と接触しているあらゆる物体にできる。積雪の表面にできるものもある[2]。

霜の結晶の形は、雪の結晶と同じように様々なものがある。主に針状、うろこ状、羽根状、扇子状等の類型が知られている[5]。表面がつるつるとしたガラスの表面では、さまざまな形状の結晶を観察することができる。


(つづく)
[2017/12/20 22:48] | 気象 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
今季初の薄氷!
今季初の氷かも知れないと、2017年11月12日の本弊ブログに書かせて貰ったが、やはりそんなに早く今季初の薄氷が張るはずがないに違いない!

今朝、2017年12月19日の小川は、正に今季初の薄氷だった!
房総半島・千葉県茂原市の最低気温は、-2℃だったのである。

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誠に不思議な氷の結晶が見られた!

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③DSCN5362-2
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丸で抽象画でも見ているようである!

(つづく)
[2017/12/19 23:57] | 季節の変り目 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
2017年吊るし柿第2弾!:清さんの柿
2017年、今年も親友・清さんが、お忙しいのに大量60個もの渋柿を贈ってくれた!

12月9日から干して今日18日に取り入れたから、10日も経っていないが見事に美味い吊るし柿になった!

<2017年12月09日>

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吊るし柿に‘カビ’をつけないコツは、渋柿を剥いた後直ぐに‘熱湯’に数秒間(5~10秒)浸けて殺菌をすることである!

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<2017年12月18日>

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③DSC_4465-2
④DSC_4462-2
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清さ~ん、来年もお願いしま~す!

(つづく)
[2017/12/18 23:56] | 感激! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
高圧洗浄機の威力!(その2)
我が家の玄関のタイルは、ここ一年間高圧洗浄する機会がなかったこともあって、‘かなり真っ黒’になっていた!
寒さにめげず、昨日(2017年12月16日)に大分性能の落ちた高圧洗浄機を使って・・・。

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これが、左上の3枚だけを洗浄した画像!

その後、全部を洗浄して、今朝(17日)、明るい太陽の下で撮影した様子が下の画像!

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見違えるように綺麗になっている!

玄関前には、この面積の約5~6倍の広さの‘真っ黒’になったコンクリートがある!
多分、懸命に頑張っても7~8時間は掛かるかも?

(つづく)
[2017/12/17 11:40] | 感激! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
高圧洗浄機の威力!
今年、2017年ももう余すところ2週間!
大掃除の時期である!

この一年間は忙しかったために、玄関前の高圧洗浄機での掃除を怠っていた!
本日、12月16日、思い立って高圧洗浄機で・・・。

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高圧洗浄機の威力は凄い!

但し、案外時間的には広い範囲の洗浄は厄介である!
今日は、3時間ばかり掛かったが、予定の半分も進まなかった・・・。

明日もまた頑張って・・・。

(つづく)
[2017/12/16 23:48] | 感激! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
2017年12月14日の富士山!
私が住んでいる房総半島は千葉県の茂原市から富士山が見えると言う事を発見した方は、我が家の斜めトイメンにお住いの‘Mさん’ご夫婦である!

勿論、茂原市から富士山が見える場所は沢山あるのだが、そんなに沢山はないし、直線距離で‘約100km’もあるので、その大きさは、とても小さくしか見えない!

そして、また約100kmもあるので、富士山が見える時季は、空気の澄んだ時季、つまり‘冬の時季’に限られる!

今日、2017年12月14日は、以下の図面に見られる通り、最高気温が11℃と言う事で、水蒸気は少なく富士山が見える可能性が高い!と感じていたのである。

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夕刻、散歩の途中で、久し振りに‘Mさんご夫婦’に出会った!お聞きしてみると、ここの所夕刻には、富士山が見えると仰せである!
発見された特定場所へ行ってみると、‘万ざ~い!’裸眼でも見えるではないか!

直ぐに取って返してカメラを持ち出した!

<2017年12月14日16:34>
①DSCN5272-2
②DSCN5272-3
③DSCN5273-2
④DSCN5274-2
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<2017年12月14日16:46>
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富士山も刻々と表情を変える!

富士山も何か月か振りだったが、やっぱり素晴らしい!
これからが富士山の季節!冠雪の富士山が朝方見られるのは未だ一寸先かも知れない・・・。

(つづく)
[2017/12/14 21:09] | 富士山 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
博多の印象(その10):大濠公園・日本庭園<3>
大濠公園・日本庭園のその<3>である。

都会の喧騒から逃れる手段は沢山ある!

休暇の時に、或いはわざわざ休暇を取って静かな人里離れた遠くへ車や電車で行ってみる事など考えれば、その案は限りなくあるに違いない!

ところが不思議なことで、そんな‘都会の喧騒から逃れることの出来る場所’の付近に住んでいる人達は、逆に‘都会の喧騒’に憧れている傾向にあるらしい・・・。

「そりゃあそうだと思うよっ!」
「あなたもそうだったの?」

「そう、そう・・・」
「田舎に住んでいると都会に憧れるのは、‘本能’かも知れないですねえ?」

「そう、そう・・・」
「おや?今日は‘そう、そう’ばかりで、どうしたんです?」

「そう、そう・・・」
「都会へ出て来て、‘喧騒’が嫌になり、大濠公園の日本庭園へ行ったことがある、とか?」

「そう、そう・・・」
「‘そう、そう・・・病’に罹っていますナ、これは・・・」

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前回も書かせて貰ったが、「この水は、一体何処から?」と言う訳で、水源を探しに一寸奥へ入ってみた!
こんな‘興覚め’なことは、こんな立派な日本庭園でやってはいけないことなのだろう!

が、一寸・・・。

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やっぱり、‘ホース’で・・・。(申し訳けありません!)

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相変らず結婚記念の撮影は続いていた!

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目の前が、大濠公園である。

ところで、気になるのは、この素晴らしい日本庭園の評価などというものがあるのだろうか?
調べてみた!

出典:http://gardenrankings.com/

Screenshot_20171213-103732-2.png
Screenshot_20171213-103748-2.png
著者注):この14位は、大濠公園であって、大濠公園・日本庭園ではない?

「おや、おや、第14位!」
「他にもご立派な日本庭園があるってこと?」

「そう、そう・・・」
「じゃあ、年末ジャンボが当たりでもしたら、日本庭園巡りでもやってみますか?」

「そう、そう・・・」
「こりゃあ、相当いかれているっ!」

(つづく)
[2017/12/13 11:58] | 都会の喧騒! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
博多の印象(その9):大濠公園・日本庭園<2>
大濠公園・日本庭園の<2>である。

日本庭園には、何百年もの日本人の知恵と技術が凝集しているから、派手派手では決してないが、力強い職人の上品な意識が見え隠れする!

芸術作品には、度々ど素人には理解出来ない独善的なものがあったりする。
ご自分では、何の感動もしないが、他人様が「素晴らしい!」と仰るので自分もその気になったりすることがあるのである。

本当の芸術とは、その道の玄人にも、またまたど素人にも‘感銘’を与え得るものでなければならない!

世の中には、そんなものはそう沢山あるものではないが、ここ大濠公園・日本庭園には、その‘本物の芸術’が存在する!

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御覧の通り、水にも‘動’と‘静’がちゃんと準備されているのである!

この水は、一体何処から来ているのだろうか?
一寸気になった・・・。

(つづく)
[2017/12/12 10:36] | 芸術 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
博多の印象(その8):大濠公園・日本庭園<1>
今年、2017年11月の中旬、昔懐かしい博多へ行く機会があった。

私が博多・福岡で暮らしたのは、もう50年以上にもなる昭和34年(1959年)からの8年間だった!

博多と福岡、名前で色々‘揉める’こともあるようだが、博多は商人の街、福岡は武士の地区、どちらの人達も、みんな根っこは同じサッパリした性質の人ばかり・・・。

さて、今年、2017年11月中旬に久し振りに訪れてみると、やはり‘浦島太郎’状態だった・・。

「そりゃあ、そうじゃろもん、50年以上も前ですバイ!変わらん方がおかしかたい!そうでっしょ?」
「でも、何となく寂しかですナ!」

大濠公園に行ったことは、先般この弊ブログで紹介させて貰ったが、その帰り道に「大濠公園・日本庭園」に立ち寄ってみた。
この素晴らしい庭園は、私が居た当時にはなかった・・・。

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http://ohoriteien.jp/about/
日本庭園の概要

この地はかつて、博多湾の入り江で、慶長年間に黒田長政が福岡城を築城した際、入り江の北側を埋め立て、城の外濠としました。昭和2年にこの地で開催された東亜勧業博覧会を機に公園造成工事を行い、昭和4年に大濠公園として開園しました。
この日本庭園は、大濠公園開園50周年を記念して築庭し、昭和59年に開園した築山林泉廻遊式の庭園です。敷地面積は約1.2ヘクタールで、白壁の築地塀と樹林に囲まれた園内には、大池と築山の大池泉庭、曲水の流れ、枯山水庭、数寄屋造りの茶室と露地庭などが配置され、これらをつなぐ園路によって廻遊するようになっています。
築山は厚い植栽で都市の騒音を遮蔽し、その中央に大滝を配し、築山の狭間に渓流の滝、東築山に布落ちの滝を設け、深山幽谷の景を呈しています。この滝口の地割・石組の手法は日本庭園が技術的、芸術的に最も優れた時代である中世の作庭技法を用いています。また、大池に続く、下流の流れと小池及び枯山水庭は静寂で明るくのびやかな近世中頃の作庭手法によっています。


こんな素晴らしい日本庭園はめったに見たことがない!

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おやおや、偶然、結婚式の新郎新婦に出会った!

「おめでとうございま~す!」
「ありがとうございます!」

それは、それは、にこやかで嬉しそう!

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(つづく)
[2017/12/11 18:26] | 新発見! | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
今季(2017年12月)の霜(その2)
今季(2017年12月)の霜(その2)である。
今朝、12月10日の朝、はっきりと霜が庭に降りていて、8時過ぎでも消えていなかった!

ここ、房総半島千葉県・茂原市にも、いよいよ本格的な冬の到来である!
霜の結晶も、また美しい!

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②DSC_4356-3
③DSC_4363-2
④DSC_4363-3
⑤DSC_4363-4
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⑧DSC_4359-2
⑨DSC_4359-3

ここまでの霜の結晶が出来るには、目には見えない世界では、‘徹夜で’盛んに氷の成長が行われている!

例えば、‘10時間で1mm’の氷が出来るとすると、1秒間では、

1mm÷3,600sec=(1mm=1,000μm)÷3,600sec=1μm÷3.6sec=0.28μm/sec

つまり、‘1秒間に0.28μm’成長していることになる!<注:水の一分子の大きさは、どこをどんな測り方をするかによって違いがあるらしいが、およそ3オングストローム(Å=10‐10 m)=0.0003μm>

水の、あるいは氷の構造については、未だに研究が進んでおり、水の種類やその環境状況や測定時の温度との関係もあったりして、そう簡単には大きさも決められない(?)状態らしいから、1秒間に氷がどれ位出来たかは、なかなか判らない!

しかし、しかし、そこらの草っ原では、温度さえ下がれば、人間様の研究とは無関係に、さっさと氷を形成している!
やっぱり不思議である!

(つづく)
[2017/12/10 12:48] | 田舎暮らし | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
今季(2017年12月)の霜
今季、2017年12月9日、房総半島・千葉県・茂原市の我が家付近も、遂に最低気温が、マイナスになったという!

Screenshot_20171209-095433-2.png

茂原市での気温測定地が、茂原市のどこかは知らないが、我が家付近では、霜は降りているものの、小川に氷は張っていない!

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御覧の通り、車庫から外に出していた車には、‘霜の結晶’が見られる!
この表現が正しいかどうかは知らないが、結晶は不思議である!

この結晶が見せる造形は、その場所での条件によって異なるだろうから‘予想がつかない’という面白さがある!

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一寸、手形をつけて結晶を溶かしてみた!

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この結晶は、当然水分が無ければできないが、昨夜は久し振りに小雨が降ったお陰である!

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見飽きない面白さがある!

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小川に氷が張るのは、もうそろそろだろう!

(つづく)
[2017/12/09 10:35] | 気象 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
博多の印象(その7):大濠公園
今年2017年の11月の中旬、何十年振りかで、福岡市の‘大濠公園’を散策した。
博多・福岡へ行く機会は、2~3年に一度はあるのだが、‘大濠公園’へは足を延ばすことは出来なかった!

‘大濠公園’は、その規模と言いその美しさと言い、日本でも第一級の公園という認識が4~50年前にはあったのだが、今回行ってみて周りにはビルが一杯で、素晴らしいというその面影はほとんどなくなっていた!

残念だが、都会の成長というトレンドを‘素晴らしい’と思うか‘悲しい’と思うかは、人によって違うに違いないのだが・・・。

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%BF%A0%E5%85%AC%E5%9C%92
大濠公園(おおほりこうえん)は、福岡市中央区にある福岡県営の都市公園(総合公園)である。国の登録記念物となっている。また、同公園を町域とする同区の町名でもある。郵便番号は810-0051。

大濠公園
大濠公園_(3359545709)
分類 都市公園(総合公園)
所在地
日本の旗 日本
福岡県福岡市中央区大濠公園
座標 北緯33度35分9.1秒 東経130度22分34.5秒座標: 北緯33度35分9.1秒 東経130度22分34.5秒
面積 39.8ヘクタール
開園 1929年(昭和4年)3月
運営者 福岡県(指定管理者:西鉄ビルマネージメント株式会社)
設備・遊具 日本庭園、能楽堂、ボート池、児童遊園、ジョギングロードなど
駐車場 103台(普通車)
事務所 大濠・西公園管理事務所
事務所所在地 〒810-0051
福岡県福岡市中央区大濠公園1-2
公式サイト 公式サイト

概要
福岡城の外濠で、入り江でもあった草香江をもとにした大きな池が特徴的な公園である。池を貫くように島がいくつか存在し、それぞれが橋でつながっているので、中央部を経由して池を全体を渡ることができる。付近には福岡城址(舞鶴公園)、福岡市美術館、NHK福岡放送局などがあり、福岡市民の憩いの場として親しまれており、周囲がほぼ2km(正確には1,921m)とキリの良い距離のため、サイクリングやジョギングをする人も多く見られる。春には近隣の舞鶴公園や西公園とともに、花見の名所ともなっている。著名人の中でも、王貞治は東京の桜の名所の近くで育ったため、花見のシーズンが近づくとそちらのものを思い出すことが多かったが、福岡での生活が長くなったため、大濠公園等の桜を思い出すことが増えている旨述べている[1]。また、毎年8月1日(雨天の時は翌日)には西日本大濠花火大会が開催されており、福岡市の夏の風物詩として知られている。
園内には、新婚旅行中のマリリン・モンローとジョー・ディマジオがロイヤル中州本店時代に立ち寄った時のテーブルと椅子がそのまま使われた[2]レストラン「花の木」が2013年5月31日まで営業していたが、老朽化の為同日を以て閉館した(ボートハウスは2013年のシーズン一杯まで営業)。なお、大濠公園便益施設の公募コンペに再び選ばれたことから、「花の木」は2014年秋を予定に復活することが決定し[3]、2015年2月5日に「ボートハウス 大濠パーク」の一店舗として復活した。「Room 1953」も引き続き健在[4]。

歴史
[編集]
この場所一帯は草ヶ江と呼ばれる入り江で、博多湾に続いていた。筑前福岡藩初代藩主となった黒田長政により、入り江の一部が埋め立てられ、天神を通り那珂川へ掘られた肥前堀と共に、福岡城の外堀として城の護りとした。明治維新で福岡城が廃城になると、肥前堀が埋め立てられたことにより水の循環が滞った。そのため夏季にはやぶ蚊が大量発生するなど環境悪化の原因になるため、明治末以来この大堀を埋め立てる計画がいくつか立てられた。
一方で、1915年(大正4年)には埋め立て計画を報じる新聞紙上で松永安左衛門の遊園地化案が紹介されたほか[5]、1919年(大正8年)には団琢磨が大堀の埋立反対と公園化の提案を地元紙に掲載した[6]。1924年(大正13年)、福岡市は東公園の松林の樹勢復活のために東京帝国大学農学部教授の本多静六教授を招聘したが、本多は一緒に視察した西公園から見下ろした大堀に注目して、大堀の公園化を主張。翌1925年(大正14年)、本多は助手の永見健一と共に再び福岡を訪れて、公園整備計画「福岡県経営東公園西公園大堀公園改良計画」を提出した。
同じ頃、福岡市は東亜勧業博覧会の開催を計画しており、県は市の博覧会準備委員会に整備事業の促進を依頼させることで、公園の整備費を県議会で可決させることに成功。外堀の約14万坪のうちの7万坪を埋め立てには、大堀を浚渫した土砂に加え、当時福岡市で行われていた薬院から六本松への道路開削工事で排出された25万tの土砂が用いられた。当時の金額で総額約45万円かかる工事費は、外堀西側の埋め立て地3万坪を住宅地として払い下げることにより償還している。東亜勧業博覧会は、1927年(昭和2年)3月から約2か月開催された。その後、福岡県が造園し、1929年(昭和4年)3月に公園として開園した[7]。
終戦後には進駐軍の兵舎が設置されたが、1975年(昭和50年)に山陽新幹線開通を記念して開催された福岡大博覧会(福岡博)の会場として、公園東側を中心に再整備された。開催後、跡地に福岡市美術館や遊具施設が整備されたほか、1990年代にはジョギング・サイクリング用の道路が整備され、現在も都心の公園として多くの人が集まる。


出来るだけ周りのビルが写らないように・・・。

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この後、最近出来たという‘大濠公園・日本庭園’へ・・・。

(つづく)
[2017/12/07 12:29] | 散策 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
2017年12月03日と04日の満月
2017年12月03日の満月(月齢:14.61)を自分勝手な‘バカチョン方式’で撮影した!

どうやら12月04日00:47からスーパームーンらしい!

場所:千葉県茂原市千沢
時刻:20:12

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①DSCN5220-2
④DSCN5218-4
⑤DSCN5218-3
⑥DSCN5218-6
⑦DSCN5218-5
②DSCN5218-2

https://irorio.jp/sophokles/20171130/427563/
スーパームーン
12月4日午前0時47分から

国立天文台のホームページによれば、月が正確に満月になるのは「12月4日に日付が変わったばかりの0時47分」。その後17時46分に、地球との距離が最も近くなる(357,000km)とのこと。

この時の月は普段よりも7%大きく、16%明るく見える。

下にあるのは国立天文台が大きさを比較したイメージ図。最大に見えるスーパームーンと、最少に見える2017年6月7日の月を並べてある。


supermoon001-2.jpg

さて、12月04日の0:47が月齢が、ほぼ15.00に近いという。
雲の出具合との関係で、撮影したのは、12月04日1:06(月齢15.00から19分遅れ)だったが、下の画像が撮れた!

<2017年12月04日01:06>
DSCN5225-4.jpg

改めて、12月03日の20:12の下の画像と比較してみると、満月に近い感じがする!

<2017年12月03日20:11>
②DSCN5218-2

直上の画像は、約5時間前のものだが、明らかに月が( or 地球が)回転していることが解る!

(つづく)
[2017/12/04 10:09] | | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
‘あゝ上野駅’の歌碑(モニュメント)
先般もこのブログに書かせて貰ったが、私たちの世代には涙なしには聴けない「あゝ上野駅」という名曲がある!


出典:https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%82%
E3%81%82%E4%B8%8A%E9%87%8E%E9%A7%85
+%E4%BA%95%E6%B2%A2%E5%85%AB%E9%83%8E


少し前に、この記念モニュメントが上野駅の直ぐ傍にあることに気づいた!

場所は、上野駅の広小路口が見えるところである・・・。

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この上の画像の左が、モニュメントの場所である!

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大体の場所はご認識が出来たと思われるので、このモニュメントをご紹介したい。

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モニュメントの元になった‘金の卵’の画像は、この上の写真なのだろう!



[2017/12/03 08:40] | 歴史 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top
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